陸の戦 ≪ 無敗の男
『夫嚴家無悍虜、而慈母有敗子』── 韓非
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■ 無敗の中学2年生
昨春、母が癌で他界した。
生まれつき華奢で病弱な息子のため、寡黙にも小魚を与え、牛乳や笹身やレバーを与える女だった。とはいえ、スポーツ少年団や武道クラブへの入会を奨めたことはなく、小学校や自治体に対して注文をつけている様子もない。外部にはいっさいも期待せず、すべて自分の監督下で処断しているようにさえ見えた。
しかし、独裁主義ではなかった。もとより寡黙な女である、口喧しく命令することもなければ、目敏く指示することもない。隷属させるための口も手も志も持っていない様子で、放任主義に近かったとも言える。欲しがる玩具を無条件に買い与えることはないが、要らぬほどの自由な時間を黙認して憚らない女。
それが、イジメである。
外見、内面を問わずに貧弱な息子のこと、大小様様なイジメに見舞われる小学生時代だったが、不幸な姿で帰るたび、彼女は2通りの厳粛さを見せつけたものだった。
イジメの
逆に、イジメの痣を苦笑すれば「それで終わらせるな」と頬を張ったのである。
謎の言動でしかなかった。
病魔に冒されてからはさらに謎が増す。むしろ悟りを開いたかのように
慣れてはいたが、やはり不気味だった。
間もなく、フェイドアウトするかのように彼女は逝った。筒香佑心、中学校の入学式を2週間後に控える、つくったような卯の花曇りの朝。
『強くなれよ』
火葬の儀が終わった直後、母方の祖父は棒読みで囁いた。しかし筒香の耳には、年老いた親を置いて夭折してしまった娘を責めているように聞こえた。病魔に敗れた娘への腹癒せを、同じく脆弱な孫へと当てつけるかのよう。それはとても白白しく、愛孫の未来を思いやらんとする洗い立ての
敗れたらこうなるんだと、そう思った。
しかし、当然のことに奮起には至れず、鯨幕の心象のままに入学式を迎えた。思春期も花盛りの教室に溶けこめるわけもなく、ほどなくして保健室へと入り浸り、当然のように筒香は
そう。
敗れたら、こうなるのである。
☆
結局、勝利してナンボである。
入念に策略を練るか、あるいは勢いに心身を委ねるか、戦い方はきっと十人十色だろう。しかし、万人共通として断言できるのは、必勝なくして十人に未来はないということである。
必ずや、勝利しなくてはならない。
義務教育課程の本質を知らぬ筒香であっても、イヤならば無理して通学する必要はないとする世間の風潮に「それって制度的にどうなの?」と
勝たずして杯は手に入らない。
敗北に意味はない。
敗北に明日はない。
敗北に約束はない。
残酷な終焉を迎えてしまう。
苦労も水泡に帰してしまう。
絶無の暗黒に墜ちてしまう。
敗北に意味はない。
敗北に価値はない。
敗北に哲学はない。
むろん、これは格闘ゲームのお話である。
『鋼の
改めて言うが、アーケードゲームのお話である。
筒香にそんな体力などあるはずもない。仮に掌底を喰らわせようものならば自分の手首のほうを麗しく粉砕骨折させてしまうこと間違いなしである。
幼少期から小魚ばかりを食べさせられてきたものの、どうやら内臓までも虚弱で、なにひとつとして血肉とはならなかった。ゆえにか、小学4年生の水泳の授業中、つい魔が差してバタフライ泳法を試みた直後、なぜか肋骨2本に
『佑心くんは魚人島に行けないね?』
少し意識し始めていたクラスメートの
とはいえ、小魚を取り逃してきた脆弱な筒香も、ここ、中野ブロードウェイのゲームセンターではまさに水を得た魚。骨折り損のない、楽園の中の楽園である。
(なんなら操縦桿のほうを折って新たなる伝説をつくってやってもいい)
刑法に触れるだろうから折るつもりはなく、言わずもがな折って見せる
それが証拠に、
「あんだよマジで強ぇよ!」
今、交通事故と発砲とを合成したような音を立てて八梵架天拳が炸裂、実は全身がチタン合金でできているという英国紳士、ドナルド・ワインハウスが30mを吹き飛んだ。次いで画面の中央に「勝負あり!」の文字が躍動、と同時に、筐体の反対側で謎の英国紳士を操っていた大学生らしき青年が、敗れたにしては軽やかな嘆き節を叫んだ。
