第二章
IRON HAND
登場人物
セロウ・ディング……ネメシス陸戦隊所属。キロム海軍を脱走してきた。軍に入る前から家族はおらず、父親以外の家族とは死別している。
シスル・ナイン……ネメシス陸戦隊所属。少年兵育成機関「黒い箱」の修了生でもある。黒い箱より前の記憶がない。
レナ・ブルージュ……謎の多い女性。暗い過去を持つらしい。
ヘンリー・ニルス……ネメシス空戦隊員。レナやウィシーとは旧知の仲。奔放な性格だが、戦場への思いは強い。
用語
キマイラ……この世界では天上の獣であり、邪悪なるものを喰らいその身に宿す存在。
アドラスティア……国籍を持たない軍事組織。ネメシスと違い自らの意思で行動する。
遠い青海から吹く風も少しばかりの暖かみを帯び始め、樹木の育ちづらいベローナ島の地表には小さな花が咲き始める。僕はこの季節、キロムの春が好きだった。
幼い僕はこの時期になると、家の広い庭に祖母とふたりで野菜の種を植える。葉野菜のほか、ナッツやジャイアントコーンなども用意した。そしてプランターに最初の水をやるとき、祖母が見せる柔らかな微笑を今でも思い出す。それは満足に親の愛を受けられなかった僕にとって、ひとつの救いだっただろう。土で汚れた掌には、確かにそういった優しさが存在した。それさえも、中等教育を終える頃には失われていたのだが。
僕は今、そのような過去の景色を旅している。七年前に死んだ祖母の菜園も、最低の男のことも、思い出そうという気になったのは珍しいことだ。ひとつずつ失っていったあの日から、やっと何かを得られたからかもしれない。海兵の同期とも繋がりはなかった。このような無気力な男には、付き合うだけの魅力がなかったのだろう。手を伸ばしても届かない懐かしい景色が、歪んでうねり始める。同時に聞き覚えのある声が聞こえた。僕はふっと微笑を浮かべ、帰るために目に力を入れた。景色は暗転し、ふたたび像を結ぶ。
「……ロウ、セロウ。よかった、目が覚めたのね」
「ああ。おはよう……でいいのかな。シスルは大丈夫だった?」
「……うん」
シスルの心配そうな声から、よほど重症なのかと自分の体を見渡す。だがこれといってひどい場所は見当たらなかった。当たりどころがよかったらしい。これなら数日もすれば、また教練から始められる。そして今一度シスルをよく見ると、なぜかふくれっ面をしていることに気がついた。なかなか目を覚まさなかったからだろうか。
「僕はどれだけ寝てた?」
「二日よ」
「誰かが運んでくれたのか」
「知らない。死んだ隊員は、回収できた分は全員弔った。私も私でたいへんだったから」
そうか、そうだよな。交戦なのだから死者も出る。無事に弔えたのなら、せめてもの救いだろう。自分もいつそうなるかわからないのだから。
しかし、視線がまっすぐに向かってくる。それに僅かばかり痛みを覚えた僕は、理由を聞いてみることにした。
「あの、シスル。君はなぜそんなにむくれているんだ」
シスルは口を尖らせながら、ひとつのことを口にした。
「……あの女が、セロウの寝込み襲おうとしてた」
「司令? まさか」
「ほんとよ。私見たもん」
「司令は隊長がいなくて寂しいだけだよ。諜報で数日ここを空けるって言ってたし」
「気をつけて」
「はいはい、わかりました」
そう言って僕は両手を挙げる。寝起き早々これではなんだか可愛らしく思えてくるものだが、しかし彼女の方も無傷ではなさそうだ。あれほど派手に切り捨てられたのに、爆散していない方が不思議だろう。
「……それより何だったの、あいつ。信じられないほど強かった」
その通りなのだ。あの戦場で僕たちは、まさしく未知と出会った。
ジェラールの空陸型巨人は乗り手の技量は一流だったが、性能が低かった。噂に聞く騎士団の機体だったら危うかっただろう。名乗りは副団長シモンと、一番槍ベルナールだったか。ともに長柄武器を取り、最後まで劣勢を覆すことはできなかった。
ニルスさんの戦いを初めて見たのも、この戦場だった。彼の巨人は手甲鉤を装備しており、優美で苛烈な攻めはシスルをも上回っていた。彼がいなければ、我ら囮部隊はベルナールに打ち砕かれていただろう。あの恐ろしい突破力を見事にいなし、動きを封じることは並の芸当ではない。それでいて彼は嗅覚に優れ、戦況を正確に読み取っていた。あの隊長が素行不良の彼に信頼を置く理由が、わかった気がした。
