参の戦 ≪ 無い男
『少年は大志を抱かず、良かったことは良しとして、うまくいかなくても、こんなもんだと満足す』── 所ジョージ
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■ 陽向ケ原高校の数学教諭
いつ見ても綺麗な教室である。
むろん、目の錯覚である。
しかし、どこからどう見ても綺麗な教室である。
校内の荒れっぷりと比較すれば。
今年の春休み、生徒がひとりもいないのを
ゴールデンウィークの直前にはもとの悲惨な状態へと戻った。莫大な予算は水泡に帰した。よって、先日までの
今や割れる音も聞こえない。だって、割るための窓硝子が存在しない。
(もう長くないだろよ、ヒナ高は)
数学教諭の井桁斎蔵はそう願う。
JR池袋駅より徒歩10分のところに、この『都立
創設は1920年11月16日と意外に古く、かつては『東京府立武蔵六番中學校』という名称だったらしい。創設時の時代風潮にしては珍しいことに、この頃から自由度の高い高校だったそうで、文武両道を基礎理念に置いた「自主を以て自立と自律に努め」の
ところが、1980年代の終盤、受験生数人の髪型を素行不良と見做し、当時の校長が彼らの合格を抹消したのを
不良高校『ヒナ高』のはじまりである。
今や、生徒間の喧嘩は当たり前、他校との悶着もよくある話だし、生存確認手段が器物損壊であるのならば、教師に暴力を働いて初めて人気者あつかい、さらには相手が警察官とくれば英雄視される始末。また、生徒の中には暴力団に通じている者もいると耳にする。あくまで都市伝説だが、校内のどこかで大麻を栽培している生徒もあるという。
停学と退学者も非常に多い。今年度に入ってまだ5ケ月しか経っていないのに、すでに停学9名と退学4名を出している。うちの9名は傷害だが、2名は危険ドラッグの販売荷担、1名は精子バンクの詐欺未遂、残る1名は風俗店を独自調査&格付した「泡沫のミシュランガイド」とやらをインターネットに公開していたのだから世も末である。
残念ながら、もはやヒナ高に長生きできる秘訣は微塵もない。そう遠くない将来、ガサ入れに遭い、マスコミが動き、世論に叩かれ、よもや存亡を問われるまでもなく解体されるはず。
(そうであってくれ!)
井桁は毎日、願っている。
なにしろ、ここは高校である。義務教育を
義務教育──
よって、いち高校生であるのならば、現代社会の辛酸を嘗めているはずである。自分の思い通りにならない現実をよく学んでおり、時に敗北を認め、白旗をあげることができるはずである。中学を卒業するまでの約9年間、それができるよう徹底的に教育されてきたはずなのである。
『斎蔵。おい斎蔵。おまえ斎蔵か? サイゾウってなんだ? 忍者みてぇな名前しやがってよ。忍者かおまえ? マジか!? おまえ忍者かよ!? スゲぇなおまえハンパねぇな! んなワケねぇだろよ。教師のブンザイでなにフザケたことカマしてんだテメェ。勝手にハゲてんじゃねぇぞテメェ。ナメたこと自慢してハゲてやがっとフサフサって褒めてやんぞテメェこのヤロウテメェ』
教育されてきたはずなのである。
(プロレスのマイクパフォーマンスがごとき中傷の飛び交うこの高校たるや……)
少年時代にはワールドプロレスリングに熱中していた井桁である。時代の革命児、アントニオ
(こうして出勤していられるのは、もしやあの日のプロレスのおかげだろうか?)
