IRON HORN 3RD VOL.

登場人物

テンペル……アドラスティア総督であり、一代で財団を築き上げた実業家。

ホームズ……第一柱兼代理総督。キロム海軍にいた。

ハレー……第二柱。写真家やジャーナリストとして表社会に名義を持つ。

キルヒ……第七柱。元エハンス竜騎士。

レナウン・ジェス・スター……アドラスティア特務隊員。

イルムガルト・クリューガー……同。

ヘクター・マディソン……同。

アーヴィン・オースティン……同。

レナ・ブルージュ……ネメシス司令。元砂漠の傭兵であり、歌姫の異名を持つ。



 地区大会の勢いそのままに、リーブスがキロム一部を制した。ジグロが崩壊しミッドランドから選手の供給が望めなくなって以来、初の栄冠だった。だが撮影を通してリーブス、ひいてはキロムリーグに僕を満足させる選手はいなかった。マルコを筆頭とするジグロ人選手が躍動していたかつてより、単純な技術はよほど洗練されただろう。だが、何かが足りないのだ。

 ここまで思考を重ねて、僕は首を振る。僕の価値観は、古くなったのだろうか。否、価値観は変えられるもの。それを写真で証明すればよいのだ。

 デビルズ開戦では第一旅団に同行し、十分な成果を得た。ファインダーに捉えた爆風は、灯火が消える瞬間。それは満たされない者たちが、最期に救いを求めた場所なのだろう。

 柱は、折れた。折れればそこには、何も残らない。オルコック、ツィナー、グリグ。兵士たちは己を見失い、戦いに身を投じた。彼らはすでに殺されていたのだろう。彼らの内側に巣食い、心を食らい尽くすくろがねに。

 だが、あるいは彼らはそれでよかったのかもしれない。そこには、偽りの答えがあるのだから。であればこそ、その戦場はほかのどの場所よりも美しいのだ。

 これで写真の整理は終わった。自分にはキロム人としての顔もあり、このような極寒の離島に足しげく通う必要はないのだが。今やアドラスティアは、柱になれない不揃いな兵士の集まりにすぎなかった。

 それはそれで、今の組織に必要な存在ではある。傭兵として各地の需要に応えるには、強すぎない方が好ましいのだ。それでも過酷な教練は積んであるため、よほどの強敵相手でなければ死ぬことはない。エリオは独自の手段で人材を集めているが、人が多すぎて詰まっているというのが実情だった。そもそも、アドラスティアがすべきことではないのだ。

「聞いたかジェス。総督代理が、私たちの中から柱を選んでるって」

「ああ、イルム。だが、俺たちにできるのか?」

「オルさんは復讐を遂げ、ツィナーさんとグリグさんはネメシスの前に散った。私たちがその代わりになんて――」

ここまで話したのち、こちらに気づき敬礼をする。彼らはまだましな方だ。まだ一年も経っていないが、むしろ柱に向かないほどに世間擦れしている。社会から食えぬと吐き捨てられた者が集まる場所も、ずいぶんと賑やかになったものだ。こんな状態では、ホームズのしわが増えるのも致し方ないだろう。どことなく、今のここに足りないものは緊張感なのかもしれなかった。

 ふらりとブリッジへ向かう。ホームズがいることはわかっている。と言うよりは、彼はここに幽閉されているという方が適切かもしれなかった。彼はただ、しかるべき時に力を貸してもらうと言われているだけだ。代理総督などと言う任務は、彼にとって退屈しのぎどころかいらだちの種を増やすばかりだったろう。

 エレベーターのドアが開くと、そこにいる影に僕は身構えた。

「き、キルヒ」

「よお、写真家。久しくだな」

その呼び名は、戦場に出ない自分を皮肉っているのだろう。

「それでホームズ。兵たちが盛り上がっていたが」

ああ、そのことだが。ホームズはその眉間の皺を解く。これが彼なりの喜色ということらしい。

「兵の増加はあるいは喜ぶべきことなのだろうが、しかし緩みが目立つ。ここは災禍だ。破壊をもたらす者は、恐れを内に抱かねばならん。オルのように自らを強く律し恐れられればよいが、そのようなものばかりではない」

