フォルテリアン
平無異特
第0話 逃亡者
「ねえ、おじさん」
雨が跳ねる。次第に強くなっていく雨は、一滴一滴が、舗装された石畳に真正面からぶつかり、透明な花を咲かせ、ただの水となって流れていく。
その光景を、馬車の停留所に備え付けられた長椅子に座り、ところどころ朽ちている木製の屋根の下で雨宿りをしている二人組が眺めていた。
「なんだい?」
男は少女から声をかけられたことに気づき、おちゃらけて聞こえるようなトーンで呼びかけに応える。
「私を殴らないの?」
「…殴りなんかしないさ。初対面の、女子供を痛めつけるような趣味なんざ俺は持ち合わせてないんでね」
「どうして?」
少女は石畳から男に視線を移し、不思議そうに見つめる。
「他の人は私を見ると殴ってくるよ、蹴ってくるよ、石を投げてくるよ」
その言葉を追いかけるように、男も少女に視線を移す。
泥で汚れた緋色の髪。
穴だらけの、服と呼ぶには質素な布。
肌に張り付いている無数の傷跡。
目に映ったものに男は何を思っただろう?
男はどこからともなく葉巻を取り出し、小言で何かを呟く。
呟きをやめると、徐々に葉巻の先が赤くなり、煙が屋根に届いたところでそれを口に挟んだ。
「俺はね。ここに座るまでにたくさんひどいことをしてきたんだよ。殴ったり、蹴ったり、石を投げたり、切ったり、撃ったり、殺したり」
屋根の隙間から雨が入り、葉巻の火を消した。「もったいない」と言って役目を終えた葉巻を投げ捨てる。
「…罪のない人にもそれをした。やりたく無かったけども、やらないといけない事だった」
「なのにどうして私にはそれをしないの?」
「やりたくないからさ。誰だって、やりたくないことはやりたくないだろう?」
「変わってるね」
「はは、そうかな?」
少女は立ち上がり、冷たい花畑へ歩をすすめる。
「私はね、おじさん。羨ましい。おじさんも散々な生き方をしてきたんだろうけども、やるやらないで物事を決めることの出来る生き方なのが羨ましい」
彼女に花が咲く。透明な花が咲いては散っていく。
「ねえ、おじさん。私も……いつか生まれてよかったって思えるのかな……?」
振り返ると。
そこには男はもういなかった。
あれは幻だったのかな……残念な気持ちになっているとふと、少女は自分がいつの間にか雨に濡れていないことに気づいた。見上げると、《何か見えない壁のようなもの》に雨が弾かれている。
「分からない」
背後から声がして、振り返る。そこには男がいた。
「だけど、俺もそう思いたい。だから一緒に探しに行かないかい?生まれてよかったってうっかり口にしてしまうような何かを」
男は少女に手を差し出す。少女は生まれて初めて差し出された手を、両手でしっかりと握った。
雨は止まなかった。だが、お互いの手の温もりを確かめるには丁度良い冷たさだった。
「ところで」
「なに?」
「お前、名前は?」
「……ない」
「そうか……じゃあ、ルイナって名前はどうだ?」
「いいけど……何か意味があるの?」
「ん、あ、いや特に意味は無いんだが……愛されそうな名前だ」
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