弐の戦 ≪ 寒い女 ㊤
『若者はもっと絶望したほうがいい。君たちに未来なんてないんだから』── 町田康
──────────────────
■ 陽向ケ原高校2年1組の生徒
父親である
結果的に、少女は、中学時代までの優秀な成績をまるで自虐するかのごとく、九九の詠唱と分数の足し算だけという前代未聞の試験を乗り越えてヒナ高の門をくぐった。
天文学的に気の毒なエピソードである。
そんな、思わしくない履歴書を持つこの少女に初めて声をかけた者こそ、次原伊織だった。入学して間もなくに催された社会見学、ただ1台の観光バスに1年生全員がおさまるという恐るべき参加率の低さを黙殺でもするかのようにして訪れた草津、その温泉饅頭屋の
『現実とは、こうも統制の執られないものなのでしょうか?』
人見知りで頭を抱えるのとはだいぶ異なる
『これは社会見学なのですよ? 実社会を学ぶための好機なのですよ?』
『コーキ?』
『義務教育課程で履修した右向け右の道義精神を、皆さん、どこに置いてきてしまわれたのでしょう?』
濃度の高い溜め息とともに問うものだから、次原、上顎に張りつく饅頭の皮を人差し指で捲りながら応えた。
『あたし保育園の時から右向け左だったけど』
すると少女は、
『あなたは左翼なのですか?』
『さぶほんッ!』
金メダリストの円盤のように、饅頭の皮が勢いよく口から飛び出てきたものである。
『がはははサヨクて!』
草津の表参道に饅頭の円盤を放り投げたまま、よもやのバカウケ。
『ネトウヨじゃねぇことは確かだけど!』
膝を叩いて大笑。その傍ら、まるでツチノコでも目撃したかのようにギョッとした眼光で固まる
『保育園児が左で左翼になれたら、思春期、要らねぇ……!』
ついに過呼吸で崩れ落ちるも、
『ネトウヨってなんですか?』
『そこからかよ……!』
容赦ない追い討ち。草津の老舗饅頭屋の軒先に横たわる次原。硫黄の漂う
なかなかの天然少女だったのである。
斯様に社会通念が違うのだから、当然のこと、お互いの共感作業が滑らかに捗ろうはずもなかった。しかしそれでも、次原のほうが天然少女との擦れ違いを面白がり、間もなく仲間内へと誘いこむこととなる。ヤンキー次原伊織を筆頭とする、ナイーヴ
国仲とは、ヒナ高で出会って早早に気が合った。入学式の最中、校舎の裏庭で三枝虹子という火の玉女と喧嘩になり、建設作業員の御用達である鉄板入りの安全靴で蹴り倒され、今まさにミニバールのような物でトドメを刺されそうになった時、
姉崎とは、中学時代から面識があった。双方の中学はともに偏差値の低い学校であり、ゆえにか相性がよく、頻繁に悶着をヤらかす間柄だったわけだが、次原もまたご多分に漏れず、偏差値の低い売り言葉を
つまるところ、次原伊織という人間は、自分を刺激してくれる新鮮な光にメッポウ弱い。自分と似たような性情の持ち主には興味が湧かず、徒党を組むことはあっても心底は許さず、だから時として孤立を深めがちなのだが、たまさか有望株を発掘し、彼らを宝だと信じさえすれば、仮に敵対の暦があったとしても遺恨に
天然少女もまた、親友である。
次原の出る幕がないほどに喧嘩が強く、自己防衛にも長け、加えて成績優秀な少女である。確かに、あの社会見学の際にはカルチャーショックに打ちのめされてはいたものの、ヒナ高の実情を知れば知るほどに逞しくなっていき、今や、全校生徒や全職員から一目を置かれる存在となっている。あの狂犬グループでさえもまったく手の出せなかった爆弾娘、三枝を、むしろ手を出させることなく大地に伏させたのも数えて数日前のことである。
盤石の無敵だとばかり思っていた。
悔しいほどに甘え、油断していた。
⇒ 20XX/09/17[月]19:XX
東京都渋谷区道玄坂2丁目
モスバーガー渋谷道玄坂店にて
「あれってリハビリのつもりなのかなぁ」
まるでミイラのようになっていた。
ショックのあまりに言葉を失った。
「でも無茶して歩き回ってるようにも見えないんだよねぇ」
あんなことになってしまうまでの間に、なぜ自分が1度も関われなかったのかと、血管の中を自責の念が駆け巡っている。
「だいたい、松葉杖も有って無いようなものだったしさぁ」
あんなこと──詳細は知らないまでも、関東圏において無双であると口コミされる超問題高校、ヒナ高に在籍する以上、充分に予見できたはずの事件である。
2年生徒の鬼束甚八と巣南重慶の2名が逮捕された。傷害、誘拐、銃刀法の観点による容疑であると耳にしている。むろん、暴対法の側面からも訊問したいことは山ほどあるに違いない。いずれにせよ、5日前、ヒナ高にて誘拐事件と傷害事件が併発、本校生徒のみならず他校の男子中学生にも魔の手が及び、ついては、本校から逮捕者が出たという事実は認知している。
テレビや新聞やネットのニュースにもちらほらと挙がっている。
大隣憲次、鞍馬潮、奥貫晶杯──鬼束の腹心である3名が逮捕されていないらしいことが違和感ではあるが、しかし、その点についてはもはや、
「なんか普通に歩き回ってたよね」
次原にはどうでもいいことだった。
「でもメイクはまだムリかなぁ」
沈黙の苦手な国仲がさっきからずっと喋っている。手持ち無沙汰そうに、自慢の長い黒髪を無目的にイジりながら。