筒香は、
(また勝ってしまった)
勝利を糧にした
あの日の冷笑的な某女子に見せつけてやりたい未練もないことはないが、ただ冷笑を重ねられるだけだろうと予測する一般常識も持ちあわせていたりする。況してや背後に立たれ、優しく見守ってもらえることなど夢のまた夢であると。
一般常識が感傷を助勢する。
(見守られる……か)
ほどよく冷房の効いている中野ブロードウェイ。フィギュア人形、ソフトビニール人形、昭和映画のポスター、漫画本、中古ゲームソフトなどが氾濫するカオスの殿堂だが、
ただし、筒香の主戦場である4階のゲームセンターだけはやたらと
その香りとは、シナモンである。
シトラスでなくローズでもなく、あろうことかシナモンであるがゆえに、果たしてソレを色香と表現していいものかどうかは疑問である。しかし、なにしろウォーターリリーしか判断材料のない筒香なのであるからして、色香だと脅迫する
とはいえ、それももう背後に立つことはなく、今や筐体の反対側でくすぶるのみ。
(僕が強かったばっかりに)
あの少女が見守ることは、ない。
⇒ 20XX/09/05[水]19:XX
東京都中野区中野5丁目
中野ブロードウェイの4階にて
大敗した大学生は苦笑いで立ちあがり、ぼりぼりと後頭部を掻きながら筐体の森を脱出した。それから、自動販売機でペプシを購入、立ち飲みをしながら筒香の背後へと陣取る。
彼の自然体な一連の所作の中に、しかし、筒香はわずかばかりの緊張感を感じ取っていた。なるべく期待しないようにと自分に言い聞かせながらも、殺しきれない緊張の指先でレアカードを祈ってしまうような、大人の余裕を演じながらコンビニの会計に挑もうとしている
もしや彼もまた、心の奥底では、あの少女の来訪を期待しているのではあるまいか。
あの、黙黙と食いさがる少女を。
腕時計はとうに19時を過ぎている。別に連日の
敗れてもなお無敵の中学生に喰らいつく、現実社会では筒香よりも遥かに喧嘩が強いことだろう、それはそれは逞しい少女。
名を、百目鬼歌帆というらしい。
(ドウメキ)
しかし実際には、
(
物の怪、百目鬼を遥か凌駕する、これぞまことに前代未聞の少女である。怪と美──異なって常に座標をともにする芸術属性を併せ持つ、ある意味、2次元的な少女である。ゲームアプリであればまず間違いなくレアキャラである。
(アニメキャラなのだろう、きっと)
量子の波をまっぷたつに叩き割り、退屈なパラレルワールドをプリズンブレイクしてきたのである、きっと。
(僕の手にも負えないんだ、きっと)
筒香がまさか藤原秀郷公に及ぶわけもなく、仮に手を繋ごうものならば開放性粉砕骨折も必至、弱音を吐こうものならば鉄拳制裁を喰らって
比喩でもなんでもなく、それほどに彼女は強いらしく、また負けず嫌いであり、今や筒香の背後に立って見守ることをしない。平日、宵の口を回れば、どこからともなく大手を振ってあらわれ、宿敵を確認すれば餓狼のような
手を繋ぐことなど夢のまた夢。粉砕骨折でさえももはや儚い妄想である。
(僕が強かったばっかりに)
ほぅ。
感傷の青息吐息をくゆらせた、その直後のことである。
取り巻きの観客がにわかに色めいた。
右に上半身を傾けて廊下を覗きこむ。
お出ましである。
身長は170㎝を超えるだろうか。体重は70㎏に届くだろうか。体脂肪率はもしや10%を切っているだろうか。ひとまず帰宅部員にはあり得ない超絶アスリート体型を引っ提げている。ゆえにか、ブレザースカートからわずかに覗き見られる肉感的な太ももが心をくすぐり、1㎞先から見てもそうとわかるだろう革命的な巨乳が
そして、野生の狼を思わせる凛然とした面立ち。人間の顔は、猿科、犬科、猫科、鳥類、
筋肉と脂肪に固められた
全裸でも越冬できそうな堅牢さがある。
(全裸……)
意外と嫌いではない猿科の筒香である。
美しいヒューマノイドの狼、色めき立つ観衆には目もくれず、火矢の視線で
視界の上方、百目鬼歌帆という塔の頂が霞んで見える。どうやら仁王立ちで筒香を見おろしているらしい。そんな彼女に対して彼のしたこと、それは視線を伏せること。その
(また、敗れにきたのですか?)
