40「歌舞伎町の夜」

「ま、逃げられちゃったものは仕方ないわね。考えなくちゃいけないのは、これからのことよ」


 紅はそういって湯呑を分厚いガラステーブルに置くと、物憂げな表情でしきりに自分の髪をいじっていた。


 場所は新宿にある四鷹会の事務所である。いかにもなその筋の一室で上総たちは黒瀬とこれからのことを話し合っていた。


 日暮里で怪人と化した桑原を撃退した上総たちは、警察が到着する前に手配したバンでその場をあとにしていた。


「嬢ちゃんのいうとおりだ。オレたちは後手に回り過ぎた。これからはこっちから攻めてかにゃあならいだろうな」


 黒瀬はごつい指で額に巻いた包帯を鬱陶しそうに触っていた。上総が、うわぁ痛そうという目で見ていると黒瀬ははみ出した血の塊を削り落としている。顔を顰めているところを見ると、かなり深く切れているのだろう。


「で。なによ上総。さっきからやたらにキョロキョロしてるけど」


「そうですよー。勇者さまも、お茶をお飲みになって落ち着かれたいかがですか」


「このカントリーモアム、とっても美味しいですわ」


「あ、あのなぁ。ここは組事務所だぞ。おまえらも少しは緊張しろよ」


「アンタビビり過ぎ。どんだけ肝が小さいのよ」

「うるさいな。俺は小市民代表なんだよ……」


「勇者さま、クリスにはこのお部屋、いたって普通に見えるのですが」


「雰囲気だよ、雰囲気」


「ま、そう固くなるなよ上総。ここが組事務所だからってなにがどうってわけじゃねぇ。表向きは普通の会社として登録してあるわけだ。別段どうってことはない。オイ」


 黒瀬が声をかけると扉の前で控えていた舎弟の山本が礼儀正しい動きで空になった上総の湯呑に茶をそそいでゆく。上総は愛想笑いをしながら山本を見るが、かなり深い鬼ゾリの入った髪形を別にすれば堅気の人間と変わった部分はないように思えた。


(にしても、こんなとこでのんびりお茶飲んでてもいいのかな)


 ずずっと音を立てて上総が茶を啜ると対面のソファに浅く座っていた紅がキュッと眉を寄せていった。


「兎島りんは機関の本部で匿っているから大丈夫。変異体の桑原洋治はアンタがたっぷり痛めつけたんなら、すぐに再襲撃はないわ。あたしたちはこれから黒瀬さんと相談して新宿でクリスタル・トリガーをバラ撒いている大本を探し出すのが先決よ」


「それは確かにそうなんだが――」


 リリアーヌから差し出されたカントリーモアムを受け取った瞬間、階下から男たちの叫びが響き渡った。


「な、なんだ、なんだ?」

「騒々しいですわ」


「姫さま、これが噂の|喧嘩(でいり)ってやつです!」

「黒瀬さん、状況を」


 上総たち異世界組が慌てふためくのと対照に紅は落ち着き払った態度でいった。


「おい、ちょっと見てこい」

「は」


 舎弟が外へ出ようとするよりも早く、もの凄い勢いで銀縁眼鏡をかけたパッと見は都市銀行に勤めていそうな男が飛び込んできた。


「若頭?」


 部屋に飛び込んできた男は四鷹会の若頭である及川だった。続いて及川の世話係である武藤が部屋に入って厳重に施錠をする。これはただごとではないと感じて上総はソファから腰を浮かせた。


「黒瀬ェ! 一体全体こりゃあどういうことになってやがるんだ! 表をワケのわからねぇ連中が囲んでやがるぞ!」


 及川は客人である上総たちの目の前にもかかわらず、黒瀬の胸元に掴みかかると血相を変えて怒鳴った。


「ちょっと待ってください。するってえとウチの組がよその組からカチコミを喰らったってことですかい?」


「そうじゃねぇ、そうじゃねぇが。とにかく見たほうが早い!」


 上総は黒瀬や及川と連れ立って窓際に移動した。外からの攻撃をさけるため、五階の部屋はブラインドを下げてある。目敏いクリスが先んじてブラインドを巻き上げると階下の情景が一同に晒された。


