日はまた昇る

三角海域

第1話

 クリスマスが終わると同時に、近所のスーパーに正月がやってきた。

 元々クリスマスケーキの予約受付の隣におせちの予約受付があるという季節感のなさだったから、気の早い正月がマシに思えてくる。

 テレビでよく見かける女優が微笑み、その顔のすぐ横にあけましておめでとうございますと書かれているポスターを見つめる。この女優はこれから五日以上こうして気の早い正月の挨拶を笑顔でし続けるのだ。そんな風に考えると、少しだけ面白くもある。

 酒のコーナーに向かい、いつも飲んでいるウイスキーと、すでにセール品になっていたシャンパンを手に取る。つまみにチーズとサラミ、スモークサーモンを購入する。クリスマスの売れ残りのおかげで、いつもよりも贅沢な晩酌になりそうだった。

 店を出る前に、俺は気の早い挨拶をしている女優のポスターにお疲れさんと言い、店を出た。

 時刻はすでに深夜。町は静まり返っていて、寒さも増している。もう少し厚手のコートを着てくればよかったかもしれない。ついでにマフラーも巻いてきた方がよかった。

 そんな風に自分をなじりながら、俺は歩き出す。

 いざ歩き出すと、身体は少し暖かくなってくる。上り坂が多いせいかもしれない。一定間隔で吐き出される息が、白い霧のように夜の中に浮かんでいく。

 俺は朝が好きだ。夜の張り詰めた空気が柔らかいものに変わっていくのが昔から好きだった。こうして深夜に起きてつまみと酒を買うのも、その瞬間をじっくり味わうためだ。

 坂を上り終えると、俺の住むマンションが見えてくる。中央にそれなりに大きな公園があり、その公園を囲むようにマンションが建っている。囲むといっても、各棟ごとの距離はそこそこあり、公園のまわりを巨大な壁が囲むなんてことにはなっていない。それはそれで面白いのではと思うのだが、それでは住む人間がいなくなる。

 マンションにおける住人同士のディスコミュニケーションの閉塞を表現しましたなんてのは、芸術家気取りか評論家気取りの連中にしか受け入れられないものなのだ。

 俺の住む棟は、公園を抜けた先にある。いつも通り迂回して公園の横を通っていくのもいいが、たまには公園を突っ切ってみようか。別に理由があるわけではないのだが。

 そんな気まぐれのせいか、公園を横切る途中、不思議なものが視界に入ってきた。

 子供。

 こんな時間に? もしかすると、幽霊か何かだろうか。それにしては、ずいぶん寒そうにしている。幽霊は寒さを感じるのだろうか。

 無視するのが正解だったのだろう。だが、深夜で気分がどうかしていたのか、もしくは幽霊は寒さを感じるのかという興味に負けたのか、俺は子供に近づき、声をかけた。

「やあ」

 子供はおびえた様子でこちらを見る。

「失礼なことを訊くのだけど、君は幽霊かな?」

 子供は未だおびえたままだ。

「別に君をどうにかしようなんて思っていない。ただ、君が幽霊なのか、そうでないのかが気になってしまって」

 子供は首を横に振った。

「なるほど。ありがとう、すっきりしたよ。ところで、君が人間なら、どうしてこんな時間に公園にいるんだい? それにそんな薄着で」

 子供は薄手のシャツとよれたズボンをはいているだけだった。それに、靴も履いていない。活発で公園を裸足で駆けまわるタイプには見えないし、そもそも今は深夜だ。子供が駆け回る時間ではないだろう。そういう子がいないとは言い切れないが。

