第3話
悟はそうした心境を、一度たりとも変えようとは思わなかったし、そのチャンスに巡り合うこともなかった。
そのため、ひょっとすればそれが最初で、最後だったかもしれない。
――入学当初、悟に恋人がいないことは驚かれたし、そうと目される相手が浮上したのでさえ、三年になってからのことだった。
その相手との出会いは、元々はなんら無関係な、どうとでもない理由によって悟がテニス部を訪れたことによって引き起こされた。
悟が所用を終えて戻ろうとした時、練習場というか単純なコートの中に、その女が立っていたのだ。
彼女は小柄で、比較的幼く温厚そうな顔立ちではあったが、怒りの形相はそのイメージを大きく変貌させており、悟がその容姿に惹かれたわけではなかった。
彼女はどうやら一年生であり、不出来な同級生に対して激しく憤り、叱咤の声を張り上げているようだった。
悟はその内容を詳しく聞くつもりもなかった。ただ、彼女がなんらかの極端な精神論を強調しているのはわかったし、何より興味を抱かされたのは、その場に声を聞きつけたらしい二年生たちがやって来た時のことだ。
今まで凄まじい勢いで怒声を上げていた女は、先輩たちの接近に気付くと同時に怒りの形相をパッと泣き顔、あるいは困り顔めいたものに変貌させて、音声を落として叱咤の調子を変えたのである。
そして二年生が間近まで来たところで初めてそれに気付いたように、豹変させた顔のままで向き直り、ほとんど涙声で事情を話し始めたようだった。
やはりその話の内容や詳細などはどうでもよかったが、彼女が先輩に対して媚びへつらっているのが、少なくとも悟の目には明白だった。
そのため、悟はその日のうちに彼女に声をかけたし、彼女の望む言葉を用い、すぐさま魅了することが可能だった――彼女は強硬な相手には逆らおうとしないのだ。それを悟は、何よりの魅力として受け取ったのである。
沙織という名前らしい。彼女が”後ろ楯”となる存在を求めているというのは、しばしの交流の後、彼女が「悟先輩って頼もしくて、ついなんでも頼っちゃいそうです」などと言ってきた時に確信できた。
つまりは叱咤する相手が反抗することがないよう、それを押さえ付けられる存在の力を借り、自己防衛を強固なものにしたがっていたのだろう。
悟は不思議と、そうしたある種の自己愛を見抜くことが得意だった。ただ、常に同時に無性な苛立ちも湧き上がってくるのだが。
それでも悟がなぜ彼女を突き放すこともなく、半年以上もの交流を続けたのかと言えば、悟の内にある種の考えというか、思惑が湧いていたからに他ならない。そしてそれこそが、彼女に感じた魅力である。
彼女が後ろ楯を望むように、また下の者を服従させたがるように、悟も彼女に対して同じことを目論んでいたのだ。
最も単純には使い走りで、例えば悟は突然彼女に電話して、「俺の服を買ってきてくれ」と頼むことがあった。
これは悟がファッション誌を読んでいて、半ば衝動的に新しい服が欲しくなっただけのことだが、悟は彼女に対して「受験が終わったら、お前と遊びに行きたいからな」と自分が受験生であり、今まさにそれに備えている最中であることを強調して告げていた。
するとたいていの場合、彼女は反抗するどころか「じゃあ私、悟さんと一緒にテニス観戦をしたいです」などと、妙に気乗りした明るい声で答えてくるので、それに調子を合わせてやるのだ。
しかし彼女が実際に品物を届けると、悟は深刻そうな、焦燥と思案と熱意の篭った表情を作りながら応対し、受験の忙しさを言い訳にすると共に、感謝の言葉と明確な男女の好意を仄めかす言葉でもって煙に巻き、品物を受け取るや否や対価も払わずすぐさま追い返した。
また別には、厄介事を請け負わされた時に、それを暗に押し付けるための、ある種の身代わり役としたり、決定権を彼女に委ねることで、責任の所在を曖昧にする保険役とすることがしばしばあった。
ただ、そうした扱いに彼女が感付きそうになるよりも早く、悟は彼女を助ける素振りも見せていた。
彼女の所属するテニス部に顔を出し、彼女が叱咤する後輩の反抗的な気配を鎮めたり、どころか尊敬の念を集めさせたりすることで、望まれている『後ろ楯』を演じるのだ。それは彼女が潰されることを懸念した善意とも呼べたが、結局は彼女を完全に掌握するための計略に他ならなかった。
いずれにせよ、そうした行為によって悟の思惑はまさしく現実のものとなり、沙織の依存度は増していったし、その交流をさらに深みへと沈ませていった。
そしてある時のことである。
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