 深夜の新宿である。


 しかも週末であるならば、多少の人込みはあたりまえの光景ではあったが、四鷹会ビルの玄関口はさながらゾンビ映画の冒頭シーンのように群衆であふれ返っていた。


 事務所は日本有数の繁華街歌舞伎町の近くである。その事情を考えても道路の敷石が見えないほど人が密集しているのは異常事態だ。


「今日はなにかイベントでもあったか?」

「いえ、聞いておりませんが」


 黒瀬が舎弟に訊ねるが当然そのような話はなかった。上総は眼下の群衆から放たれる鬼気に魔術的要素を感じわずかに表情を曇らせる。


「リュウさん。アイツら普通の人間じゃありませんよ」

「――なら、下のやつらはそっち関係ってことなのか」


「おまえたち呑気に喋くってる場合じゃねぇぞ! 様子を見に行った組の若いもんが袋叩きにされたんだっ。おれらの組が的にかけられてんのは明々白々じゃねぇか! 黒瀬もとっととアレをどうにかしろやっ」


「若頭、とにかく落ち着いてください。オレたちでなんとかしますんで」


「よりにもよって、なんで頼りになる幹部たちが出払ってるときにこんなことが起きんだよォ。ついてねぇ……えひんえひん」


 及川はヤクザのくせによほどメンタルが弱いのか、机に両腕を突いて泣きべそらしきものをかきはじめた。そのあまりの情けなさに母性本能が刺激されたのかリリアーヌが慰めに入る。


「組長さま、お気を確かに持ってください。わたくしたちにはカズサさまがついていらっしゃいますわ」


「姫さま、この方組長さんじゃございません。若頭さんですよう」


 メイドのツッコミはさておき。


 高齢の組長が半ば引退同然の四鷹会では、黒瀬直属の上司に当たる若頭の及川が実質上のトップであった。


 だが、及川はいわゆる資金集め得意でのし上がった経済ヤクザであり、こういった事務所襲撃などの荒事にはまったくの不向きである。


 まとめ役で事務所の各種処理を請け負う本部長の新藤がこの場に不在の今、現場に出て迎撃の総指揮を執れるのは黒瀬しかいなかった。


「情けないわね、ヤクザのくせに。アンタがここの頭なら若いもんの先頭に立ってワケのわからん連中をどやしつけてやればいいじゃない」


「く――紅さぁああああんっ?」


 紅がネイルの具合を確認しながらつまらなそうにいった。上総がまるで物怖じしない彼女の暴言に激しく動揺して叫ぶ。


(ちょ――ここはヤクザの組事務所なんですよ? 言葉を選んでくださいよおおおっ!) 


 実際、元勇者である人間兵器の上総からしてみれば日本中のヤクザが総まとめで襲ってきてもたいした脅威にはならないのだが、それはそれとして幼少期から(ヤクザ=恐怖)のイメージが刷り込まれているのでこのような過剰反応になってしまうのである。


「ぷ。なにアンタ面白い顔してんのよ。なんか笑えるんですケド」


 紅が上総をからかっていると、黒い陰鬱な妖気を纏った及川がゆらりと立ち上がった。


「姉ちゃんよう、退魔巫女だかお役人だか知らねえがおれを誰だと思っていやがる」


「喧嘩の弱いヤクザ」

「ちょ――!」


 上総が奇声を発する。及川は机の上にだんっと足を置くと叫んだ。


「あー、そうだよっ。おれは喧嘩は嫌いな現代のヤクザだよ! いっつもことあらば銭と黒瀬に頼って解決してきたんだ。そして、そいつはこれからも変わらん。未来永劫にな。正直、クリスタルなんちゃらっていう新種のヤクなんざどうでもいいが、ここまで組の看板に泥塗られて黙って引き下がれるかってんだ! ――てなわけで、あとは頼むぞ黒瀬。おれは隠れる」


 及川はそういうとゴキブリのような動きで部屋中央のガラステーブルの下へと逃げ込んで丸くなった。


「若頭……」


 黒瀬がガックリと首を折ってうなだれる。上総は黒瀬の筋肉で盛り上がった広い肩をポンポンと叩いた。


「リュウさん。とにかく今は下のやつらをなんとかしないと」


 リリアーヌはポカンとした表情でテーブルの下で震える及川を見つめたあと、黒瀬に向かっていった。


「わたくし、正直に自分の弱さを認められる人間は偉いと思いますわ」


「姫さんにそういってもらえると、オレもいくらか気が楽だぜ」


「てか、アンタたちのコントなんてわりとどーでもいいんだけど。ホラ、そこの雑兵。状況を報告しなさい」


 紅はシュガーステックの袋を指揮棒のように動かして茫然と立っている武藤に命じた。


「う。それが、ついさっきですが、ビルの入り口で妙な目をした堅気の兄ちゃんたちが棒切れやらバットやらを持って騒いでいたんで、軽く追っ払おうとしたところ、多勢に無勢ってやつで囲まれてタコ殴りに。なんとか逃げ出してここまで来たものの、ご覧のありさまなんで……」