だが僕が最後に見たものは、その程度の強さなど、灰燼に帰すほどの力だった。動きの先に常に存在する攻撃。敵を寄せ付けない徹底した反応。シスルでしか強敵を知らなかった僕では、到底勝ち目がなかった。それにより戦線は崩壊し、敵味方問わず損害を負った。
「彼女はジェラールというよりは、ネメシスを狙って来ていた。であれば、また出会うことはあるはずだ」
「彼女、今彼女って言った? セロウ、奴を知っているの?」
目を丸くしているのは、僕の方だった。なぜ自分は女だと決めつけたのか。油田でも感じた、自分の中に誰かの感情が入ってくるような気分。それをあのフレインの空で強く感じた時に、女性的なイメージが漠然と浮かんだのだ。それは自他の境にある厚い壁を乗り越えてくる存在について知り得た、せめてもの情報なのだろうか。僕には説明する由もなかった。
「いや、知らない。だが、何か感じることがあったんだ。君を知った時に似た何かが」
ふうん。シスルはじっとこちらを見ている。表情は依然として険しいままだった。
「よそ見は、だめだからね」
「わかってるよ。そいつは敵だから」
「私だって敵だった。セロウは強い敵なら誰でもいいんでしょ」
そんなこと。否定の言葉を口にする前に、笑いがこみ上げてくるのを感じた。
「な、何がおかしいのよ」
「いや、何も」
「ふん」
そっぽを向いてしまった。こう見るとまだ子供なのだと再認識する。だが稀に浮かべるやけに品のある微笑は、彼女の本質に近いのだろうか。十七歳になる少女の眼鏡の奥は、いつも遠くを見ていた。
「あらセロウちゃん、お目覚め? 早く元気になってね。どうやら休んでもいられなさそうなの」
「またあの敵と出会う、ということですか」
「もしかしたら、ね。今意外なところから交信が来てるの。詳細が決まったら全体に伝えるわ。シスルちゃんは教練があるから、屋内演習場に来てね」
「わかりました。すぐに向かいます」
そういうと司令は、滑らかな動作で切り返し去っていった。シスルはそれを睨みつけたのち、こちらを向き直した。
「じゃあ、私も行くから。安静にね」
「はいはい」
シスルが行ってしまえば僕はやることがない。そのため蔵書を読むことにした。この海峡基地には、なぜか千を超える蔵書がある。国際法や軍略のほか、大衆文学から楽譜まである。それらの多くは、読書家でもある隊長が集めたものだそうだ。
読んだことのないものを取る気にもなれなかったため、僕は一冊の本を手に取った。
それはある歴史作家がその生涯をかけて執筆した長編小説で、名を「獅子王」という。僕は幼い頃からこの本が好きだった。
幼い主人公は各地の紛争を制し、やがてエドワード家の君主である「獅子王」の名を襲名する。そして宿敵である「蛇妃」「魔王」を退け、ついに西バイール地方の統一を成し遂げる。蛇や魔を食らった主人公は伝説として語り継がれ、畏敬の念を込めて「キマイラ」と呼ばれた。
戦場でシスルに特別な感情を持ったのは、これによるものも決して小さくない。ウエストバイアの兵士が巨人につけたキマイラのエンブレムに、僕は淡い憧れを抱いていたのだ。
することがないと余計なことを考える。僕は栄光の歴史に想いを馳せながら、思考の靄をかき消すことにした。
だが、それさえも許してはくれないらしい。急にドアが開いたかと思うと、かつかつと詰め寄ってくる大柄な影がひとつあった。つんとした匂いが鼻を突く。今日も酒を飲んでいるらしい。
「おう、セロウ。まだ寝てやがんのか。情けねえな、兵士は打たれ強くねえと生きてけんぞ」
あの時ニルスさんは、すんでのところで剣を弾き動力部への攻撃を防いでいた。それでも機体の状況を見るに、とても無傷でいられるようなものではない。よほど頑丈な人のようだ。おそらく普通の兵士が彼の生き方をすれば、どこかで死んでいるだろう。
「すみません。ところで、ニルスさん」
「何だ」
「う、後ろ」
入り口のドアにもたれかかるのは、司令だった。入り口がよく見える僕の位置からですら、ドアを開けたことに気づかなかった。振り向くニルスさんの赤い顔が、真っ青に染まるのがよく見えた。司令の色のない頬がにこっと動き、その口が開いた。
「ヘンリーちゃん、教練の時間よ」
「わ、わかってる。すぐに行く」
「今、行くのよ」
「はい……」
