朝の走り込み

 ファゼット・エミリーは朝の空気が好きだ。

 どうしてと問われた時、そこに明確な答えを出せる。かつて、恐怖に怯えながら死に物狂いで夜を過ごし、ようやく訪れた朝の安寧あんねいに落涙しそうなほどの安堵を覚えたことがあるからだ。

 まだ人が動いていない新鮮とも思える空気を吸い込みながら、庭で大きく伸びを一つ。早朝であるため人の動きが少ないのも好きな理由の一つであり、ざわついた気配がなく周囲の察知に気を回す必要がない。

 そう思っていたら、屋敷から藤崎デディが顔を見せた。

「あれ……おはよう、エミリーさん」

「さん、はつけなくていいぜ、藤崎。どうした」

「ああ、うん、僕は少し走り込みでもしようかなと思って」

「昨日の今日で心変わりか?」

「ははは、躰はあちこち痛いけれど、だからってそれを言い訳にしたら、間抜けになりそうだったからね。エミリーは相変わらずの恰好だけど?」

「俺も日課の走り込みだ」

「へえ。じゃあ先輩に質問だ。今日が初めての僕にアドバイスは?」

「あぁ?」

「ただ漫然まんぜんと走っても仕方ないのかなと」

「……、あれだ。嫌ってわけじゃねえけど」

「うん?」

「こういうの、鷺城の役目じゃね?」

「あー……」

 腕を組み、視線を落としたジャージ姿のデディは、頷きを一つ。

「そういえば、そうだね」

「まあいい。そうだな、すれ違う相手には会釈の挨拶な。余計なツッコミとか入れるな。で、これじゃちょっと楽だなと思うくらいの速度を維持しろ」

「ちょっと楽な感じか……」

「おう。ルートは、この屋敷の外周な。マジもう無理だろって思ってから、追加一周で終わり。俺も最初の時にこれやったから」

「諒解――あれ、準備運動は?」

「お前はやれ。俺は必要ねえよ」

 お先にと言って、走り出す。屋敷の周囲は角が四つ、一周でおおよそ二百メートルくらいなものだろう。言った本人であるファゼットも、躰が温まるまではのんびり、一番持続に適した速度で走る。

 二周目を終えた頃に、デディも走り出した。ペース自体はファゼットよりも遅いが、それ自体は問題にならない。最初の走り込みなんてのは、まず、自分の限界を知るところが重要なのだ。

 五週目に突入する頃、躰が温まってきたので速度を上げた。そこから先の周回は数えない。

 息が上がってきた頃合いを見計らって、曲がり角までの直線で加速を入れる。呼吸を停止しての加速、角を曲がった瞬間に緩めるインターバル。

 加速の時間を長くしたり、逆に短くしたりと、パターンに慣れないよう工夫しながら、時間にしておおよそ六十分も走れば、へろへろと、こいつ今すぐ転ぶんじゃないかと、そんな様子で――本人は走っているつもりだ――最後の一周を終えたデディが、屋敷の入り口でぶっ倒れたので、ファゼットも区切りとした。

「は、はぁ、はあ、――っ、はあ、はあ」

「お疲れさん。汗拭いとかねえと、体調崩すぞ、藤崎」

「はあ、いや、――は、そんな、余裕、がっ、はあ、あー……」

「――うむ、初日で懲りず続けると良いぞ。ほれタオル、あと水に軽く食べられるものじゃ。落ち着いたら食うといい」

「用意がいいじゃないか」

 お盆を片手に顔を見せたエレット・コレニアは、うむと一つ頷く。

「侍女たるもの、このくらいの気遣いは見せなくてはな――と、昨夜の内に鷺花に言われたので、用意だけしておいたら、まさか本当になるとはのう……」

 つまり鷺花の手柄だった。

 水を受け取って飲んでいれば、玄関から噂の本人である鷺花が姿を見せた。いつものように膝下まであるスカートに、上は長袖のシャツ。胸元には多少の装飾があるものの派手ではない。

