一章
第2話
■1
長野県の北部にある飯山市の、さらに北部という片隅の田舎で起きたある事件は、結局のところ大きな世間を騒がせることなどなかったが、少なくとも市内、あるいは県内に住む耳聡い者にとっては驚かされるものに違いなかった。
――伊勢崎家の存在というのは、地元の住民にとってちょっとした誇りだった。
夫妻は共に地元大学の出であるものの、彼らが育てた三人の子供のうち、少なくとも上のふたりは東西の著名な大学へ進み、そのうちの長男は卒業後に婿入りして苗字を変えたものの、医師として県内の病院に勤めているし、次男は在学中ではあるが、優秀な弁護士になると目されているほどである。
それらから少し歳が離れて、もうひとり――伊勢崎家には悟という名前の三男がいた。
彼は兄たちとは違い、特に彼を溺愛する母親の意向によって一般的な公立高校へ入学する道を選ばされたものの、そうした中でも兄たちと同じく注目を浴びる存在ではあった。
校内では常に優秀な成績を修めており、身体能力も運動部に全く引けを取らないという水準に達し、少なからず顔立ち、スタイルが良いため、女子生徒たちの多くが彼の観賞に時間を費やしたほどだ。
人当たりも良好で、あるいは世渡りが上手いとでも言うべきだろうか。
クラスの男子生徒のうち、派手好きなグループの中に入り込むと、同性であっても彼を表立って非難できる者はいなくなったし、悪意的な批評を行いたがる少数の者になんらかの憤懣を抱かれるとしても、抽象的な感情論以外の付け入る隙を極力与えないようにと振舞うことができていた。
少なくとも、胸の内に秘める暗部を大衆の前で曝け出すなどという失態は、全く見せなかったのである。
彼は幼少の頃からそうした術を身に着けていたし、それは高校に入ったとしても変わることはなかった。
どころか過去よりも外観の取り繕い方は強固になり、より強いグループを選出することが容易になったし、より確実な言い回しによって自分を守護することが可能になったと言える。
同時に内面との落差も大きいものにしていたが、それを埋めるのは常に自室の中のみで、悟は二階にある自室の隣に、兄のどちらかが久しぶりに帰宅していることがないのを確認すると、自分を溺愛してくる母親が玄関から部屋まで付き添いながら他愛ない話や賞賛を向けてくるのに愛想のいい答えを返し、自室に入ると勉強を理由に彼女を追い出して扉を閉め切るのだ。
そうして母親が軽い足取りで階下の居間や台所へ引っ込んでいく音を聞き取ると、悟は今までの誠実とした表情を豹変させ、面倒臭そうに脱力させた口で大きなあくびを作りながら身体を伸ばし、着替えもそこそこにベッドへ倒れ込むのである。
これはやはり過去から変わらぬ、ある種の習慣と言ってもいい行動だった。
大きな溜息を落としてから舌打ちをするのはよくあることで、そこから悪口雑言に続くのも――クラスメイトたちには決して知られることないが――、悟の中ではなんら特別なことではなかった。
「ったく……毎度しつこいんだよ、あのババアは」
顎を上げ、仰向けのまま天井というより壁を見るような格好になる。どちらも白一色のため見分けは付きにくいが、ともかく悟は呟いていた。
「どうでもいい話は長いし、何度も同じことで大袈裟に褒めやがって。嫌味ったらしいんだよ、ったく」
見下ろすように視線を向けた先にあるのは、部屋の扉である。
鍵が付いていないのが理不尽だったが、それに抗議するのは何かを察されてしまう気がして、我慢していた。
悟は次いで、窓の方を見やった。
ベッドボードのせいで見辛いものの、夕陽を入り込ませているのは見て取れる。仮に視界を遮るものが一切なかったとしたら、その先には恐らく、自分の通う高校の端くらいは見えただろう。
「クラスの連中も、女どもはいいにしても、あいつらはいちいち俺に突っかかってきやがるからな。オタクどもは隅の方でぶつぶつやってて目障りだし、他の連中も鬱陶しいし」
頭の中に思い出される一日の断片に、逐一悪態をついていく。