襟を引っ張っていく司令の顔には、薄い微笑が張り付いている。それは教練が最上級に過酷なものであることを意味していた。だがそれでも、ニルスさんが黙ってついて行くのは初めて見る。あれほど散々に負けることは、彼にとってよほど珍しかったのだろうか。
そろそろ機体の整備でもするか。そう思って腰を上げようとする。
痛。思わず声が漏れる。腕もやっているのか。だが幸い折れてはいないようだから、無理やりいくことはできる。
今なら衛生兵も別の作業で部屋を空けている。このタイミングで外へ出て……。
「ダメよ」
背後から声がする。入り口は通路に続くひとつのみのはずだ。だからなぜ、なぜ司令が後ろにいるのか、僕には分からなかった。
「あなたの状態は良くないわ。このまま巨人に乗れば、上腕をはじめ十二箇所で骨折を起こす危険がある」
「ですが、機体に慣らさなければ」
「作戦が近いの。あなたの技量ならどれほど治りが遅くても現場で調整できるわ。だから絶対安静。いい?」
そう言われると、頷くことしかできなかった。
「じゃ、教練に戻るから。これ、あなたが乗る巨人のマニュアル。暇なら読んでおいてね」
そう言って十インチはあろうかという紙の束が置かれる。これがどこから持ってこられたものなのか、司令はどこから入ったのか、いよいよわからない。だがわかることはある。
つくづくこの人には、敵わない。
マニュアルによれば、次に乗るのは空陸型のようだ。扱ったことはないが、先日敵対した騎士団の連中が使っていた。動きが重いが、安定感はある。しっかり攻撃を見極めれば、たとえ敵が十分な技量を持っていても対応できるだろう。彼女でなければ、の話だが。
なぜかは分からないが、確信できるのだ。あの巨人には少女が乗っている。シスルなどよりもよほど幼い少女が。でもなぜ。ネメシスのエンブレムは黒い羽に雷だが、彼女は白い羽に炎の意匠を施していた。これは資料によれば、ネメシス発足と同時期に誕生したという軍事組織のようだ。名をアドラスティアというらしい。キロム北岸で交戦したのは奴らだそうだが、技量は著しく高いとは思わなかった。せいぜい狙撃手に舌を巻いたのみである。それも劣勢と見るやすぐに撤退していったため結局全体の力量は掴めなかった。
あともうひとつ、黄色い花があった。シスルも付けていたように、これは黒い箱の所属であったことを意味している。黒い箱に収まった丸い五弁花の意匠は、彼女がまだ善悪を知らぬ子供だという証だった。
これもなぜか確信があることだが、彼女とはまた会うことになる。それも比較的すぐに、である。確かにアドラスティアはネメシスと敵対しているが、それだけでもない。
感応、とでも言うのだろうか。自分に近いものに対する感情が、吹きすさぶように通り過ぎたのだ。だがそれは、一方的な親近感だろう。鉄でできた手を伸ばしそれを知ろうとしても、にべもなく振り払われてしまう。それはシスルの時とは違う感覚だった。他愛もない空想のようで、どこかでそれを疑わなくなっている自分がいた。
ふと笑みがこぼれる。こんなことを考えていたら、シスルにまた怒られてしまう。食べ物でも用意して、機嫌をとってやらねば。そういえば、さっきもお腹が空いていたのかな。最近分かったことだが、駐屯地の食事が少ないと明らかに機嫌が悪い。そして残念なことに、そうなっている時のシスルは通常時より強い。作戦前には烹炊長が食事を減らしているという噂もあるほどだ。
そんな話が出るほどにはうちの雰囲気はゆるく、とても大義を信奉する組織とは思えない。司令が努めてそんな空気を生み出しているのだろうが、ここに流れ着いた兵士を見るにいい傾向なのだろう。確かな拠り所がある兵士は素質以上の力が出せる。最も素質だけの力を出すために教練を欠かさず行うのだが。
余計なことを考えるのはやめよう。先ほど起きたばかりなのに、すごく疲れがたまっている。柔らかいベッドでなければ寝れぬというわけではないが、疲れが取れないことも多くなってきた。意識が落ちるまでは、マニュアルでも見ておこうか。基本スペックは以前のものよりむしろ高く、フェイスカメラも視界が広くなり大分戦いやすくなった。だがスラスターの制御プログラムがかなりの部分を搭乗者に任せており、操縦に熟練を……。
――ここは……。
どこだろう。記憶の中の景色か。石畳の道は数多の足跡が歴史として刻まれ、木組みの家はその肌に昔の風情を残す。かつてウエストバイアへの旅行で立ち寄ったことがあるそこは、理想郷ともいうべき場所だった。遠くを見ると五歳にも満たぬであろう少女が二人、道を走っている。