妙にもったいぶるホームズに、僕はいやな思考を巡らせる。

「つまり、何をするのだ?」

「試すのだ。柱を望むならば、柱と立ち会って生き残ることだ」

吸った息が、口から出ていかなかった。この男は本気で、そのようなことを言っているのか。

「無理だ。キルヒに、魔竜に触れた者は死ぬしかない」

「ならばそれでいい。もとより兵士は、一度死ぬべきなのだ。そして生きている者のみ、柱として用いればよい。ハレー、矛盾していると思うか?」

僕は首を横に振る。確かにホームズの言う通りだ。だが、キルヒはまずい。破壊を目的とするような男を、そのようなことに用いるべきではないのだ。

「それでキルヒ、お前はどうなんだ」

「どう、とは何だ。俺は壊せるならば、それでよい」

用意は、とうにできていた。兵たちに集合がかかる。アドラスティアの一般兵は搭乗員だけで四十人程度。それが一堂に会せば、さすがにブリッジも狭くなるというものだ。

 そしてキルヒの存在は、この灰汁だらけの連中に私語ひとつ許さなかった。

「貴様らも知っている通り、三本の柱が折れた。ブランペインは裏切り、ピエラも精彩を欠いている。柱が、足りないのだ」

声をあげたのはひとりの兵だった。

「それで俺たちが、柱になれる可能性があるのですね」

「そう急ぐな。望むならば、我々は試す。そこで貴様らは死ぬのだ。スター、貴様もアドラスティアの兵ならば、こう言うだけで十分だろう」

望む者は、前に出よ。いつになく威厳のあるホームズの言葉は、兵たちの奥底に響いただろうか。その言葉に重みが乗らずとも、この機会の持つ意味は誰もが理解する。栄光か、死か。もっともその先に待つものが栄光でないことを、全ての柱が理解している。

 大方の予想通り、多くの者が前に出た。彼らは血走った目で、何かを求めていた。その欲望こそ、くろがねの種。冀うものが手に入らぬと知ることが、人を柱へと変える。

「ふむ。なるほど。では今後ろにいる者、貴様らには傘下の軍事組織に編入してもらう。そこで貴様ら自身の戦いを満たすがよい。アドラスティアも転換期に入っている。些末な任務のための兵は不要だ」

そして前に出た者。ホームズの視線が一層冷たさを増す。それは、あるいは彼なりの期待なのかもしれなかった。

「覚悟はあるな、では各々の機体に向かえ。そこで追って通達する」

キルヒ。含みを持たせるように、その大柄な男をちらと見る。

「演習場にて待機。これは実戦だ。では、解散」

不揃いな敬礼ののち、兵たちが去っていく。その後エレベーターの扉が開き、キルヒがゆっくりと進んだ。柱の優先と混雑を避ける目的で、兵士はエレベーターの使用が許可されていない。長大な階段を、小走りで登っていくのだ。

 セッティングの完了を見て、僕はここで後ろを向く。僕は、ホームズの驚くべき言葉を聞いた。

「では、我々も向かうぞ」

さぞ重そうに腰を上げ、ゆっくりと進んでいく。そろそろエレベーターも来る頃だろうか。

「あなたが出るとは」

「ここに座っていると、敵の命ばかり軽く見えるのでな。時には同胞が傷を負う姿も見ねばならん」

彼は今のアドラスティアで唯一、正規軍出身の柱だ。故に戦略にあかるく、大局のみを見る。ゆえに僕は、今の彼の回答に満足しておくことにした。

 演習場は拠点の中心部をくりぬいて用意されている。ドームになっており、豪雪が視界を曇らせることはない。ここは兵士が力をつけ、柱が自らの怒りをぶつける場所だ。周囲には窓もあり、どこからでも見ることができる。

「ここも静かになりました。かつてなど、ベネットが徒らに兵を傷つけていましたから」

「そうだな。それも、よい恐れとなっていた」

そうだろうか。第三柱、ベネットは自らの満たされなさのために兵に手をかける男だった。彼の戦いは、内的でありすぎたのだろう。突発的に起こる燃えるような殺意を、彼は即座に満たさねばならなかった。故に兵を傷つけ、時に殺した。

 それ故非番の兵士は彼がいるというだけで震えあがったものだ。だが理不尽を恐れ萎縮することは、災禍としてはいただけるものではなかった。

 話しながらそのようなことを思い出していると、一機の巨人がドームの中心に立つ。第七柱、キルヒ。この男の持つ闇は、他の柱とは質の違うものだろう。柱が何もかもを失った先に抱く、満たされぬ思い。彼はそれを抱いて生まれてきたのだ。