 子供は何も言わない。ただ震えているばかりだ。

「寒いのか?」

 少し間を置いて、子供が頷いた。

「俺の部屋に来るか? 少しは暖かいと思うよ。あ、安心してほしいのだけど、俺にはそういう趣味はない」

 子供はそういう趣味という部分をあまり理解していないようだった。それでも、明確に俺の提案を断った。

「怒られるから」

 至極真っ当で子供のような答えだった。いや、実際に子供なのだが、こんな状況で当たり前の返しをされるのが少し愉快だった。

「そうか。怒られるのか」

 子供は頷く。

「なるほど。しかし、君はなぜこうして深夜の公園で震えているのか、余計に気になってきたな。改めて訊こう。どうして君はここにいるんだ?」

 やはり子供は答えない。まあある程度は予想がつく。この子はいわゆる虐待を受けているのだろう。ネグレトとかいうのだったか。

「言いにくいのか。それならしょうがない。無理に聞き出すのはよくないからな。ところで、君はまだここにいるのか?」

 子供はなぜそんなことを訊くのかという顔でこちらを見たが、軽く頷いた。しばらくはいるらしい。

「よし。じゃあ、ちょっと待っていてくれるかな。一度部屋に戻るから」

 俺はそう言うと、走り出した。久しぶりの全力疾走。しかもこんな夜中にだ。誰がどう見たって不審者なのは間違いない。

 袋に入ったウイスキーの瓶とシャンパンの瓶がぶつかり合う音が聞こえる。静かなせいか、それはホールに響き渡る鉄琴のように澄んだ音を響かせていた。

 なんだか、少し楽しくなってきた。いわゆる深夜のハイというやつなのかもしれない。息を荒げながら、俺は笑っていた。完全なる不審者だ。通報待ったなしだ。

 なんとか通報されることなく部屋に戻り、俺はシャンパンとジンジャーエール、グラスを二つと、先ほど買ったつまみと、いつもつまみを載せるのに使っている紙皿を袋に突っ込み、また走り出した。

 公園に戻るころには俺は汗びっしょりで、荒い息のせいでうまく言葉すら発することができなかった。

「お、お待たせ」

 ようやく言葉を絞り出す。子供はそんな俺を見て笑った。笑顔を見せると、普通の子供にしか見えなかった。

 俺は子供と並んでベンチに座ると、グラスにジンジャーエールとシャンパンを注いだ。

「メリークリスマス&あけましておめでとうございます」

 俺はそう言ってジンジャーエールの注がれたグラスを子供に渡した。

「うん? クリスマスは終わったし正月はまだって顔だな。でもテレビによく出てるあの女優がいるだろう。あの月九に出て話題になった。なんていったかな。ともかく、その女優は気の早い明けましておめでとうを俺に笑顔で言ってくれたわけだ。そのせいか、もう年が明けた気分なわけだな。あと、俺はクリスマスパーティーとやらをやったことがない。だから、そういう気分を味わいたかった。だからこその合わせ技というわけだ。わかるか?」

 子供が首を横に振る。

「だろうな」

 俺も分からないのだから、分かるわけもないだろう。納得いかない様子の子供を無視して、俺は袋からサラミとチーズを取り出す。

「君、好き嫌いはないか?」

 子供が頷く。素晴らしい。

「じゃあ、これを食べるといい。たぶん美味いぞ」

 カットされているサラミの上にチーズをのせ、それを子供に渡す。

 子供はおずおずとそれを口に運ぶ。

「美味いか?」

 子供は頷いた。表情も明るい。

「よしよし。じゃあ俺も食べるとするか」

 子供が渋い顔をする。

「なんだそんな顔して。あ、不味かったらいやだから先にお前に食べさせたんじゃないかと疑ってるんじゃないだろうな? サラミとチーズなんてものは大体味は一緒だ。わざわざそんなことしない。年下を優先する俺の寛大な心をそんな風に疑うなんて酷いな君は」

 そう言い、俺もサラミとチーズを口に放り込む。うん、なかなか美味い。ありがとうクリスマス。

 しばらくつまみとシャンパンを無言で楽しんだ。俺になれてきたのか、子供は自分からサラミとチーズに手を伸ばすようになった。腹が減っていたのかもしれない。

 空になったグラスにジンジャーエールを注いでやると、子供は笑顔で頭を下げた。

 公園の時計に目をやると、もう午前二時を過ぎていた。空気はより透明度を増し、星もくっきりと見える。街灯のLEDが少しばかり明るすぎるが、それでも夜を損なってはいない。

 三時をまわれば、新聞配達が来る。彼らが俺らをみたらどう思うのだろうか。

「繰り返しになるが、どうして君はあんな時間に公園にいたんだ」

 何杯目かのグラスをあけたあと、俺は再び子供に問うてみた。そよそよとした風が吹き、ベンチに置いたつまみの袋を揺らした。

 少し、いや、どれだけ待ったのか俺にも分からない。静かに子供の言葉を待ちながら、空を見ていた。月も星も、まだ輝きを放っている。朝はまだ遠い。

「嫌いなんだって」

 なんとなく、子供の方を見ない方がいいと思った。だから俺は星を見つめたまま、子供の話に耳を傾けていた。

「新しいお父さんのことが大好きだから、しずのことはもう好きじゃないんだ」

「お母さんがそう言ったのか?」

 子供、しずは首を横に振った。

「わかるよ。だって、しずを撫でてくれたみたいにお父さんを撫でて、しずをほめてくれるみたいにお父さんをほめるから。でも、しずにはもうしてくれなくなったから。だから、わかるんだ」

 早口でしずは言う。

「いつもこうして外にいるのか」

「うん」

「どうして?」

「お父さんと一緒に寝るから」

「それが理由?」

「うん」

「そうか」

 むなしいと思う。この子が当たりまえのように外にいることも、それを平気でする親に対しても。

「しず」

「なに?」

「君、何号室に住んでる?」

「どうして?」

「俺がお前を連れて帰る」

 しずは困惑し様子で「むりだよ」と言った。

「どうして?」

「怒られるよ」

「君が?」

「うん」

「怒られる理由がないだろう」

「むりだよ」

「じゃあ、しずはここで待ってろ。俺が話をしてくる」

「どうして?」

「なにが?」

「どうしておじさんがそんなことするの?」

 確かに。今日初めて会ったのに、どうして俺はこんな厄介なことに首を突っ込もうとしているのか。このまま家に帰って、酒を飲みながら適当に音楽でも聞いて眠ってしまう方がはるかにいいだろう。

 どうしてだろう。この子を哀れに思ったから? それもある。だが、そうじゃない。それだけじゃない。何かが俺を駆り立てる。

 立ち上がり、俺は公園の時計を見てみる。もう三時を過ぎた。そのうち新聞配達が朝刊を届けにやってくる。

 ああそうか。分かった。

「俺は、気持ちよく朝を迎えたいんだ」


 部屋に戻り、俺はソファに腰かける。

「遠慮しなくていい」

 そう言うと、しずが遠慮がちにリビングに入ってくる。まあ遠慮するなというのは無理な話だし、この棟は他の棟よりもグレードが高い。それが偉いというわけではないが、無駄に広いこの部屋に少し驚いているのだろう。

 あの後、俺はしずを連れてしずが住む部屋へ向かった。呼び鈴を鳴らすも返事はなく、ノブに手を伸ばすと、ドアは開いてしまった。

 それが単なる不用心であったのならよかったが(良くはないのだが、この場合は)、部屋はもぬけの空だった。夜逃げというやつだ。

 そうして、とりあえずしずを連れて自分の部屋に戻ったのである。しかし、まさか子供を置いて逃げるとは。なんともむなしいものだ。

「しず」

「なに?」

「眠いか?」

「うん」

「じゃあ、今日は寝ろ。明日、というかもう今日だが、とにかく明日いろいろと動けばいい」

「でも」

「いいから。今日は寝ろ」

 しずが寝室へ向かうのを見届けてから、俺は窓のカーテンを開ける。かなり大きな窓で、これがこのマンションの売りだった。

 シャンパンという気分ではなかったので、一緒に買ったウイスキーを飲んだ。

 大きく息を吐きだし、これからのことを考える。面倒ではあるが、自分から足を突っ込んだのだから、最後まで関わろうと決めた。

 そのうち、日が昇り始める。

 窓が額縁のような役割を果たし、朝日がまるで絵画のように見える。この景色のために、俺はここに住むことに決めたのだ。

 昇る朝日を見ていると、まだ希望はあるのだと思うことができる。どのような希望なのかと訊かれると、うまく答えられないが、そんな風に感じるのだ。

 室生犀星が朝を愛すの中で、朝は素直に物が感じられ 頭ははっきりと無限に広がつてゐる。と書いている。朝は物事をクリアにう感じさせてくれる。嫌なことも、幸せなこともだ。あらゆることをフラットに感じさせてくれる。それが心に静けさを生み、希望を感じさせてくれるのだ。

 俺はゆっくりと目を閉じる。目を閉じても、朝の光がうっすらと見えている。

 ひとまず、今日起きたら、シャワーを浴びて、しずを起こして朝食を食べ、それからいろいろと動き始めよう。

 面倒だが、それでも朝は来る。

 また朝を心地よく迎えるために、頑張るとしよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

日はまた昇る 三角海域 @sankakukaiiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る