環境の違い
鷺城鷺花の教育を受けて、二十日が過ぎた頃である。
初日から吹っ飛んだ訓練を受け、課題を出され、今も頭を悩ましている藤崎デディに言わせれば、まったく、その厳しさは最初から一貫して変化がない。自分の成長の遅さに嘆きたいくらいであった。
どうしたって――顔を上げれば、ファゼット・エミリーがこっちを見ている。
先に歩いている彼が、冷たい目をこちらに向けている。
蔑みではない、いつのも瞳だ。感情が読み取れない――だから、そこまで届いていないのだと、痛烈なまでに思い知らされる。
ため息が一つ、玄関口から階段を上って二階へ。
今までは二階が鷺花の領域だったので――今もそうだが――立ち入らなかったのだけれど、最近は許可が出た。というのも、質問をしたい時もあったし、書庫が二階にあるからだ。
気配を探ろうとしても、鷺花のだけはファゼットでも追えないのだから、デディにやれというのが無理だ。とりあえず唯一入室の許可が出ている書庫の扉をノックすれば、中から声が。
入れば、本の香りに包まれる。中央にはテーブルが二つあり、椅子はそれぞれ四つ。左右には本棚が六つずつ並べられた、四十畳ほどの部屋である。
「――あれ、畑中さん」
「よーっす」
今まさに読書中の畑中が、視線をこちらに向けずに声だけ出す。
「鷺城さんは?」
「いるわよー」
右側の本棚から、ひょいと顔を見せる。手には三冊の本があった。
「はいこれ追加」
「あいおー。ありがとね、鷺城先生」
「それで藤崎? 昨日どっかの間抜けが私に質問をしに来て、返事は保留してあるんだけれど、その結果が証明されるだろうから、どうぞ質問を」
「あー……僕、そんなに畑中さんと気が合うかなあ。ないと思うなあ」
「なぬ⁉」
「冗談じゃないけどおいといていいわ」
「先生! そこ冗談にしといて! あたしのメンタル弱いから!」
「だからこうして、強くしてあげようという、私なりの配慮よね?」
「ありがとうございましたー!」
これ以上文句を言わず、傷を少なくする部分はきっと成長したと思う。いや、そう思いたい。
「それで?」
「あ、はい。――僕とエミリー、何が違うんでしょうか」
「続けて」
こういう鷺花の返しも、まあ、慣れたので、デディは頷きを一つ。本当に慣れていいのかどうかは半信半疑だ。
「正直に言えば、わからないんです。今、違うことならば、多少はわかってきました。全てとは言わないにせよ――です。けれど、これまでに何が違ったのか、そこがわかりません」
「そう。じゃあ、今のエミリーをどう見ている?」
「僕には背中しか見えません。けれど、先を歩くエミリーは、僕の方を振り返るんです。ついて来れるかどうかではなく――なんだろう。こう、自分が歩いた道を、僕で確認しているような感じでしょうか」
「あ、はるちゃんの場合は振り返らないなあ。ずっと自分の道を先に行く感じ」
「ふうん……でもまあ、そうねえ、わかりきったことを言えば、環境が違ったのね」
「ええまあ、そうなんだろうなとは思いますが」
「――そっちの意味じゃないわ」
鷺花は本棚に肩を当てるようにして、腕を組み苦笑する。
「学園の授業内容に疑問を持ったり――評価システムそのものの陥穽が気に入らなかったり」
前者が
「エミリーは、評価されること自体を危ういと思っていたし、
ここに、何故と疑問は挟まない。それは彼らが自分で考えるべきことであり、突き詰めればあの二人の事情だからだ。
「あんたたち二人は、環境の中でその疑問を抱き――あの二人は、違う環境だから否定した」
「……違う、環境ですか?」
「そう。作られた環境の中で育ったのがあんたたちで、あの二人は、自分で環境を作って過ごしていた。戦場の中、安全そうだと家の中に飛び込むのはあんたたち。あの二人は、安全な場を作ろうとする」
「環境を作るって……んなことできるんだ」
「馬鹿ね。――作らなきゃ今頃死んでるわよ、あいつら」