 ホームズが提示した条件は単純だった。キルヒを相手取り、一分間生き延びればよい。勝てずともよいというのだ。又キルヒの方にも、認めた相手に限り攻撃をやめることが許されている。つまり、キルヒの戦いを満足させることができれば、柱として認められる。

 これがいかに荒唐無稽であるか、僕はよく知っている。そしてこの催しが始まった今、全ての兵士が理解しただろう。自らに課せられた死と、彼らは向き合わねばならない。そしてその多くは、定められた末路へと向かう。

「これで七人目か。そもそも最初の一撃を受けられん。逃げる者は、より救えんな。背を向ける相手を、あの男が撃ち漏らしたことはない。こいつも同じ――」

甲高い刃の音が、この日初めて響き渡った。キルヒの得物はグレイヴ。他のエハンス騎士のように、いちいちひとりずつ穂先で突くことはない。ただ命の群れに踏み込んで、斬るだけ。壊しつくすことだけが魔竜の、キルヒの戦いだった。

 ただこの男は、目の前のものが壊れづらいことに何の喜びも感じない。一合目より深く、速度を増して襲い掛かる。ここで僕が驚いたのは、向かい合う兵士に対してだった。魔竜の殺意を、巧妙に受け流している。確かに後退してはいるが、外周を使って逃げのびていた。

「彼は」

「レナウン・ジェス・スター。しぶとさなら柱にも引けを取らん。だがそれだけでは」

ホームズは退屈だと言うように口元を歪める。逃げているだけでは、資質なしというところだろうか。これでは助命もないだろう。

 そうして一分が過ぎようとしたとき、キルヒの動きが変わった。その一フィートの修正は、命を刈り取るためのもの。そして兵士の巨人に、それを受けるすべはない。

「よくやったが、終わったな」

七回目の光。巨人は爆散した。鉄くずが固い床に音を立てて降り積もる中、キルヒは柄を長く持ちある一点に突き立てた。

――代理、ようやくだ。

その意味を、わかりかねた。だがその切っ先を見るにつけ、苦笑が漏れる。この兵士は乗機の末路が決まったと見るや、コクピットから脱出していたのだ。無論、生身で攻撃を受ければ死ぬ。ゆえに、背後から斬らせた。そうすれば発見の前に一分が過ぎることを、計算に入れていたとしか考えられない。柱が皆これほどの食わせ物なら、入れ替えなどないのだろう。

 だがそこから二十人まで、一分を生き延びる者は現れなかった。なかには一瞬ではあるが渡り合うものもいた。だが柱に必要なものは、技量などではないのだ。

 そうして見ていると、ホームズの目が変わった。見るとそこには、一分耐え抜いた兵士がいるではないか。要所で剣を用い、あとは身のこなしだけであの死の一閃を防ぎ続けたのだ。

「アーヴィン・オースティン。新参だが、ここまでとは」

彼は落ち着き払った様子で、こちらに一礼する。その身のこなしからは、余裕すら感じられた。

 そしてその次は、派手な装飾がなされた巨人だった。大陸東部を思わせる彫り込みに頭冠、明らかに戦場で目立つための巨人だった。

「色物、という言葉がありますが」

ホームズはそれを聞いても表情ひとつ変えず、ただそれを見ていた。これまでの全員に言及していただけに、この沈黙の意味を測りかねた。

 だが理由はすぐにわかった。強いのだ。この男は。一手受け、一手攻める。ただそれだけのことが、魔竜にできる兵士は少ない。そして一分が経過し、互いに燻りを残し物別れとなった。

「講談の節を好むが、所詮は色物。だが奴の戦いは侮れん」

そして、長い蹂躙の時間が過ぎる。キルヒも気が立っており、憤懣をぶつけるように切り捨てていった。気づけばもう、残る兵はひとりとなっていた。

「最後ですな。どうです、彼は」

「あれは女だ。イルムガルト・クリューガー。実力はあるが、ネメシス向きのおとなしい兵士だ」

気の毒に、そう吐き捨てようとした僕は、目の前で繰り広げられる光景に目を疑った。 

 おとなしいと言われた兵士は、果敢にもキルヒに斬りかかったのだ。騎兵槍を巧みに操り、自ら圧をかけていく。これにはキルヒも、一旦守勢に入らざるを得ない。そしてあろうことか、さらなる攻めを繰り出したのだ。