時にそれは、その日のことに拘らず、過去に遡るか、未来を推測したものにまでなることがあった。そうやって苛立たしげな断片を一つ一つ頭の中で潰していき、最終的には大きな憤懣の塊が現れる。
「そういや、あれが俺の責任されかけてたな。決めたのは俺じゃねえってのに、クソ!」
伸ばしていた手を軽く振り上げ、悟は枕を叩いた。その勢いで立ち上がって、首を回しながら嘆息する。
「ったく……馬鹿と付き合うのは疲れるな」
ベッドを背にして、冷ややかなフローリングの感触を味わいながら、部屋の奥にある本棚へ向かう。
そこから適当なものをいくつか抜き取ると、隣に置かれた机の前に座った。着替えのついでに放り投げておいた鞄が乗っていたので、それは適当に押しのけておく。
そして本を広げようとしたところで、黄土色をした木目調の机が薄い朱色に染まっていることに気付いた――夕陽のせいである。
悟はすぐに立ち上がると、まだ照明を点けるほどでもない明るさだが、赤い日差しが入り込んでくるのが鬱陶しいためカーテンを閉め、照明に頼ることにした。
白い光に照らされて、ようやく本を読める状態になる。
もっとも手にしていたのはどうということもない雑誌や漫画の類で、それを読むためにわざわざ机の前に座るというのは馬鹿らしくもあったが、その後に訪れるはずの手間を避けるために必要なことでもあった。
ほどなくして、誰かが階段を上ってくる音が聞こえた。
それはすぐに部屋の前までやってくると、控えめにノックの音を響かせてから、奇妙に明るい声音で言ってくるのだ。
「悟、コーヒーを持ってきたわ。夕食はもう少しでできるから」
そして部屋の主の返事を待たずして、扉が開けられる。
入ってきたのは細いフレームの眼鏡と対照的な小太りの体型をして、悟とは似ても似つかないが、紛れもなく母親である――悟を産んでから体型を崩したと言っているものの、昔の姿など探る気もないので真相はわからない。
悟は振り向く必要すら感じなかったが、それでも愛想良く「ありがとう、母さん」と告げる顔を向けて彼女を受け入れた。
もっとも、その突然で不躾な行動に対して本来ならば激昂したいところではあった。
というよりも、過去に数度、控えめにプライバシーについて説き、理解を得ようとしたことがあったのだが。そして母はその都度、言葉の上では深く固い了承をしてみせながら、その実、それを実践することは一度としてなく、悟は彼女の突然の訪問に対してなんらかの反抗を見せることも諦めていた。
少なくとも自分は溺愛されているし、ならば強く反抗してそこに傷を付けるよりも、やり過ごす対抗策を見い出した方が得策だというのが、悟の考えでもあった。
そのため、悟は足音が聞こえた時点で既に”準備”を始めており、ノブが回される頃には完了させていた。
机の上には、鞄から引きずり出した勉強道具が並んでいるのだ。本棚から持ってきた類は、装丁を変えてある。
母親はそれを見て、悟が言葉通りに帰宅からずっと勉強を続けていたと信じ切り、感心しながら恭しくコーヒーを机の隅に置くのだった。
そうしてから「勉強の調子はどう?」とか「この分ならお兄ちゃんたちと同じ大学にも行けるかもしれないわね」とか、毎度変わらないことをひとしきり言い、満足すると踵を返し、悟はそれを愛想良く見送った。
扉が閉じられ、ひとりきりの部屋に戻ると、悟は再び耳を澄ます。
そして足音が遠退くのを待つと……悟は憤懣に鼻から息を吐き出して、ノートにペンを突き立てた。
数ページに穴が空くが、どうせどれも白紙か、意味のない文字の羅列でしかないのだし、今後もそうなのだから構わないだろう。
「誰が兄貴たちと同じ道になんか進むかよ。あんな苦労し続ける人生なんてよ」
嘲笑を吐いて、壁の方を見やる。
その先には無人である、兄たちの部屋があるはずだった。今も忙しく、なんらかの仕事か勉強をこなしているであろうふたりだ。
悟はそこに胸中で舌を出し、ひょっとすれば中指を立てたかもしれない。いずれにせよ、口から出たのは忌々しげな言葉だった。
「俺ならもっと楽に、豪遊できるに決まってる」
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