「…………、こっちこっち」
「ちょっと…………、待ってよ」
名前だけは聞き取れない。小柄な赤毛の少女は、黒髪の少女に駆け寄り手を握る。横に並ぶと、身長は呼ばれた少女の方が少し高い。そしてふたりは、そのまま腕を前後に振りながら道を歩いていく。
「うちは…………と一緒」
「もう、…………。私はずっとそのつもりだよ」
頬を赤らめて答える。この景色がどういう意味を持つのか、僕にはわからない。だが二人の影が消えていく直前、ひとつの単語が脳裏をよぎる。
エリザ。おそらくそれは、人の名前だろう。フレインで出会った搭乗員だろうか。僕には心当たりがなかった。
黒髪の少女がくるりとこちらを向く。それは親友に見せる笑顔とは真逆の、氷のように冷たい眼差しだった――。
はっと声をあげた僕は、現実に戻ったことを知った。
「セロウ、また寝てたの。ほら、物資のお菓子取ってきた。食べなさい」
「エリザ……?」
僕が本当に目を覚ましたのは、平手打ちを受けた時だっただろう。怒るのも無理はない。そう思うのは、もう少し肩を揺さぶられてからだった。
「お、おはよう」
「おはようじゃないでしょ。エリザって、誰よ」
おや、これは思ったよりおかんむりだな。どう言い訳すべきか。
僕は窮した。わからないから、言い訳のしようがないのである。その場しのぎに徹するほか無い。
「い、妹、だよ」
「妹?」
「そう、父親が同じなんだ。今はウエストバイアに住んでるけど、幼い頃は一緒に住んでた」
嘘である。知る限り、僕に兄弟はいない。だからすぐに後悔した。すんなり否定しておけばよいものを、なぜこのようなことを口走ってしまったのか。
「そう、なの。セロウに妹なんて、意外ね」
「ごめん、言ってなかったね」
そして意外にも、容易に騙し通せてしまった。これは後で取繕わねばならんな。とはいうものの、僕がこれから親類と会うようなことはないのだが。
「それで、お菓子を買ってきてくれたって」
「あげない。私が全部食べる」
「太るよ」
「太らないわよ! 今日だって、誰かさんのせいでやたら厳しい教練やってきたんだから」
「わ、わかった。わかったからそんな顔しないで」
声を荒げて落ち着いたのか、シスルは表情を和らげベッドに腰掛ける。
「確かに、食べ過ぎは良くないよね」
あげる。そう突き出されたのは、ひとつのチョコレート菓子。ナッツやキャラメルなどが練りこまれた、体型を気にする女の子にはとても似つかわしくない高カロリー食品だ。
「あ、ありがとう。体には、気をつけてね」
「ベッドの上で何いってるのよ。冗談は休んでからにしなさい」
「はいはい」
ふと間ができる。沈黙には、互い弱かった。シスルはベッドに腰をかけ、足をぶらぶらさせている。視線は定まっておらず、機会をうかがっているのだろうか。僕が口を開こうとすると、シスルはこちらを向き直した。
「それでね、セロウの」
「新しい巨人のことなんだけど」
ほぼ同時だった。こういったハプニングがあると、なかなか話が始まらない。互いの頬の熱を感じながら、やっとの事で口を開いた。
「スペック的にはかなりすごいね。前の機体を完全に凌駕してる。ただ操縦に癖があって難しそう」
「私のは多分修理してまた使えるわ。セロウのやつはあの剣だけ回収できたみたい」
「フレインからしっかり倍の報酬をいただく辺り、司令も抜け目ないよ。そのおかげで補給できてるんだから」
「そうね、そこだけは評価できる」
「司令は最悪戦場で慣れろというけど、そう簡単にできることじゃないよ。毎日治療カプセルに入っても、あと三日は安静にだってさ」
「できるわよ、セロウなら。みんなセロウの実力を買ってるのよ」
「それならいいけど」
ゆるやかな時が流れる。やっと手に入れた優しい雰囲気のなかで僕は、ひきつづき仕様書を読み始めることにした。
通称はアレス。全高は十四メートルと平均的だが、空陸型のためやや重い。武装は左手の三十ミリ内蔵機銃にバックラー、腰のオプションラッチに誘導榴弾が二発と平均的な量はある。地上の走破性も十分なようで、乗機として申し分ない。次の戦いでは敵が高性能機ばかりということもありうる。巨人の進化は目まぐるしく、ジェラールなどの軍事大国やキロムなどの先進国で日夜研究が進んでいる。空陸型のコストダウンは目を見張るもので、分業制が終わり空陸型が主流になる未来もすぐそこだった。だから自分たちも、万全の整備で臨まなければならない。性能は十二分だから、引き出さねば。