作れる、作れないではなく、作らなくてはならなかった――だ。
「藤崎、どうして自分たちをと言ったわよね?」
「あ、はい。最初の時ですね」
「成績上位者に興味はなかった。何故なら、学園という評価システムの中で成果を上げているのならば、わざわざ拾ってやる必要はない。けれど、成績が悪いだけでは駄目だった――それでは、育てる意味がない。それ以外の理由は、あんたたちにはないけれど、あの子たちはねえ……」
「……? 詳しく話していただけるんですか?」
「誤解されるのも、嫌でしょうしね。私も長く生きているから、ああいう連中が珍しくないのは知ってる。一人のままじゃ成長できない上に、放っておくとすぐ死ぬ。だから目が離せない。あんたらは逆ね――放置しとくと成長しないけど、目を離しても平気」
「うぬ……」
「まあ、うん、まあね、うん……」
「一人前になるまではねー、仕方がないのよ、ああいう子は。特にエミリーはその傾向が強いんだけどね? ――自分と同じにはなるなと、強く思っている。それが悪いことだと知っているから。同じ道を歩いて行って、追いついても、彼らは喜ばないでしょうね。でも――だからといって、あんたたちが、連中の背中を見失えば、その先がない。あんたらじゃなく、あの二人の先よ。本当にあっさりと、命を落とす」
「そう言われても、想像できません。特にエミリーが死ぬなんて、ありえますか? ああいや、もちろん、あるとは思うんですが、それなら僕の方が先かなと」
「あー、あたしはなんとなくわかる。あの二人って、危険水準のラインがずっと先にあるんだよね。自己防衛手段そのものはあるとしても、あるだけで、危険意識そのものがあたしらとちょっと違う。斜に構えてるってのもまた違うんだろうけど……」
「
「違うっていうか――なんだろ。あっさり踏み越えてる?」
「ああ……」
それなら、確かに。
「だから、背中を追い過ぎないようになさい。差を実感したり、それでも食いつこうって気概を見せるのは良いけれどね。それとも、置いて行かれて惨めな思いをしてもいいって? あはは、その時には盛大に笑いながらパーティの余興にしてあげるから」
「しませんしー、すぐ追いつきますからー」
「なんで子供じみた反発をするのかな、畑中さんは。あと鷺城さんの言葉が本気だってことはよくわかりました」
「結構。藤崎はついでだから、その本読んでおきなさい。私はちょっと屋敷を出るから」
「あ――はい、わかりました。今日はコレニアさんもいませんでしたね」
「たまには休みあげないと泣き出すから。午後には戻ると思うけど、今日の訓練はなし。いいわね?」
「はーい」
「諒解です」
というか、朝の訓練はもう終えたので、デディは良いのだが――と思ったら、午後からも追加訓練があった日を思い出し、出て行く鷺花を見送るに留めた。余計なことを言うと面倒も増える。
そうだ、もう二十日になる。
デディと藍子の手元には、まだ、無傷のままの板という課題が残っていた。
※
この街に地下があることを知っている者は少ない。
下水の処理施設と、足元の地面の隙間は――隙間と呼ぶには広すぎるほど取られており、下水管などを割けてあちこち移動が可能だ。入るには特定の店などから、そうやって入り口が制限されている。
そこが、
一ヶ月ほど顔を見せていなかったファゼット・エミリーだが、呼び出しというわけではなく、たまには古巣の様子も見ておかないと心配……というか、どうして来ないんだと文句を言われるし、時間に比例して甘える度合いも強くなるので、たまには顔を見せないと面倒というか。
――だが、嫌いではない。
古巣だ。
ここは、ファゼットにとって帰る場所になっているから。
幼少期に拾われてから、今の学園に入るまではずっと、ここで過ごしていた。厳しく訓練もされたけれど、やはり、安心する――。
「ただい……ま?」
まだ一人前ではないファゼットが帰る場所は、いつだってエレット・コレニアが使っている部屋だ。といっても、入り口は訓練室のようになっており、その奥に部屋はあるのだけれど。