腕組みをしたまま、次原は黙って店内を見渡している。特に、のっぽな女性店員の痩せたお尻を黒目で追いかけている。
姉崎は……よくわからない。愉快そうに身体を左右に揺らしながら、しかし無表情のまま、窓の道玄坂へと目を馳せている。
黒いタートルネックシャツとカーキ色のミリタリーパンツを合わせるナチュラルな少女、その向かいには、青いスカジャンとシンプルなドットのオールインワンを融合させるアクティブな少女、その右隣には、熊耳フード付きの、オーガニックコットン&マシュマロボアでできた乳白色のジャンプスーツを身にまとうチャイルディッシュな少女──実に三者三様の組みあわせながらも、普遍的な渋谷の風情を損なわない、無難な
無難とは、別に次原たちに限った話ではない。耳を澄ませば、あちらこちらで共感作業の声が鳴っている。無名のジャズには聴覚を傾けず、目の前の身内に
よくある渋谷が、そこかしこ。そして、よくある渋谷を
でも、少なくとも次原は違った。
どうでもよかった。
この、いつも通りの普遍的なリアルを確保したい渋谷なんて、彼女にはどうでもよかった。
熱さは、ない。
むしろ、寒い。
クーラーが穏やかに効いてはいるが。
増して、寒い。
これは──あの日を思わせる寒さ。
少女の入院を報された夜、慌てて病院に飛んできてみれば面会謝絶の状態で、同じく飛んできた国仲とふたり、すごすごと渋谷のマックに逃げこんだ。遅れて、様子を見に行ってきたという姉崎も合流するのだが、さすがに井戸端会議とはならずにそのまま散会。翌朝、学校の臨時休校を通達され、いまだに少女の面会謝絶も解かれず、手をこまぬいたまま1日を過ごす。その翌日も面会謝絶で、悶悶としつつもまったく動き出せない沼の1日がまた繰り返された。翌日未明、国仲のエキセントリックな性情がついに爆発、通報騒動が巻き起こるも、それを引き金としたかのように面会謝絶が解かれる。しかし、少女は包帯に覆い尽くされ、病床にくくりつけられ、点滴だけが生命線であるかのような悲惨な状態。それを見た国仲が途端に具合を悪くしてトイレで
レースの窓際でアッシュブラウンのツインテールを朱色に
『歌帆さんも人間だったんだね』
難しそうな眉間で呟き、難しそうな眉間のままで帰っていった。彼女にもまた彼女ならではの思うところがあったのか。
いずれにせよ、次原たち3名はその翌日も見舞い、今日もまた見舞ってきたばかり。これにて3日連続の皆勤賞である。
一昨日にはまだ眠れる森のミイラだった少女、しかし、だんだんとミイラの面影をなくしていった。くだらない土産話の途中から、なぜか腕の包帯を取り、脚の包帯を取り、腰の包帯を取っていく。残暑に耐え兼ねたかのように、看護士の承諾も得ずに包帯を外していくのである。あげく、自力でベッドをおり、支えるためにあるはずの松葉杖を護身用の武器のように振り回しながらトイレへと向かう始末。
なんだか、力を持て余している。
「そういえば記子。今日、途中でどっかに消えちゃったけど、どこに行ってたの?」
「ん? 売店に行ったらレントゲン室で、戻ってきてみたら給湯室で、途方に暮れた記子さんは蜃気楼になりましたとさ」
「病院の間取りぐらい憶えようよ」
「あのねリルちゃん。女の子ってのは方向音痴にできているものなのだよ?」
「そうなの?」
「3歩歩けば、女の子はいつだって新鮮なランウェイを体験できちゃうの」
「ただの鳥じゃん」
確かに今日、見舞いの最中、急に姉崎がいなくなった。
世話焼きの国仲が心配していると、
『携帯電話をかけてみてはいかがです?』
縫うほどの裂傷を舌にも負い、昨日までまったく喋ることのできなかった少女の、なぜか滑舌のいい提案。
『歌帆さん。ここ、病院だよ?』
『……仰有る通りでした』
『歌帆さんも、寝てなきゃいけないんじゃないかとあたしは思うんだけどなぁ』
『私の心配はご、無、ゴム、無用、どす』
『そんな発言、男にはしちゃダメだよ?』
『オトコ……ですか?』
『ゴムの要らない男と巡り会うまでは』
『ゴムって、輪ゴムですか?』
『ひゃははは輪ゴムて! 意味ねー!』
『え。あの、なにか、私』
『はーははははははは!』
『あの、璃輝美、さん?』
『ツる。腹がツる。死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!』
『璃輝美さん!?』
『ヒィィィィ!』
『璃輝美さんがヒキツケを!』
『ヒヒ、ヒぃ……』
『救急車を呼びましょうか!?』
『ここ、病院……』
そう、重傷患者には見えなかった。
でも、だから心配して損したなどとは思えない。たとえ狂犬が逮捕されようが、呆れるほどに少女が力を持て余そうが、次原の不安は堆積するばかり。
少女の親友である自分のことが不安。
『睨んで人を殺傷できるのか?』
『歌帆さんも人間だったんだね』
ファンシーな姉崎に改めさせられ、
『それで……どう守ろう?』
あの黒い少女の
また、こうならないとも限らない。次は、今回よりも残酷な
守れるのだろうかと、不安になる。
不安になって、寒くなる。
【 続 】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます