壱の戦 ≪ 想う女 ㊦

 




■ 陽向ケ原高校2年1組の生徒

  国仲くになか 凛輝美りるみ ── 続ける





「死ぬのが、惜しく感じる」


 生き死にを忘失するほどの楽しい高校生活が、まるで夢か幻のよう。


「あたしも十代ティーンのハシクレだったか」


 あの日から、国仲凛輝美は抜け殻のまま中学へと登校し続けた。白けた目を向けられ、微かに聞こえる明確なヒソヒソ話を投げかけられても、動じずに通った。どれほどの深刻な扱いを受けようとも、もう、痛くも痒くもなかった。


 どうでもよかった。


 期待できる者はおらず、期待できる自分ももういない。


 彼も、中学卒業まで不登校を貫いたし。


 どうでもよかった。


 だから、両親の勧めで高校も受験した。流されるまま、抜け殻のままの、ロボットのような受験生だった。


 当然のことながら実りのある受験勉強となるはずがない。1ケ月間の不登校も功を奏し、遅れを挽回する意欲を欠いたままに平行線をたどったのだから、狙い目なんて皆無に等しかった。


 結局、低偏差値の高校を狙うしかない。


 陽向ケ原高等学校、通称『ヒナ高』──ここしか選択肢はなかった。


 悪評しか聞かない高校である。しかし、両親はそれでも、環境が変わることと友人ができることに賭けたようだった。そして、国仲は抜け殻のままに流され、棒読みの面接と、中学受験よりも簡単なペーパーテストだけで合格。


 あの日、悪魔に魂ごと喰われ、そのまま悪魔の傘下へと引き入れられたような、そんな気がしないでもない。


「悪魔、か」


 小悪魔のようだと思ったものだが、媚態が見られて初めて「小悪魔」と評されるもの。あの少女は、そんな小手先の技術とは無縁のようだった。


 ならば、ただの「悪魔」で充分。


 その悪魔が曰く、


『パッとしない人生だった。でも、今日も死ぬには惜しい日だった』


 これが、ティーンという多数主義マジョリティ少数派マイノリティの深層心理。


 なのに、国仲はヘヴンズドアを叩いた。ピンポンダッシュで済んだけれど、あわや入室してしまうところだった。


 ティーン失格なのかも知れない。


『あたしはね、自分さえよければそれでいいの』


 そう明言できるあの少女が、羨ましい。


「自分さえよければそれでいい……かぁ」


 ネットならば炎上必至の倫理観である。


「人の気持ちを考えないのは楽……かぁ」


 こんな思想を、世間は必ず嫌うだろう。


「あたしは悪……かぁ」


 身を粉にして人のために尽力し、相手の気持ちを考え、気配を察し、空気を読み、忖度し、おごることなく、溺れることなく、汗を流して最善の道程みちのりを歩めるようにと、幼い頃から徹底的に教育されているのが日本人という薫化思想民族である。犯罪はもちろん、ワガママやKYや自分本位までもを完全悪と見做せるように、そして、そんな悪を徹底的に抹殺するように教育されている。コンビニの品物を勝手に食べ、空の容器をレジへ持っていく様を SNS にアップするような、常に閲覧数の上下を気にし続けている臆病なキッズに対しても同様に。


 厳しく叱ることもできない気弱な両親を持つ国仲でさえ、そういう不文律の満ちる日本を生きてこさせられた。たとえ未熟なティーンのハシクレといえど、世間というヒステリックな看守の前で「のびのび」という大義名分を押しつけられながら。


「あたしものたまってみたいよ、そんな台詞」


 自分さえよければそれでいい──と。


 人の気持ちを考えないのは楽だ──と。


 あたしは悪だ──と。


 人の目をはばからず、堂堂と。


「あえて明言してみたいよ」


 きっと、あの少女も、あえて明言したのである。あえて明言できる人間となるように、自分で自分を育んできたのである。


 なぜ?


