東京ダンジョンマスター〜社畜勇者(28)は休めない〜

三島千廣

1章 秋葉原ダンジョン

第01話「勝負する前から負けていた」

「今日というこの日を一日千秋の思いで待ち望んでおりましたわ」


 総石造りの狭い地下の一室で、ある一国の王女が蠢く魔方陣を前にし長く息を吐き出した。


 艶やかな黒髪は腰まで届くほど長い。


 裾の広い純白のドレスは一点のシミもない光沢を放っていた。


「姫さま。今更ですがお覚悟はよろしいですか。この門をくぐれば、もはやロムレスには二度と戻れる保証はありません」


 すぐそばに佇んでいたメイド服の少女が整った顔に愁いを滲ませ静かに告げた。


 メイドの少女は銀のティアラも神々しい一国の王女に負けず劣らず美しかった。


 明るい栗色の髪が肩のあたりで魔方陣から放射される魔力の余波で波打っていた。


 “星跳び”と呼ばれるこの禁呪はロムレス王家に伝わる秘伝を逆手に取った術者を異世界へと渡らせる秘儀の秘儀である。


 ロムレス王国の王女リリアーヌ・フォン・ロムレスは、かつて勇者が魔王を倒してこの世界から消え去ったその後、一年かけて必死に書庫の魔道書を読み漁り、独自に探し出した最後の手段であった。


「本当に後悔なさらぬのですね、姫さま」

「心得ておりますとも」


「ほんとーに、ホントですね。いや、これ老婆心ながら本気でいっているのですよ。ゆめゆめお忘れなきように。あとになって、あのときクリスが止めなかったから! とかなんとかいわれても私、一切の保証は致しかねますからね」


「クリス? あなたはこの状況でどうしてそのような戯言を口にするのですかっ。わたくしたち、これで本当に最後かもしれないのですよ。最後の最後までこんなふうに、するのって……嫌です」


「姫さま、最後じゃないですよ」

「え」


「このクリスタル・ザラ。たとえ姫さまが地の果てまでゆこうが、たとえ屍になろうとも最後の最後までついてゆきます。だから、お別れなんてする必要ないのです」


「クリス、あなたって本当に……!」


「なんちゃって、ですけどね。本心では私もあのお方に姫さまと同じくらいお会いしたいです。だって、悔しいじゃないですか。私たちの心をさんっざんに振り回しておきながら、やることだけやったらちゃちゃっと故郷に帰っておしまいになられたあのお方にあって、ひとこといってやりたいのですよ」


「本当、クリスのいうとおり。それじゃあ、今度はわたくしたちふたりで押しかけていって、あのときの責任を取らせることと致しましょうか」


「ですね」


 王女とメイドは互いに顔を見合わせてくすりと微笑むと手を繋いだまま、異音を発しうずを巻く魔力の激流がたゆたう魔方陣の中へと飛び込んでいった。






「た、ただいま戻りました」


 元勇者現社畜の雪村上総ゆきむらかずさは四畳半のアパート自室に戻るなり力尽きたように倒れ伏した。


 ひとり暮らしの彼に応える相手はいない。

 これもいわば習慣というやつだった。

 玄関の沓脱へと前のめりに倒れたまま長くなる。


 じんわりと一日の疲れが身体中から染み出してゆくような快さがあった。


(きょ、今日も長かったァー。怒涛の九十七連勤達成だ)


 上総の軽く天パがかったクセっ毛がいつも以上にくるくるくるりとうず巻いている。


 身長一七八センチ、体重六十三キロとやや細身ながらかつて鍛え上げた身体は贅肉は未だなし。


 元勇者、というのは日々の労働に疲れた上総の妄言ではない。


 事実、彼は十五歳の春から十八歳の夏まで、俗にいう異世界召喚の術によりかの地へ導かれ見事に魔王を倒したという見事な業績があったが、一旦地球に戻ればそんなものは幼児の戯言ほどの価値も持たない。


 高校中退という輝かしいレッテルのもとようやくフリーター生活から抜け出られたのも、ここ数年のことであった。


 が、学歴も取り立てて技術もない青年を好待遇で迎えてくる会社もなく、日々身をすり減らすブラック業務に従事する日々があるだけだった。


「だが、あの世界よりかは、マシ……なにをやったってあの泥水を啜るような生活よりかはマシ……!」


 あろうことか上総は異世界で食うか食われるかの生活を送ったため、どのような不遇な雇用条件でもこらえてしまう耐性がついてしまっていた。


 これで人並みに己が境遇にケチをつけられる性格ならば、まだ救いはあったのだろうが、彼は異世界の姫に国を救ってくれと頼まれれば命すら投げ出してしまうお人好し。待遇改善などいざ知らず、仕えに仕えて、会社のほうが先に沈むことが幾度もあった。


