第43話

 自宅への道のりが長く険しく、重苦しいものだと感じるのはいつものことで、少年にとってはそれこそが”帰宅”という言葉の意味だと信じていた。

 また、迷路のような段違いの通りを作り出す区分けによって、いくつも曲がらなければならなくなる角の先から、立ち話に興じる主婦たちの声が聞こえてくるのも日常的なもので、それが常に陰鬱な話であることも同様だった。

「そういえば知ってる? 飯山の方に住んでる、伊勢崎さんとこの末っ子。逮捕されちゃったんですって」

「聞いたわ。でも、あの子ならいつかやるんじゃないかって思ってたのよねえ」

「まあ、そうよねえ。カンニングの常習犯だったっていうし、東京の大学でもほら、テニスサークル」

「そうそう! 変な恋人と一緒になって部員をいびってたって」

「あれで確か、ひとり自殺しちゃったのよね」

「いやよねえ……頭のいい家だと思ってたのに」

 少年がその話をするふたり組の中年女の前に姿を現したのは、その辺りでのことだった。彼女らは一瞬、中学校の制服を着た人物に対し、なんらかの挨拶や、自分たちを棚に上げ、今が夕暮れの空であることに苦言を呈そうと思ったのかもしれない。

 しかし靴跡の付いていない箇所がような姿と、少年自身の顔を見て、その全てを取り止めたようだった。苦虫を噛み潰したような顔で黙すだけになり、ただでさえ端にいた身体を、石塀にくっ付けさせるほどに後ずさる。さらには口元に手を当て、隣に立つ相手にだけ聞こえるような声で何かをひそひそと話し始めるが……少年は全て無視して歩き続けた。

 少年は、彼女らが陰鬱な、他人の失敗談や悲惨な話に興じるのは、紛れもなく不幸によるものだと信じていた。他人を貶めることで、自らを価値あるものだと思い込みたいのだろう。だからこそ、自分は違うと少年は胸中で皮肉った。自分は今、幸せなのだからと。

 そうするうちに帰宅することができたが、痛みを感じないのとは裏腹に、上手く動こうとしない傷だらけの身体のせいで、空はすっかり夕闇から、夜へと移り変わろうとしていた。それでも玄関の扉が開いているのはいつものことだが、軋む腕のせいで開閉の音を殺すことができなかったのは失敗だった。

 住宅街の端にある、どうということもない二階建ての家屋である。嗅ぎ慣れた自宅の臭いを吸い込みながら、「ただいま」と小さな声だけで告げて、自室のある二階への階段をできる限り静かに上っていく。

 途中、薄く開いた母親の部屋から明かりが漏れているのと、そこでぼんやりとテレビに向かう母の姿を見て、彼女が部屋から出てこないことを確認する。

 台所を通り過ぎる際は、暗がりのテーブルにコンビニの弁当が一つだけ置いてあるのが見えた。それが夕食なのだろうが、今は構わずに自室へ向かう。父はまだ帰ってこないし、その前に母はどこかへ出かけるはずで、夕食はその間に食べればいいと判断したのだ。食べているところを母に見つかるのも、好ましくなかった。彼女は必ず、なんらかの苛立ちを募らせてしまう。

 少年は自室に入り、静かに扉を閉めると、細く長い息を吐いた。汗と土と砂埃、加えて血まで混じる身体を洗いたいところだったが、それも母が外出するまで待つ必要がある。それまでの間に、少年はベッドに倒れ込もうとしてから、取り止めて椅子に座る。勉強机に備え付けの、硬い木製だが、今はそれでも構わなかった。

「ボクは、幸せなんだ……ボクは……」

 そう呟きながら目を閉じれば、すぐに座り心地など無に帰した。

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