 だが反撃は迅速だった。大振りの隙を穿つグレイヴの一撃は彼女を後退させ、形成を逆転させた。加えてもう一振りで、槍を真っ二つに叩き折った。対峙する相手を丸腰と見たキルヒは、とどめを刺すべくもう一歩踏み出す。すれ違うように、動力部を撫で切るべく加速した。

 背を向け、キルヒは結果を待つ。残り五秒か。グレイヴを握り直し、ひとつため息をつく。

――甘い。背後を取るなら、殺意は消すことだ。

 イルムは静止していた。手槍とメイスの要領で構え、動力部をかき切る用意をしたまま。あと一秒でもあれば、両手の武器はその目的を果たしただろう。しかし、動けない。その腹部には、短く持ったグレイヴがぴたりとあてがわれていた。

 そして不可解だったのは、僕の時計で静止してから二秒の猶予があったことだ。それは、キルヒが巨人を殺すには長すぎる時間だった。

「終わりだ。全機帰投し、司令室へ。ハレー、行くぞ」

「あ、ああ」

速やかに司令室へと向かい、定位置に着く。もうひとつ、これができない柱はいない、というものがあるのだ。

 そうしてエレベーターがいち往復する。僕は両手を腰に構え、あるものを取り出す。そのまま三回転させて握り直すと、ドアに向かって四発撃ち抜く。ホームズはエレベーターで来るようにと言っている。

 今の柱には、全て僕が執り行っている。キルヒは手甲で跳ね返した。ピエラは左に避けた上で僕の発射後の隙を狙った。ブランは、ただ首を傾げて回避行動とした。彼らの性質を加味すれば、配置は当然――。

「な、いない?」

「キルヒ、どういうことだ。説明しろ」

当のキルヒは大きく息を吸い、ばかばかしいとばかりにため息をついた。

「どうもこうもねえよ。ほら、出てこい」

そう言って振り向くと、エレベーターのかごの上からきまり悪そうに四つ顔を出した。

「もう、危ないからキルヒさんもって言ったのに」

「いいさ、イルム。このひと不死身だから」

「なぜ僕まで」

「そうさ、目の前で華麗に回避してこそホームズ殿も認めてくださるというものだろう」

そう言ってひとりずつ着地していく。四人目はつまづいて仰向けに転がった。

「ヘック、お前の転び癖はどうにかならんのか」

どうしようもない締まりのなさは、あるいは彼ら独特の空気なのだろうか。それならば、あるいは彼らも柱たりうるのかもしれない。

 ブリッジに居並ぶ男に向かい、ホームズは口を開く。

「おめでとう。と言うべきかな。アドラスティアの尖兵よ。総督に今回のことを提案したところ、四人分の名前とバッジを賜った。あのお方には、この結果もお見通しだったのだろう。だから貴様らは、今をもってして柱だ。ひとりずつ、任命を行う」

 彼にしては歯切れのよい声で、名前が呼ばれる。

 レナウン・ジェス・スター。第十五柱、その名はボウエル。

 イルムガルト・クリューガー。第十六柱、その名はコデック。

 ヘクター・マディソン。第十七柱、その名はブライ。

 アーヴィン・オースティン。第十八柱、その名はオースティン。

「貴様らを、その生まれの名で呼ぶことはもうない。貴様らは柱、屍兵なのだ」

「まどろっこしいことは、いいじゃないですか。要するに、勝てばいいんでしょ」

「敵は強いぞ」

ホームズの低い声にオースティンは胸に手を当てる。

「僕たちには、それができます。それが、アドラスティアの柱なのですから」

「そうとも。畏れ多くもこの私――」

「ブライ、何て名乗るかは知らないけど、柱名を名乗れと言ってるだろ。それともあれか、赤鰯のヘックとでも呼ばれたいのか」

「ちぇ、コデック嬢は手厳しい」

とにかくだ。咳払いののち、ホームズが締める。

「柱には独立した権限が与えられる。貴様らの戦いは、あくまで貴様ら自身のものだからだ。だが、私の命には従うように」

僕は苦笑せざるを得ない。これほど情けない軍事組織があろうか。だが現に十二柱以後、定着した柱はいない。ブランに至っては、強大な敵としてネメシスに居座っているではないか。歌姫率いるネメシスは強固な結束を持つほか、個の力でも大陸では傑出していると見ていい。アドラスティアはその力だけで世界に働きかけるが、仕切り役がホームズでは求心力がないのだろう。