「と、とにかく、今の会社を辞めなけりゃ、生きてはいける……生きていけるんだ」


 職種は営業である。

 ロクな販路も持たない新興の小規模会社。


 おまけに雑兵である彼に許される道は飛び込みのみ。

 成績は、聞くまもでなくといったところか。


 ギリギリの部分で命脈を繋いでいる上総はすでに慢性的な思考停止に陥っていた。


 ずりずりと這いながら短い廊下を進んでゆくとすぐ自室にたどり着いた。


 うつぶせのまま、左手でポケットの中から飴玉を掴むと器用に包装紙を剥き、口の中に放り込む。疲れたときは糖分が必要なのだ。


「ほ、補給完了。おお、なんと22:35分とは。人間並みの時間に帰れるなんて。奇跡じゃなかろうか」


 上総は器用にスーツの上着を脱ぐと、1DKの部屋をゴロゴロ転がりながら移動した。


「しかも明日は、なんと休みだ。神が与えたもうた安息の日。一日中だらだらできるなんて」


 ノルマも仕事の配分も上司の怒鳴り声も一切聞く必要がない。


 まさにストレスフリーだ。


 よろうばように立ち上がって、近所のスーパーで買った見切り品をレンジにかける。


 ぶおお


 という機械的な音だけがしばし上総の心に過去を振り返るゆとりを持たせた。


(久々の休みだっていうのに……なんの予定もないんだもんなぁ)


 上総は今年で二十八になる。高校、中学の同級生たちは次々に結婚し家庭を持ち、人間として取るべき道を選択し着実に歩んでいるというのに、自分はまだ人間の端緒にすらついていない。


 欲をいえば普通の青年のように恋もしてみたいし結婚にだって憧れる。


 かつて、夢想のような異世界で命を懸けて戦った日々には今の上総からは現実とは思えないロマンスも掃いて捨てるほどあったのだ。


 だが、狡兎死して走狗烹らるの故事もある。


 魔王のいなくなった世界でそれ以上の力を有する勇者の存在が後々の混乱を招くことは目に見えていた。


 上総が率いていた魔王討伐軍。


 いわゆる「メサイアパーティー」の七人はすべて同年代の女性だった。


 ゆかないで、と涙ながらに引き留められれば心も揺れ動いたのだが、当時十八歳だった少年は故郷に残したものが多すぎた。


 いわばあのときが分岐点。


 事実を述べれば異世界に留まったほうが上総にとってはハッピーエンドだったのだが、決断したのはほかの誰でもなく自分自身なのだ。


 ――すべてを受け入れて生きてゆくことは難しくても、現実とは戦わなくてはならない。


 それがクソみたいな会社であってもしがみついている理由のひとつだった。


(俺は勝ち組、就職してるから勝ち組、絶対勝ち組)


 完全なる思考停止である。上総はこの時点で軽く洗脳されていたが、もっとも問題なのはそれを指摘する親しい人間が周りに誰ひとりいないことであった。


「この国じゃ俺は落ちこぼれの営業マン。それでいいじゃないか。道は、きっとそのうち見つかるさ。さて、そろそろ温まったかな」


 ぴかぴか光りながら電子レンジのターンテーブルで踊っていた弁当が突如として異音を発しはじめた。


 ぶおお、という音が今にも地の底から悪魔大帝でも召喚しそうな勢いである。


「ちょ、ちょっと待った。いくら安かったからって、まだ買って一年も経ってねーんだぞ。やめてくれよな、チャイナボカンはっ」


 上総は慌ててレンジのツマミを停止にするが、機械本体から発せられる異音は唸りを上げて大きくなるばかり。

「ノオオッ。あたためできなくなるの嫌なのおっ」


 頭を抱えて騒ぐ。隣室から男の声で「うるせえっ」と叫ばれ壁ドンされ、上総は目の縁にうるっと涙を溜めた。


(なぜだ。神はなぜ俺にここまで試練を与えるのだ……!)


 同時に嵌めている腕時計や壁掛け時計がもの凄い勢いで逆転するのを見て、かつて味わった懐かしい感触に身震いした。


(あのときと同じだ……! 彼女が俺を異世界に召喚したあのときと)


 魔力の発現場所は電子レンジからだった。


 異音が一層強まると、部屋の窓枠がガタガタと揺れ、強い吐き気に似ためまいが上総を襲った。


 こうなればいかなる回避行動も取れない。


 ――未だ上総が勇者としての超人的身体能力をその身に有していたとしても。


 身体を一層強張らせたとき揺れていたレンジが

 ちーん

 と鳴った。


「ってそこかよっ!」


 思わずツッコミを入れざるを得なかった。


 うず巻く奔流のような勢いとともに開いたレンジの開口部から巨大な魔方陣が吐き出され、次に上総が目を開けた瞬間、目の前には白い豪奢なドレスを着た黒髪の少女と紺色のメイド服を着た栗色の髪をした少女が目を逸らすことなく上総を真っ直ぐ見つめていた。


「決して諦めてはいけないと、教えてくれたのはカズサさまでしょう?」


 白磁のような肌をした少女がそっと距離を詰めてくる。


 上総は両目を見開いたままおかしなポーズでいたが、やがて魔法が溶けたように唇を震わせた。


「リリアーヌ、それにクリスも――わぷっ」


 上総が王女とメイドの名を呼ぶが早いか、ふたりは感極まったように抱き着いてきた。


 キッチンの床に押し倒される格好で転ぶ。


 リリアーヌはわんわん泣きながら抱き留めた胸の中で号泣し、クリスは顔を肩に押しつけて静かに啜り泣いていた。


「ずっと、ずっと会いたかったのですよ、カズサさまっ!」

「勇者さまの薄情者っ!」

「なんだ、これ……夢か」


 目の前の少女たちは、上総が十年前異世界ロムレスで別れたときと寸分変わらぬ年恰好であたりまえのようにあった。


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