生徒たちの理不尽なる
(いやいや、無事でいられるのが普通だろうに)
その普通が通用しないヒナ高の実情を鑑みるほどに、中学時代までのヤツらの恩師どもはなにをしていたのだという憤怒が湧いてくる。職務怠慢も甚だしい、自己保身に満ちた風見鶏な蛮行であると言わざるを得ない。
言わないが。
担任を勤める2年1組の教室をこうして見渡してみても、やはり、井桁は同業者の職務怠慢を嘆き、当校に綱紀粛正の
なにしろ、名簿には38名もいるのだが、現在はたったの6名、しかも全員が女子生徒である。ちなみに井桁には、1時間前には9名を数えた記憶がある。
6/38──学級崩壊も同然。
しかも、夏期休校が終わってまだ1週間しか経っていないのである。生徒の暴力に屈している側の井桁が通勤しているのに、なぜ暴力の享楽に浸っている側の不良が通学しないのか、謎にもホドがある。
この謎、アインシュタインにも
⇒ 20XX/09/03[月]12:XX
東京都豊島区南池袋
陽向ケ原高校2年1組の教室にて
エレベーターのGのような溜め息を吐いていると、
「顔色が悪いよサイゾー。空腹なの?」
6名のうちのひとり、スレンダー体型の
「日照ってんだよ。欲求不満だから」
国仲の親友であるらしい、ギャルの
「なに? 乳? チチがほしいの?」
次原の悪友であるらしい、童顔の
午前といわず午後といわず、職員室へと戻るタイミングを完全に逸した時、空席にがっくりと座りこんで虚ろな時間を過ごす井桁の日常。だが、そんな時に必ずや慰めにきてくれるのがこの3羽ガラス。
今もまた、いまだ昼食にありつけていない飢餓状態の彼に甘いフレグランスを馳走してくれている。
「記子。せめてオッパイにしときな」
腰まで届くストレートの黒髪を右手でポニーにし、華奢な首筋を見せつけながら涼感を探す国仲。3人の中では最も清楚なタイプだが、いわゆる清楚なタイプと較べたら断然にエロい。
「いや、チブサだろ。乳房」
金髪の無造作ショートを指先で無造作にしながら、酒焼けのようにハスキーな声を投げる次原。3人の中では最も
「じゃあ、間を取って、ニュウボウ?」
「足りてるからいいよ別にそんなの」
努めて理性的な微笑みで白を切ると、次原が「んなの足りてるワケがねぇじゃんよ」とハスキーな豪速球を返してきた。
「ヒナ高で教師をやってる限り、雄の性的欲求が満たされる目処なんて立たねぇ」
ズバリ、図星である。
ヒナ高の不良にとって、ヒナ高の一員として認められるための最低条件は教師に暴力を働くことである。これこそが唯一の通過儀礼であり、教師に恐れられてようやく生徒間の
ヒナ高にいる限り、教師が女に色目を馳せている精神的余裕はない。こうやって女子生徒とトークしていても、いつ、どのタイミングで彼らの襲撃に遭うか知れたものではないし、この後、教室から職員室まで全力疾走で戻らなくてはならないし、息を整えている暇もないままに次の授業へと向かわなくてはならないのである。
職場恋愛なんて「英雄伝説」という名の
教職員にただひとり、養護教諭だけが女性である。
そんなわけで、ヒナ高の教職員にとって欲求不満は憐れなる
もちろん、井桁は独身。
「サイゾーは小せぇ男だから、毎晩毎晩、コニたんでシコシコすんのが関の山だろ」
件の養護教諭の愛称である。
「小さい男って、ヒドいよなぁおまえら」
弱弱しく反論すると、国仲が擁護。
「そうだよ伊織。ちょっと言いすぎだよ? サイゾーはね、単に勇気がない男なの」
「かはは。リルのがヒデぇ」
すると今度は姉崎が、小首を傾げながら未発達なクリスタルボイスを響かせる。
「んと、記子はね、サイゾー、好きよ?」
「あぁ、そ、そう」
「好きなほう」
「ほう……」
「がははは記子がいちばんヒデぇ!」
3羽ガラスからの他愛もない寵愛。そういう点では、井桁はまだ恵まれているほうなのかも知れない。依願退職のギャンブルへと出ることはなく、まして自殺することもない。
高等学校は義務教育ではないので、元来、高校教師は生徒に雇われている立場である。にも関わらず失職する憐れさを、しかし声を大にしては訴えられない弱腰の井桁である。
恵まれているご身分なのに。
「いっそ婚活しろってサイゾー」
いつ見ても綺麗な教室である。