そして、入ったら――訓練室の中が大参事だった。
侍女姿の姉たちが三人いて、三人ともに倒れている。唯一立っている女性がくるりと振り返れば、いや、顔を見せるまでもない。
ここ最近では見飽きた、鷺城鷺花だ。
「あら、おかえり」
「あんたが迎えるな」
「まあそうよね。いや隠れ家なのは知ってるけれど、
「知っていて、妬みや僻みで襲ったんじゃねえのか」
「――ああ、その可能性はあるわね」
「ファゼ! うわああん!」
半泣きになりながら、傍にいた女性が立ち上がり――消えた。
その瞬間、いくつものことが発生する。
まず、どういうわけか、鷺城鷺花が踏み込んできた。それが初動であり、届かないとわかっていても、訓練の際に嫌というほど体感したファゼットは、迷わず〝合わせ〟を行って二歩ほど距離を詰めながらも腰を落とす。
たったそれだけの動作で、視界の右端に消えたはずの姉が捉えられた。
鷺花が踏み込みの右足から、腕を抱え込むように動いたので、直線上から離れるように動くが、右にいたはずの姉がいなかったため、右に動いた。先ほどまでいたのならば、そこには誰もいないと思ったからだ。
腰からナイフを引き抜きつつ、前傾姿勢になったファゼットはしかし、ふいにこれが遊びであることに気付いて、距離を開けるためのバックステップを――して。
そこで、終わり。
「――ぐえ」
「……!」
ファゼットの目の前で、姉が地面に倒れていた。
いつものことだ、抱き着こうとしていたのはわかる。けれど――今まで、ただの一度ですら、それを回避したことはなかったのに。
あろうことか今、その背中を、ファゼットは取っている。
――誘導された⁉
鷺花の動きを多少なりとも知っていたからこその、対応。それを逆手に取られて、今まさに、ファゼットは〝教わった〟のだ。
「今の感覚、忘れないようになさい」
「……ごめん、ファゼ、泣きそう私。本気で。泣いていいかな」
いやどうしろと。
偶然? いや、そんなことを言ったところで、姉にとっては言い訳にしか聞こえないだろうし、それを自分に許すような甘い人たちじゃないことは、よく知っていて――。
「――これ、うるさいぞ。何をしておるか」
「いいところに来たお袋!」
「おおファゼ、おかえり。……ああ、なるほどのう。おい娘ら、あのなよく聞け? ――鷺花じゃから仕方がない。諦めた方が良いぞ、いろいろと」
「お母さぁん、ファゼに後ろ取られたー」
「まったく、泣くでない。それも鷺花じゃから仕方なかろう。まだファゼがその域に達しているわけでもなかろうに」
「なので今日は私にファゼちょうだい!」
「元気じゃのうお主! だが駄目じゃ! 反省せい!」
「うわああああん!」
走って逃げた。なんなんだ。
「まったく、たまの休日で戻ってきてみればこれじゃ。聞いておるか鷺花、お主が原因じゃぞ」
「え? 錬度が低いこいつらが原因じゃなくて?」
「そこを原因にすると、突き詰めて頭である儂が原因になるじゃろうが」
「そう言ってるわよ」
「聞こえん。ほれファゼ、儂の部屋へ来い」
「ああ……」
どういうわけか鷺花も一緒に、訓練室の奥へ。そこからは何個か部屋はあるが、一番奥にエレットの部屋がある。
赤色を基調にして作られた部屋だ。天蓋つきのベッドに寝転がるエレットも、今日は休日だからか、侍女服ではなく、簡単なワンピース姿だ。
ファゼットはすぐに紅茶の用意を始める。鷺花は手近な椅子に腰かけた。
「なあに、本当にオフにしたのね」
「こっちの業務も、鷺花が許可をくれたお陰で、普段からできるからのう。たまには休めと、子供たちもうるさいのじゃ。儂がまだ若いのも原因じゃろうけどの」
「男遊びができなくて、エミリーが代わり?」
「ファゼは遊びではなく本気じゃ」
「あらそう」
「…………」