1821戦1821勝──これが筒香の、少女に対する全戦績である。
圧倒的で、絶望的でさえもある戦績。
しかし、初戦から数えておよそ半年間、1日に10戦以上のすべてを敗れてもなお、少女は、飽くなき
初戦の日を思い出す。
『呆れるほどにお強い殿方ですね。しかし頂点とあらば挑戦の機会を失するのが必然。ゆえに、山脈とは、時に自らを削って雪崩の
シナモンを背負った、あの日。
『あなたはまぎれもない頂点。しかしながら、闘争にかける姿勢は山脈の荘厳に遠く及ばず、残念でなりません』
なぜか批判し、おもむろに向かいの席に着くと、記念すべき初戦を買った。使い方もわからない操縦桿を握り締め、そして、筒香の手によって容赦なく叩きのめされた。
なのに、
『あなたが真の山脈となるまで、あなたと
千円という大金を使い果たし、投了を待つしかない段に放たれた宣誓である。
(真の山脈?)
不思議と、負け惜しみを言っているようには聞こえなかった。しかしいまだに真意はわからず、だからと質問する勇気もなく、言葉も交わさないまま今に至る。
その今、少女がゆったりと席に着いた。天性の美貌は完全に筐体の向こう側に消え、言葉も、目さえも合わせられないくせに心残りの感慨が新鮮に芽生えた。
(だって、黙って消えるんだもの)
目前の画面の中に乱入が発生。自然、観客たちの視線が背中に刺さる。気にする素振りもなく、筒香は木場凱然を選択した。一方の少女は、お国のために土俵にあがり続けた伝説の横綱、
1822戦目、開戦。
一気に距離を詰めたのは翔葉山。
……出だしから地味な戦いである。
しかし、観客がブーイングを垂れることはない。むしろ固唾を飲んで見守っている。筐体から漏れる破壊音以外に音はなく、まるで竜王戦のような静けさ。
木場のスマッシュが翔葉山の
おお!──必殺技に初めて唸る観客。
敵の攻撃に応戦するという
(僕の兵法に敵う術はないのですよ?)
残すところ5分の1となった敵の体力を確認し、虚しさの溜め息をこぼす筒香。
どんな顔をしているのだろうか。
眉間に皺でも寄せているのだろうか。
歯噛みして強張っているのだろうか。
それとも、あくまでも無表情だろうか。
しかし、筐体が邪魔をして美貌の行方は伺い知れない。
(なぜ)
この翔葉山、ジャンプしてから急襲するという変則的な大技も持っている。破壊力のある、防御の上から体力を削るという恐るべき技であり、筒香といえどもこればかりは警戒対象だった。翔葉山の技の中ではおよそ最強と言ってもいいだろう。しかしこの技、終わり際に膝をつくという悪癖を併せ持っていた。そして少女は、今まで1度たりともこの空中技を使ったことがないのである。大横綱の尊厳を守るためなのか、あくまでも立ち技にこだわり、投げ技にこだわり、愚直に攻め入ることにこだわり続けた。そうして、こだわるがゆえに大敗を喫し続けた。
(なぜ、翔ばないのですか?)
今宵もまた、相変わらず無策のままに、愚直なまでに攻め続ける少女。ゆえに、この戦いは間違いなく筒香のものである。
(尊厳のために死を選ぶのですか?)
戦闘のド素人。しかし、風の噂によれば、彼女はあのヒナ高の生徒であるらしい。
(その敗北になんの意味がありますか?)
戦闘に餓える者の辿り着く、ヒナ高とは、人類史上最後の
(勝利してナンボではありませんか?)
喧嘩の強さだけが唯一の生存手段なのだそうである。裏を返せば、ヒナ高において、脆弱な者に与えられる未来は「死」という敗北だけなのである。
(死の先に、なにがありますか?)
そして、風の噂によればこの少女、
(ひとりの死は、遺された者にさえも無慈悲の敗北を与え続けるんですよ?)
ヒナ高では無敗を誇るのだという。
(なにも語らず、黙って死んで)
筐体に隠れた、美しき修羅。
(今さらなにを、なにを、なにを……!)
彼女は決して、見守らない。
【 了 】
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