 画面に地図が映し出され、四人の視線はそちらに向けられた。

「貴様らの最初の任務だ。サウスランド連邦では反政府軍が組織され、情勢は悪化の一途をたどっている。それで貴様らには」

「壊せばいいんだろ。政府軍をさ」

ホームズの表情に、ようやく安堵の色が浮かぶ。そうだ。アドラスティアは混迷を望む。そうして何もかもを壊しつくすのだ。

「戦闘は各地で行われている。指定した時間に巨人とともにケトスに乗れ。喜望峰南端にキルヒが制圧した拠点があるため、当面はそこを中心に行動してもらう。それでよいな」

「はい、問題ありません。それで、他にはなにか」

「そうだな。ハレー、あれを」

ぱちん。僕が指を弾くと、四人の胸の前にバッジが飛ぶ。落としたのは、当然ブライだけだった。

「いきなりなんですか、ハレー殿」

「なるほど、バッジか」

「これで俺たちも」

「柱ってことだ。なんかいいね」

あくまで彼らは変わらないのだろう。その背に翼を授かり、その心を炎が焼いたとしても。それならば、その在り方は災禍たりえるのかもしれなかった。

 五柱に解散を言い渡し、ホームズは椅子に腰を預けた。

「そして、ハレー」

「何でしょう」

「総督がお呼びだ。至急グレイフォレストへ」

それはあまりにも意外な言葉だった。だが、ここから彼の居城へは潜水艦と鉄道で丸一日以上かかる。すぐ、というのは無理な話だ。

「では明後日、面会できるかと」

「そうではない。テンペルビルまで巨人で行くのだ。キロム軍に許可は取ってある。総督のお力と、旧友の力添えによりな」

その微妙な表情の変化は、ホームズが総督に対し疑念を抱いていないことの証左だろう。あのお方も少しはこの不幸な男を労ってあげてもよいではないか。

 だが、それでよいのならば、僕としても気が楽だった。急いでいるわけではないが、長時間の移動は本意ではない。それに、彼は行方をくらますことも多いため、すぐに会えることの方が重要だった。

「一番機を整備させてある。今すぐに出られるぞ」

「わかりました」

そう言ってブリッジを去る。格納庫には、ずっとそこにあるというのに埃ひとつない巨人があった。一番機などという無機質な名も、これの在り方を批判しているようだった。

 動力を起動させると、忘れかけていた振動が全身を走る。そのままカタパルトに移り、三つ打ちで出撃する。音速を超えてしまえば、あとは直進するだけだった。

 キロム上空を一時間ほど飛行すれば、とおい地上にグレイフォレストが見える。世界第一の夜景とも言われるその摩天楼の中心に、それはあった。テンペルビルには財団傘下の大企業が居を構えるほか、最上階には総督の居室もある。そしてその上に、今から僕は降り立つのだ。速度を落とし、反力を上げ、ゆっくりと着地する。事を荒立てぬよう巨人専用のドックまで備えてあり、財団の資金が潤沢であることを示していた。

 分厚い天井を抜け、エレベーターで一フロアだけ降下する。そこにはひとつの部屋だけがあった。

 豪奢な通路を抜ければ、木彫り細工の重厚な扉がある。きっと内側には高硬度の鋼板がある。彼は用心深い方ではなかったが、周囲、特に兵器会社の者が取り付けたのだ。

 その重い扉は、しかし僕の存在を察知してか自動で開いた。その先にいた人物に、僕は思わず声をあげた。

「う、歌姫」

「なによ、いちゃ悪い?」

彼女は邪魔だというようにふくれっ面をしてみせる。砂漠やネメシスではついぞ見ないフィッシュテイルは、総督の前だからなのだろう。しかし、彼女は久しく姿を見せていなかった。あるいは、腹に何か抱えているのだろうか。