 いつも通りの鷺城さぎしろ鷺花さぎかだ。

「エミリー、相手になってあげるからおいで」

「あ?」

「組み手の相手。ちゃんと合わせてあげるから大丈夫――ああ、もしかして、私とやるのは怖いのかしら?」

「――」

 見え透いた挑発だが、それを否定するような生き方などしていない。あまつさえ、母親であるエレットの前で、拒絶などできるものか。

 水のボトルを地面に置いて、間合いまで近づいたファゼットは、それでも冷静に呼吸を一つ。

 術式なし、素手での戦闘だ。ファゼットとしては半ば本気で挑むが、一撃すら与えることができない。鷺城は宣言通り、あくまでも防御可能な打撃を二割と、八割は投げて転がすことに専念した。ほとんど怪我もせずに、すぐ立ち上がるが、それでも主導権は一度ですら握れなかったと思う。

 二十分ほどやれば、ぼたぼたと汗を落としたファゼットが、両手を膝に当てて止まる。それを見て、汗一つない鷺花は小さく苦笑した。

「――はい、終わりにしましょ。残念ながら私の躰が温まることはなかったけれどね。んー、じゃ、藤崎は午後にやるから、予約ね。逃げないように」

「はい……え、僕もやるの?」

 その疑問の答えはなく、鷺花は来た時と同じように戻り、その姿が消えてから、ファゼットは尻もちをつくようにして芝の上に座り込んだ。

「クソッ、――化け物め」

「まったくじゃのう。ほれ、水とタオル」

「ん、ああ……」

「お疲れ。いや、あれだけ走ったあとでよく動けるな……真面目に毎朝走ろうと決めたよ」

「へえ? 俺と比較しなくてもいいだろ」

「戦闘訓練の成績は悪くなかったけど――僕の場合、ただそれだけだ。何事も基礎を見直せってのが信条でね。焦らず、常に基礎に戻ることを無駄だと思うな……って、だから鈍くさいなんて言われてるんだけどさ」

「良いことじゃよ。ただし、時間そのものは有限であることを忘れるでない」

「ありがとうございます、コレニアさん。――しかし、二人は知り合いなんですか?」

「そう見えるんなら、原因は俺じゃないと思うけどな」

「そうじゃのう、儂は隠しておらんので言うが、こやつは儂の息子よ」

「おい……」

「照れるでない」

「照れてねえよ、面倒が増えるって危惧をしてるんだ」

「えーっと、聞いてもいいんですか、僕」

「構わんぞ。なあに、儂には娘も息子もそれなりにいる。血は繋がっておらんがのう……一番若いのがファゼじゃ。愛いやつよ。あと言っておくが儂はまだ二十代じゃ」

「もう面倒だし突っ込まないから、藤崎、他言すんなよ……」

「それくらいは弁えるよ」

「そうしてくれ」

 さすがに花蘇芳はなずおうの名を出さないだけ、感謝すべきかもしれない。

 暗殺ギルド、その最たる花蘇芳は存在自体が偽りとされている。侍女やエレット自身が暗殺者であることを知っていても、花蘇芳の入れ墨を刻んでいることを知っている者は、ほとんど死者だ。だから入浴には気を遣うが、まあ、そのくらいなものである。

 ファゼットは望んで入り、訓練を受けた。元の生活が泥を飲むようなものだったので、ずっとマシだ。今では家族もいて、その環境にも慣れている。

 そう考えれば――陽菜はるなと出逢ったのも、初仕事の時だったか。

 目撃者を消す、という行為を、少なくとも筋が通らない限り、彼らはしない。あの時に胃をひっくり返しながらも殺害を終わらせたファゼットが、陽菜に発見されたのは、単に実力不足の一言で済まされる問題だった。口止めはしたけれど。