 そんなのわからない。わからないけど、皆が皆、不文律を鵜呑みにして生きているとは限らない。強靭な信念のもとに叛旗はんきを翻している人は、絶対に、この世のどこかにはいる。自分に嘘をつけなかった善なる悪人が、どこかには。


「あたしも悪人になろうかしらん」


 依存しながらも相手に甘えるばかりで、会いに行ける瞬間にしか会いには行かず、たまさか会えなければ勝手に絶望し、彼を責め、あげくには死んで思い知らせてやろうと血迷ったことのある国仲である。悪人の素質は充分すぎるほどにあると言えよう。


「明言しちゃおうかしらん」


 知らない間にうつぶせになっていた身体を起こし、薄紅の山頂で女の子座り。だけどすぐに飽き、滑るようにしてベッドの麓にまでおりると、一直線の稜線を背もたれにして胡座を掻いた。


 下界も暑い。


 耳を澄ませば蝉の声ぐらいは得られるはず。しかし、今の国仲の聴覚には静寂のモスキート音しか得られない。仄かなクーラーの作動音が最大級の騒音で、でも避暑地の清閑さは連想できず、むしろ汗にまみれてジクジク。


「やっぱり壊れてる?」


 ちらと背後を向いてクーラーを睨むも、すぐに諦めて視線を戻した。


「どうせあたしには修理なおせない」


 どうすることもできない。


 だから、うまく眠れない。


 自分さえよければそれでいいわけがないから眠れない。人の気持ちを考えてしまうから眠れない。つまり、でいてしまうから眠れない。眠れず、苦しい。


 あの天然少女の容体だけが気掛かりなのではない。彼女の友達の心境まで気になってしまう。彼女の家族もだし、密かに彼女のことを気に入っている養護教諭の心境までもが気掛かりなのである。


『人は、人で弱くなる』


 駆けつけた病院の廊下、小西香里奈こにしかりなの憔悴の無表情が呟いた。


『ダカラ人は強いって? 世話ねぇよ、そんな逆説』


 ひとつも笑っていなかった。


『そんなの詭弁だ』


 眠れそうになく、


『あたしは、弱いだけ』


 苦しそうだった。


 今、誰もが善という悪玉菌を抱え、同期化シンクロしておかされている。ほだされ、かかり、すっかりと毒されている。


「あたしも、弱い」


 治癒なおせず、どうすることもできない。


 でも、不思議と、


「弱い。弱い。弱い。弱い。弱い」


 弱さを口にすればするほど、少しずつだけど、胸のつかえが取れる。


「強くなくていい。弱くていい」


 そこで国仲は、ハタと気づいた。


「あぁ。だったらあたしは……」


 自分の都合のいいように人を案ずることだってできる。人の気持ちも考えずに人の気持ちを考えることだってできる。悪人であっても、人を想うことはできる。


 想う。


 慎もうが、開きなおろうが、人を想っているこの事実に変わりはない。


 だったら、


「自分さえよければそれでいい」


 思ったように想えばいい。


「人の気持ちなんて考えない」


 我がままに想えばいい。


「悪人でいい」


 嫌われても、想えばいい。


 今、意識不明の重体に陥り、ようやく意識が回復してもなお予断を許さない親友がいる。面会謝絶となっている親友がいる。眠れなくなって、苦しくなって、弱くなってしまうほどに愛している親友がいる。


 なのに、誰かのために?──気持ちを考え?──空気を読み?──わきまえて?──強くなりなさい?──善でありなさい?


「それができたら、そんなの人間じゃない」


 今はあの、三日月と星の輝く少女──奏帆なほさんの真似をしよう。仮に真意を勘違いしていたとしても、都合よく解釈しよう。自分本位に置換し、都合よく模倣しよう。


 そう、親を殺してでも、這ってでも。


「はン」


 だから国仲は、


「面会謝絶だぁ?」


 傲岸不遜そうに瑞瑞しく紅唇こうしんたわめると、


「それがどうした」


 目の前の丸テーブルへと手を伸ばした。


 そうだ。この財布にはまだ、タクシーを拾えるだけのお金はあったはず。





   【 了 】




 

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