「いや、そう言うわけではないが」

「野次馬も、やり過ぎは嫌われるわよ」

とは言え、入室だけは許してくれるようだ。仮面の微笑は、僕を形だけでも受け入れてくれている。

「お呼び、ということでしたが」

「ああ、よく来てくれたね。少し話をしたくてな。パーセフォンも、久々に見た」

「自分の乗機など役不足だと嘆いていますよ」

そう言うと、総督は微笑を浮かべる。

「そうだろうか。私の目には、彼女が待っているように見えるが」

その視線は僕の目ではなく、僕の心を見ている。種まく人は皆、その性質を二語で表される。このお方、エリオ・ボッシュは放蕩の哲人だった。

「私は財を成した。およそ人が手に入れられるものは、国家を除けばもう手に入るだろう」

「いえ、総督ならば、国家ですら手に入れられるでしょう」

「そうかな。いや、それはいい。問題は、そこに私の欲しいものが何もなかった、ということなんだ」

総督は含み笑いとともに肩をすくめる。

「今は結論の時期ではない。まかれた種が萌芽し、開花し、結実する。その道のりの、始まりに過ぎないんだ」

総督。問いかける言葉には、確かに迷いがあった。

「あなたは、何を見ているのですか」

「遠く、さ」

窓を向いたまま、そう答えるだけ。彼はいつもそうだった。語る必要のないことには、沈黙を貫く。だが今だけは、その答えが彼にとっていくら陳腐なものであっても、それを聞かねばならなかった。

「総督、いや、エリオ・ボッシュ。あなたと同じ景色を世界の誰もが見るならば、何もかもが変わるでしょう。それを、その変化を、自分は見たいのです」

小さな影がそっと振り返る。それはたしかに、何かを夢見る者の微笑だった。

「ハレー、それは君が感じるべきものだ。私は、ただ願うだけさ。だれかが、何かを成せるよう」

なあ、そうだろう? 。そう言って歌姫の方を向く。何も纏わない彼女を見たのは、初めてだった。エリオは一度だけ、歌姫を評したことがある。あれは子供さ。誰より強く、誰より優しいからこそ、いつまでたっても大人になれない。たしかに、それは正鵠を得ているかもしれなかった。

「私もそう思うわ。当たり前よ、あなたに教わったもの。それより、話が途切れちゃった」

「はて、どういったものだったかな」

知らないふりをすれば、歌姫がそれにふくれっ面で拗ねてみせる。

「もう、何度も言ってるじゃないの」

ネメシスの総督になってほしい。それは僕にしてみれば驚くべき言葉だった。

「その役目は、君に任せたはずだ。私が出る幕はないよ」

「あのね。ウィシーに言われたの。属さないことで、ネメシスは大義とともにあった。でも今ロイスで力を蓄える中で、私たちだけでは大義を、見失うかもしれない。ネメシスであるために変えてはいけないこと、変えなければいけないことがきっとあるはず。だからエリオ」

私たちを、導いてほしい。歌姫は総督の背に、請うように語りかけた。

 しかしエリオは、こちらを向かない。ただ幾万の光に向かって、乾いた視線を向けるだけだ。

「それはできないよ。私はもう、何かをする人ではない。君とは、時々こうして話ができれば十分さ」

「あくまで、私ひとりでやりなさいってことね。いつもそう。やりたいことを言うだけで、やり方なんか教えてくれない」

すまないな。総督の言葉は、語りかけるように優しかった。だがその口調はすぐに厳しさを孕み、こちらの方を向いた。

「ハレー。いや、写真家マルク。フットボールもいいが、君にはこれ以上ない仕事がある。レナも聞いていてくれ」

「それは、いかなる」

歌姫の視線を感じると、総督は振り返った。

「思想というものの力は大きい。既に各地で爆破事件が起きているのは知っているだろう」

「無論。ウエストバイアやカラノスなどの大国でよく耳にします。どころかここグレイフォレストでも、数週前に起きたばかりです」

「そうだ。いずれ、より大がかりな仕掛けが出る。それがミサイルか、巨人かはわからない。だが彼ら、いや彼女はきっと表舞台に現れるだろう。我が友を、得物として」

彼女。総督ははっきりとそう言った。アドラスティアとしても、危険人物は控えてある。その中で女性と言えば、枷の操手ドレイク、女王クイーンドス=サントス、紅眼のヴァン・ドーフマン。だがおそらく、今動き出すのは女だろう。ピエラですら、奴を殺すことはできなかった。

 それを聞いて含み笑いを見せるこちらは、砂漠の歌姫だった。

「アイリス・グラハム。彼女はその力を、更なる力のために使う。エリオの言う通り。すでに彼女はこの上ない武器を手にした。ネメシスは、彼女が事を起こすならばそれを止めるわ。だけどそれ以上のこと、彼女を滅ぼしたりはしない。アイリスが、救いを求める限りは」