「1週間くらい休んでも支障ねぇだろよ」
目の錯覚だが、恵まれた環境である。
「大海原に出ろやサイゾー」
隣の教室なんて机も椅子もなく、その代わりにバイクのタイヤ痕が走っている。
「ヤ、ダメだよ伊織。もしもサイゾーが1週間も休職しちゃったら──」
あの少女のおかげで、恵まれている。
「──歌帆さんの逆鱗に触れるよ」
『
不意のビッグネームに、発作的に戦慄。
ちらと、3羽ガラスの背後を見やった。
整然と並べられる机の碁盤、その中央に、あの少女の席はある。
2年1組のみならず、全学年レベルでの優等生である。運動ができ、勉強もでき、バカげた喧嘩と距離を置いている生徒たちからは慕われる、とても異常な女子生徒である。
名を、
実家が古武道の老舗らしく、ゆえに文武両道を為すべく育てられてきたのかも知れない。武道の世界には疎い井桁だが、名門空手の道場ともなれば「教育団体」を歌うほどだし、彼女の実家もまた厳格なる教育方針である可能性は高い。
面談で会った母親はわりと
ともあれ、件の少女は今日もまた、ひとりひとりと足速に帰路に就く放課後を最後まで居残り、予習と復習とに精を出し、教室内を綺麗に掃き清めてから帰るのだろう。
変な生徒である。
公務員を思わせる黒いショートヘアにノーメイク、競泳選手を思わせる締まった身体をブレザーで固め、水牛に跨がりし
まこと、変な少女である。
そして彼女こそ、ヒナ高にはあり得ない優等生でありながらも、
(歌帆さん……かぁ)
ヒナ高の創設以来、まったく例に見ない超問題児でもあった。
そんな彼女は、今、席にいない。
4時限目の数学をきっちりと終え、しかし昼食を摂ることもなくおもむろに席を立つと、鼻歌が聞こえてきそうなほどの悠悠自適のリズムで教室から発った。さすがというかなんというか、よく食べる少女なのである。それが、腹ごしらえもせず、お楽しみは最後まで取っておく──そんな娯楽的情緒さえも匂わせながら。
さて、彼女はどこに向かったのだろう?
目的はひとつ。
彼女が学業的理由もなく教室を発つ時は、紅い雨を降らせにいく時である。
血の雨を……である。
夏休みが明けてまだ1週間。しかし彼女は、さっそく超問題児の風格を鍛えにいってしまったのである。
井桁は、
『勇気が出ないことは決して恥ずべきことではありません』
彼女の蛮行を止められない。
『なぜならば、出そうと試みなくてはよもや出ないという表現にたどり着くはずもないからです。仮に、最終的には出なくとも、わずか1度でも勇気を出そうと試みたのであるならば、ただそれだけで充分に立派なことです』
栄えある担任なのに、
『勇気が無いこと──これこそが
止められない。
『
恵みを提供してくれている恩人であるはずの彼女を、止められない。
『
あれは夏休みに入る直前、その放課後、うっかり忘れ物をしてしまい、全力疾走で2年1組へと取りにいった時のこと。ビニル製の
ただでさえ苦手な生徒なのだが、
『まず初めに、先生はどうか勇気をお持ちください。出る、出ないの葛藤など勇気を入手してから抱けばよいことです。戦果を恐れず、まずはどうかお持ちください』
あの日の厳然たる叱咤により、なおさら井桁には止められなくなってしまった。それどころか、自分のソレと彼女のソレ、いったいどちらが愚行なのかという判断力さえもとうに霞んで消えてしまった。
「教職者ともあろう者が婚活とやらのために稼働日を休むとはいったい何事ですか!?──歌帆さんだったら絶対にそう言うでしょ」
「言う言う。なんのために日曜祝日が設けられてあるとお思いなのですか!?──歌帆さんなら絶対に言う」
「基礎を守ってようやく社会人です!」
「社会に
勇敢にも、国仲と次原が交互に彼女の物真似をし、遠慮なく哄笑している。
(勇気……)
ぼおっと見つめる井桁。
すると、不意に姉崎が肩を叩き、
「歌帆さんの目が黒いうちは、サイゾーはシコシコするしかないみたいね? だから、ぼおっとしてないで手を動かそ?」
なんだか、義務教育制度がバカらしく思える。
井桁には、もう、願いを諦めることしか手が無くなった。
【 了 】
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