 武藤がそこまでいうと黒瀬が肩を揺すって渋い声を出す。


「武藤よ。今、事務所に残ってるのは、おまえ以外に五人だけか」


「へ、へい。ただ、尾関は半殺しにされたんで下の部屋で休ませてます」


「クソ」


 黒瀬の話によれば、今階下の最前線に残っているのが今井、吉川、原西、細野の四人のみである。尾関は負傷により脱落。応接室にいる黒瀬と及川、それに若中の武藤と山本を加えて総勢八名が、今現在における四鷹会の全戦力であった。


「手薄なところを狙って来やがったな」


「――あとの連中は新宿で例のクスリ探しを。連絡もしているんですが、どうも携帯に繋がらないやつもいるんで」


「武藤よ。もし連絡がついたらそいつらには事務所に戻るなと伝えろ。二十や三十、外から集まったって相手がこれじゃあ焼け石に水どころかかえって危険だ。外のやつらは数百どころじゃねぇ」


 上総は鷹よりも鋭い視力で表の群衆をジッと凝視した。確かに黒瀬がいうとおり、外の人間たちは身体から発するオーラに色濃い魔力を帯びていた。これは明らかに、異世界側の者が操っている証拠である。


「上総。どう考えても外の連中はオレたちと同業のもんじゃねぇな」


「ええ。どこでどう俺らのことを嗅ぎつけたかはわかりませんが、新宿にクリスタル・トリガーを撒いて、桑原さんやクリスのストーカーをあんなふうにした敵の黒幕の差し金と考えていいでしょうね」


「しかし妙だな。このビルはただのオートロックだ。なんでやつらはガラスをぶち破って無理やり入って来ねえんだ?」


「黒瀬さん。それはあたしがここに来たときちょっとした結解を施しておいたからよ。でも、敵が本腰を入れてきたら外の群衆が雪崩れ込んでくるのは時間の問題ね」


 紅がひゅっと口笛を吹くと天井の排気口から身体をくねらせながら外道丸が姿を現した。


「様子はどう?」


「いやぁー、まいったまいった。オレっちもさすがにあの数はびっくりだよ。なんせ、通りの向こうまでみっちり人で埋まってるんだもん。二、三千は集まってるって」


「イタチが喋った……!」


 及川が人語を器用に操る外道丸を見て激しくうろたえる。武藤も目を見開いて驚いていた。


「だーかーらオレはイタチじゃなくって管狐の外道丸さまだっていってるだろ。頭固いヤクザ屋さんだねぇ」


「しかし三千とはなあ。一個旅団はあるな」


 上総が具体的な数を口に出すと及川たちの顔に怯えが走った。通常の団体が抗争に至ったとしても、今は戦国時代ではない。よくて数人から十数人程度の殴り込みしか予測していない及川たちにとっては想定外過ぎる数なのだ。


「そうだ! 警察は? こういうときのためにつけ届けをしてるんじゃないかっ!」


「若頭。ヤクザがサツに頼るようじゃおしまいですぜ」


「こんなもん極道の範疇とっくに超えとるわいっ。恥もクソもあるかっての!」


「悪いけど、さっきから警察や機関に連絡しているんだけど、電波自体がジャミングされてるわ。ついでに事務所の回線も切られてるみたい」


 紅が「頼んだピザがまだ来ないの」という世間話程度の口調でいうと、若頭の及川は再び素早い動きで移動しテーブルの下に怯えて縮こまった。






 闇の中、桑原は激しくあえいでいた。


 人気のないかび臭い路地裏を這いずるように進んでゆく。


 表通りからは人が行きかう気配や雑多な人々が出す音が騒がしく響いている。


 桑原は汚れ切った地面に両膝を突くと、げえと口から赤黒い血の混じった胃液を吐き出した。


 ギリギリだった。無理やり引っこ抜かれた顔は皮だけであったが、この身体に変貌してからはじめてといっていい強烈なダメージが蓄積している。


 なんだあれは、なんだあれは――!