「悠長な。そんなことをしている間に、奴は世界を混沌に包む。それはアドラスティアの望む、秩序ある混沌とは違う」

歌姫は微笑とともに首を横に振る。そこにネメシスとアドラスティアの、決定的な違いがあるのだろう。であればこそ、同じ方向を向くことがない。

 エリオはそうであることを楽しんでいるように、そっと立っていた。

「あとは、君たちで決めるといい。三十年続いた平和は、終わろうとしているんだ」

兵士の時代が来る。彼はそう嘯くことで、何かを吐き出そうとしているのかもしれなかった。

 ハレー。もう一度、今度は柱名で呼ばれる。僕は胸に手を当て、低く返事をした。

「君の居場所は、戦場にしかないよ。それは傍観者でなく、死を賭す者として」

「いえ、自分は戦いません」

わかっている。本当に求める景色は、自ら生み出すより他にない。だが僕は、もう少しだけ信じていたいのだろう。

 これを使う日が来ないことを。あるいはそれは、歌姫も同じかもしれなかった。

「話は終わりだよ」

切り上げるのはいつも総督だった。彼にしてみれば、雲の上は退屈だろう。空を飛べる、世界を俯瞰できる者としか話ができない。そのような人は世界に数えるほどしかいない。

「エリオ、今度どこかでお茶しましょうよ。戦争とか平和とか、そういうもののない場所で」

「ああ、君の歌も聴きたいな」

「あなたのサックスもよ。じゃ、またね」

歌姫が部屋を出て行く陰で、僕は苦笑を手で隠す。財団の会長相手にまたね、などと言える者が世界に何人いようか。彼らは師と弟子に近い関係のはずだが、どこか親しい友のような呼吸があった。

 視線が僕に移る。話が済んだ以上、僕も退席しなければならない。だから僕は扉に手をかけ、独り言のように口にした。

「種は、いくつ芽吹いていますか」

エリオの鼻息が漏れる。実を言えば、ローズ・クラスの内訳はほとんど知られていない。総督がすべての文書をもみ消したためだ。僕はうすく眉をひそめ、その先の言葉を待った。

「全てだよ。二十余輪は各々に地に根差し、うち一輪は花を咲かせ、残るは朽ちるか、咲かぬままに再び種をまいた。次世代の種は巡り逢い、時に交わり、開花の時を待っている。ネメシスでも、アドラスティアでも」

開いたドアに促されるように、僕は部屋を出る。その回答に満足することにしたのだ。

 警報が鳴り響く。通路が赤く染まり、急かされるように巨人のもとへ向かった。海上基地のものより手の込んだ豪奢なドックから、一機の巨人が飛び立つ。おそらく敵襲だろう。摩天楼の頂上で静止した僕は、接近する機影を見た。

 銃口がまっすぐ最上階に向けられる。通信は遮断されており、話し合いの余地はなさそうだ。僕は射線上に立ち、ただそちらを見た。

 発射と同時に距離を詰め、下腕で銃撃を受ける。そして得物を取り、一二、三と振り抜いた。完全には両断せず、パスを断ち切り無力化する。そして瞬間的に加速し、機体を蹴り飛ばす。都心は川中島であり、落下位置には困らないだろう。そして腰から一本の短刀を取り出すと、降下する敵に投げ込んだ。それが突き刺さるのは、機体が水中に没した直後。月明かりを反射したそのしぶきを背に、僕はビル街を離れていく。

 光に覆われたグレイフォレストを去り、暗い海に出る。海峡は数度の交戦を経てほとんど不可侵の様相を呈していた。オーナーズの子セロウ、そして亡国の健啖王女ミレーヌ。交わるはずのないふたりが消え、そこには緊張を生み出す種がなくなった。そのようなことにも、物足りなさを感じる自分がいた。

 操縦桿を握る手は汗ばんでこそいないものの、固さは否めない。自分はもう、戦いに戻ることはできないのだろう。戻りたいわけでもない。だが総督の言葉は予想を超えて内側に引っかかっていた。

「なあ、パース。僕はどうすればいい」

答えはない。財団によりプログラムに仮想人格として取り入れられたパーセフォンは、しかし寡黙だった。発話機能を彼女が用いたのは、結局出会った時の簡単な会話だけだ。彼女はじっと聞いている。僕が持つ問いの答えを出すために。

 秩序に冷笑を与え、混沌をこそ尊ぶ。そのような歪んだ在り方である限り、彼女が答えることはないのだろう。

 そうだとしても、僕は災禍として生きるよりほかない。それで世界が、自分自身が何を失おうとも。前に進むことなど、もはやできないのだから。

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