 水を飲んだファゼットは、朝食を作るために裏口へ戻って行くエレットを見送ってから、ふらりと立ち上がって伸びを一つ。

「あー、躰が痛ぇ」

「あれをやったあとに、そうやって平然と立ち上がれるなんてなあ……」

「午後から楽しみにしとけ」

「泣きそうだ……」

「浴場、空いてるだろ。先に使えよ、俺は後でいいから」

「ん、そうだね、わかった。ありがたく」

 昨日の今日かと、塀の傍に行って背中を預け、残った水に視線を落として吐息。

 確かに、鷺城鷺花はこちらに合わせてくれていた。けれど、一体どういうことだ。それでも――ああ、それでも。

 仮にナイフを手にしていたとしても、届かない現実は、どうか。

 どれほど、あの女は〝完成〟されているというのか――。

 シガレットケースを取り出すが、三本あるのを見て、そのままポケットへ戻しておく。

 既に人の気配が混ざった朝の空気。ああ、街が起き始めたなと思う頃合いもまた、それほど嫌いではなかった。

 どこぞの金持ちの執事として働き、命令一つで暗殺の仕事に駆り出される――そんな未来でも、文句はない。それしかできないとは思わないが、流れとしては、理に適っている。であるのならば、相応の実力は必要だという認識を抱いていて。

 こんなクソ仕事、やらなくてもいいのにと笑う姉や母親の言葉も、聞きはするが届かない。

 てめえの人生なんて、そんなもんだろと、思う。

 だが、どうか。


 ――鷺城鷺花を殺せ。


 暗殺命令とは、生きて帰れという言葉ではない。むしろ、死んで来いと言っているのと同じであり、結果だけ示せばそれ以外のフォローなどない。それでも戻ってくるからこその、花蘇芳だが、しかし。

 不可能だ。

 どうあろうと、あの女は、殺せない。

 つまり廃業と同じじゃよと、エレットは笑いながら言っていた。だがそれでも、仮にファゼットが殺せるようになったのならば、任せると。

 鷺花も鷺花だが、エレットの言うこともよくわからない。

 殺せるようになれ、という期待なのか、それとも殺せるまで離れるな、とのことなのか。

 そして、一体、鷺城鷺花は何を考えているのか。

 昨日の〝親睦会〟では無茶とも思える追い込みを見せたのに、今日の組手は間違いなく、ただの鍛錬だ。走り終えた後の、躰を動かす組手――ただ、それだけ。油断も隙も見えなかったが、合わせられたのも事実。相手がいないから手伝ってくれたと、そんな感じだ。

 ――探りを入れられたのか?

 可能性はあるが、そんなもの、昨日の時点でだいたいわかったはずだ。つまり、どう考えても、ただ手合わせを軽くしてくれた、という結論になる。

 それが不思議でたまらない。

 なんというか――そんな優しい相手ではない気がするのだ。いや、気がするというか、間違いなく優しくはない。

「……だが、面倒だ」

 面倒だが、わかる。

 つまり、教育において、ファゼットが知っていることを、あえてほかの三人に教えることをしないのだ。そんなものは、ファゼットが教えれば良いと思っている。それは昨日の時点で気付くことができた。

 けれど、断じて、ファゼットはほかの三人に対し、自分のようにはなるなと、思っている。

 それが一方的なものであっても、どうしようもなく嫌なのだ。たとえ連中が望んでも、止めておけと言いたく――ああ。

「そうか……」

 だからこそか。

 姉たちも、母親も、ファゼットをほかの道に誘うのだ。

 今、ファゼットが彼らに思うように。

「考えるだけ無駄ってか」

 ちょっと頭が痛くなってきた。

 隠し事なんて無駄だし、するなと言われているようなものだ。どうしろと。

 なんで俺がと嘆きたくなるが、まだ始まったばかり。

 ――これからも続くと考えれば、ため息も落ちるのは、仕方のないことだ。


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