それができないという痛手は、全身に走る激痛などよりもよほど大きなものだった。整備箇所を確認して出撃直前にでも見ておかなければいけない。そうでもしないと気が済まないというわけではないが、効果があるのは経験で知っている。このようなことをアスリートが言うのをテレビで見たことがあるが、感覚は同じなのだろう。
そのような話などシスルにできるわけもないが、ともかく休むしかできない歯がゆさはどうにもならなかった。
ちらと横を向くと、シスルが寝息を立てている。疲れが出ているのだろう。僕はその背に手を置き、なんの支えにもなれない自分を詫びた。
隊長はある調査のため基地を空けている。それについては問題ないのだが、あるとすればその間陸戦隊を受け持つのがニルスさんだということだ。さっきもアルコールが入っていたし、教練に来ないことも多い。実力は皆が認めているが、それだけでついてくるものかは疑問が残る。先ほども廊下を慌ただしく走る音が聞こえたが、また司令に余計なことを言ったのだろうか。今日も拠点は平和である。
キロム海峡北部に浮かぶこの島は国際的武装中立を標榜しており、航空機はおろか電磁波すら許可なしでこの領空を侵すことはできない。その場所は一部の者を除いて知ることはできず、地図からも消去されている。キロム軍人なら誰もが存在を知っているが、僕が正確な場所まで知り得たのは本当に偶然だった。油田に対する不穏な動きを察知し上層部が慌てていた時、ふと床に落ちていたその資料を手にしたのだ。出会ったシスルに対し、あてならあると強く言えたのはこのおかげだった。
「……さま。私は、いつも……。どうか……」
寝言を言っているようだ。なにやら抜き差しならなそうだが、それはそれで彼女のなかの必要な部分なのだろう。
ともかくあの離れ小島での出来事が、僕の中で十年止まっていた歯車をまた動かしたのは間違いないだろう。先のことはわからないと思うし、今ならそれさえ面白いと思える。
それならば、いいではないか。結論はこれから出すことができる。それならば――。
招集のアラームが鳴る。僕はかばりと起き上がり、ベッドのふちに手をかけた。四肢が負荷に耐えかね危険信号を発する。この程度、そう思って重心を動かそうとした。だが僕の腰がベッドを離れるより、シスルの手が伸びる方が先だった。その目は落ち着いていたが、有無を言わさぬ強さがあった。
「大丈夫、私がなんとかする」
「それでも、招集に応じないわけには」
「あの女に、言われてるの。だから黙って待ってて」
それに私にも、確かめなくちゃいけないことができたから。そういってシスルは去って行く。
僕はあっけにとられながら、その背中を見送ることにした。あの海峡の離れ小島では消え入りそうだった背中が、今は確かな力を持っているようだった。
そんな中での警報である。アドラスティアがここに攻めてくることは考えにくい。奴らの拠点は海上五十キロの距離にありながら、他国でしか仕掛けてこないのだ。であれば何だろう。
もし。隊長の身に何か起こったとしたら。隊長は交渉人でもある司令の手足として出向くことが多い。だが今回の行き先はノースランドの紛争地帯。いくら隊長でも少し危険といえた。
だがもし本当にそうであれば、戦争が起こる。隊長を傷つけるものを、司令が許すはずがないからだ。そこに大義などない。誰であれ、それが地上からなくなるまで戦い抜くだろう。
役人が既得権益を失いたくないように、子供がおもちゃを手放したくないように、手に入った幸福のためであれば誰であれ力を尽くす。
流れ着いたものにとって、その悲痛さはより大きなものだ。そうであれば、僕にできることは何だろう。少ない調整でも機体を手足とできるよう、仕様書を読み込む。あの少女と戦場でまた出逢ったとき、同じように負けることは許されない。それ以上に確かめなければならないことがあるのならば、なおさらだった。
夢の中の少女は僕に何かを伝えようとしているのか、あるいは僕が彼女から何かを知ろうとしているのか。
細かなスペックや整備の手順などに目を通しながら、僕は自身の中に確かに去来しているに不可解さついて考え始めていた。
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