 クリスタル・トリガーを常用してから得た無敵の肉体もあの雪村上総という男にはまるで通用しなかった。


「クスリ……もっとクスリを……!」


 のっぺらぼうに剥かれた顔の皮膚はすでに元通りになっているが激痛は消えない。


 特に酷かったのは鳩尾に喰らった膝蹴りだった。


 腹部が消えたかと思うほどの衝撃は毒のように身体の芯に残り痛みが消えない。


「ぐう……うるぐっ」


 あれほど恐ろしいと感じていたステゴロでは最強の黒瀬も自分の新たなる力の前では赤子の手を捻るようなものだったのに――。


 桑原は薄暗い通りで目的の店を見つけると、おぼつかない足取りで階段を下りてゆく。


 地下にある店は「CLOSED」の看板が下げてあるが、構わずドアノブを力任せに引いた。


 今はもう営業していないはずの店の中では優雅なピアノの音がゆったりと流れていた。


 音楽に詳しくない桑原も耳にしたことがある曲名である。


 妙なる調べを搔き乱すかのように、コツコツと自分の足音が大きく響く。


 元はバーだったのだろう。埃塗れの店内で放置されたピアノに座って鍵盤を叩く若く美しい女がそっと顔を上げた。


「あら、もうお帰りかしら。坊や、その分だと今回は上手くいかなかったようね」


 年齢は二十代半ばだろうか。雪のように白い肌の女は濃いブルーのドレスを纏い、やさしげな笑みを湛えたまま振り返った。


 驚くほど容貌は整っている。やや垂れ目である。女の碧眼には見る者を魅了する蠱惑的な力があり、ちらりとこぼれた白い歯と官能的な唇は男であるならば吸いついて思うさま嬲りたくなるような魅力があった。


 腰まで伸びている長い髪は澄んだ湖底を思わせるような青である。あきらかに人外めいた色合いであるが、コーカソイド特有の顔立ちには似つかわしく、その幻想的な雰囲気が独特の気品を生み出していた。


「クスリ……クスリを……っ!」


「しようがない子ね。ほかの子は、キチンといいつけを守ったというのに、あなたはママのいうことを守れなかったのかしら」


「お、お願いです。クスリを……!」


 桑原は崩れ落ちるように女に掴みかかるが、寸前で前のめりに倒れた。女は長く美しい脚を高く上げると椅子に座ったまま倒れ込んだ桑原の頭を踏みつけにした。


「お、おぐ、え……」

「いけない子。これはお仕置きちなくちゃ」


 ミュールの踵は桑原の後頭部を踏みにじる。桑原は痛みとも官能ともつかない呻き声を上げながら、ひたすらあえいだ。


「お、お許しください……グランバジルオーネさまぁ」


 魔王五星将のひとりである水のグランバジルオーネはひとしきり桑原を虐めたのち、小さく指を鳴らすと空間に出現させた水流を使って仰向けにひっくり返した。


「ダンジョンの生成と私の魔力の確保のためには、濃いマナを持っている人間がたくさん必要なの。もっとも……あなた程度ではロムレスの勇者にはかなうはずもなかったでしょうね」


 美貌の魔人グランバジルオーネはどこか遠くを見る目つきで暗い闇に視線をさ迷わすと、転がったままでいる桑原の口元目がけて手にしたボトルの口を開けて中身を振り撒いた。


「お……お……ぐおあっ……きく……これ……これ……んぐっ……んぐっ……っ」


 桑原は振り落ちるクリスタル・トリガーを寝転がったまま飲み干すと恍惚感に塗れた表情で目を爛々と光らせた。


 次の瞬間、桑原の華奢な身体は激しく震え出し、やがて異様な音を上げながら肉体すべてを変貌させてゆく。


「このクスリはあらゆる人間の根幹を書き換えてキメラに変える我が秘中の秘。カズサ、あなたをずっと待っていたの。そろそろゲームをはじめましょうか。私とあなただけの、ね」


 グランバジルオーネは明らかに欲情した瞳でそうつぶやくと、新たなる力を得た桑原の姿を楽しそうに眺めた。


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