いや仮にも母親なんだからマジになってどーすんだ。あと俺の迷惑をちょっとは考えろ。愛情はあるけど肉欲は別だろ――と、思ったが、言わないでおいた。男は我慢だ。
「今朝、藤崎が来たわよ」
「……気付き始めたのは、どっちにだ?」
「あんたによ」
「そっちかよあの野郎……」
「あと十日くらいなもんじゃったなあ、試験期間。どう見ておるのじゃ鷺花」
「私よりもエミリーに聞いてみなさい」
「紅茶。お袋、躰を起こせ」
指定地でもあるベッドに腰を下ろして吐息を一つ。圧し掛かるようにして背中を取るエレットは無視。
「わからないこと、わかってること、どっちを先に?」
「わかってることじゃ」
「あと十日もせずとも、あいつらが学園に戻ることはねえよ」
「何故じゃ?」
「戻って一日目で、連中とは違うと気付く。もう変わっちまった。戦闘訓練なんてさせてみろ、相手が可哀想だ。今のあいつらは手加減も覚えちゃいねえ。三時間で
「それは鷺花が上手くやっている証左か?」
「まあな。実際、俺も気づいていない。あいつらと違うところがあるとすれば――気付いていないことを、知っているかどうかだ。鷺城の訓練は一貫して厳しい。二十日間、通してずっとだ。この意味合いに気付くのは――ま、そのうちだろ」
「ふむ」
それが違う訓練を織り交ぜられたのならば、気付くことができる。何事でも真新しいことをやらされれば、疲労が積み重なるからだ。けれど、それが同じ訓練の場合、どうなるか。
気づくのは、自分が未熟だということだ。それを痛感する。まだ成長していない、まだ届かないと、悔しさを噛みしめる。
――それを感じさせているのが、この、鷺城鷺花という女だ。
違和なく。
それこそ〝上手く〟やっている。
「あと十日もしたら、警備隊と格闘訓練をさせるわよ」
「そこでようやく、実感させるわけか」
「私はどっかの馬鹿と違って、実感を与えないことを貫くなんて真似は、面倒だからしないのよ。どっちにせよレベルが低いのは事実だし」
「わからないのはそこだ。召喚された鷺城が、立場を得るために俺たちを半分利用して、その対価を支払うのはわかる。だがそれ以降はわからない」
「あんたの母親には多少話しているから、ベッドの中で聞いてみれば?」
「……」
「お、おい本気で考えるでないぞファゼ! お主が本気で責めると儂は話してしまいそうになる! いかんぞ!」
「ちょっとしか考えてねえよ」
「駄目じゃ駄目じゃ!」
「ちっ……まあいい。それより鷺城、そろそろ板を壊してもいいか?」
「いいわよ。ただし当日まで黙っておくこと」
「あいつらが壊すまで? それ、
「あれは言われるまで壊さないから大丈夫よ」
「課題の板か。儂もやったがのう……」
「気付くのには時間がかかったけどな――これ、体術で壊せる代物だろ」
「大前提、体術で壊せない金属は魔術でも壊せない」
「簡単に言ってくれるぜ」
「言うほど簡単ではないけれどね。――お茶、ご馳走様。加納に手続きを通させるから、もう行くわ」
「あやつの気苦労を思えば胃に穴が空くのう……」
「思わなければいいのよ」
きちんと扉から出て行くのは何故だろうと、ファゼットは少し考え込みそうになったが、止めた。何故だか不毛な気がしたからだ。
「まったく、この儂がこのザマじゃからのう」
「言いふらしたりはしねえよ。姉ちゃんたちは仕事?」
「普段の、な。裏の仕事はあまり来ておらんし、ファゼに振るものもない」
「過保護だろ」
「残念ながら、そこは鷺花との見解が一致する部分じゃな」
肩からにゅっと顔を出し、こちらを見ながら、エレットは笑った。
「――お主は放っておけばすぐ死ぬ。まったく目が離せん」
「そうかい……」
それほど死に急いでいる自覚はない。ないが。
死んでくれと――頼まれれば。
今のファゼットは、たぶん、疑問を挟まずにわかったと頷くだろう。そんなだからまだ、半人前なのだ。
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