今日も空は青かった。

国会前火炎瓶

今日も空は青かった。

 今日は実に良い天気だった。まさしく快晴、雲一つ無く、澄んだ青はどこまでも限りなく広がっていくように見えた。もし、これが小説なんかであったなら、僕の心も、この空のごとく、曇りなく、澄んでいたのかもしれない。

 今日も僕は鬱々としていた。これがこうだから、と言うような明確な理由なんか無かった。ただ何となく不安で、ただ何となく恐ろしい。何が不安で恐ろしいのかも分からない。いつから、こんな風になったのかも分からないが、僕は、何を悩んでいるのか、自分ですら分かっていない気味の悪いやつとして、毎日の生活を営んでいた。

 「おはよー!」

 この空に相応しい明るい声がして、後ろから肩を叩かれる。少し痛い。けれど、その痛みが頭の中の靄を軽く払ってくれたような気がした。

 「今日も何だか浮かない顔つきだね?」

 ニコニコと笑う彼女は、結と言って、僕の家の隣に住む幼馴染だ。歳は確か僕の三つ下だったから、恐らく十七であるはずだ。栗毛の髪の垂れ目で、顔の輪郭の丸っこい可愛らしい女の子だ。彼女の方が年下ではあるものの、こちらを、お兄ちゃん、と言って慕ってくるような所はあまり無かった。むしろ同学年の、仲の良い友達として僕は認識されているように思われた。

 「そんな陰気な顔をしない方がいいよ。優は笑顔の方が素敵だよ?」

 まるで気障な男が、おどおどとした女の子をナンパするかのような言葉に、思わず苦笑する。そういう言葉は、少なくとも僕のような男に向ける類のものではないと思うのだけれど。

 「むー……私が欲しかったのはそういう笑いじゃないんだけどなあ」

不満げに彼女は頬を膨らませる。どうやら僕が苦笑したのが気に入らないらしい。きっと、もっと豪勢に笑うのが、彼女の望むところだったのだろう。

 「これから学校?」

話を変えるように、僕は尋ねる。彼女は未だ納得していないような声色で、そうだよ、とぶっきらぼうに呟いた。どうやら、少し機嫌を損ねてしまったらしい。こんな小さなことで拗ねたような態度を見せるだなんて、小さな子供のようで可愛らしい。思わず、頬が緩む。

 「……今、何か馬鹿にしたでしょ」

 どうやら口角が下がったところを彼女に見られてしまったらしい。彼女は一層不機嫌そうになって、ふん、とそっぽを向いてしまった。

 「馬鹿になんかしてないよ。可愛いって思っただけで」

 「……そんなお世辞言ったって信じないもん」

そうは言うものの、彼女の雰囲気が先ほどよりも若干柔らかくなったのが見て取れた。どうやら、可愛いと言われたことは嬉しかったらしい。

 「お世辞じゃないって」

 実際、お世辞ではない。純粋に可愛いと思ったからこそ微笑んでしまったわけで、これは嘘偽りない真実だった。

 「……誠意を見せてくれたら信じてあげる」

 まるでヤのつく自由業かのような口ぶりに僕は思わず苦笑する。

 「ケーキでいい?」

 「……チョコのやつで」

 分かった、と返すと、彼女は、ん、と相槌のような声を漏らす。そっぽを向かれて完全には見えないけれど、その横顔はやんわりと嬉しそうに見えた。ちゃんと買っておいてよ、とだけ彼女は残すと、学校へと走り去っていった。


 夕方、大学での講義を終えた僕は、結との約束もといご機嫌取りを果たすべく、とあるケーキショップに居た。さて、どれがいいだろう、と思う。ケースに並ぶケーキたちはいずれも技巧が凝らされていてとても甘そうであり、美味しそうであった。結は、チョコレート系のケーキが良いと言っていたけれど、そういった類のものだけでも、五種類ほどが行儀よく整列していた。どれなら喜ぶだろう、例えばこっちのチョコレートムースのように完全に甘い方が良いのか、それとも、ガトーショコラのように若干ほろ苦い方が良いのか……そんなことを考える。

 「やっほー、優」

 そんな僕に呼びかける声が一つ。振り返ると、結が顔の近くで、右手をひらひらと軽く振っていた。

 「結。学校はもう終わったの?」

 終わったよー、と彼女は返す。どこか少しけだるげなのは、学校終わりだからだろうか。

 「やっぱここでケーキ買ってたんだね」

 「まあ、ここしか知らないからね」

 「普段は買う相手もいないんでしょ」

 彼女の瞳が悪戯っ子のように揺れる。失礼な、と思ったけれど、実際、こんな風にケーキを誰かに買っていくようなことは無かったので、何も言い返せずに渋い顔になる。そんな顔しないでよ、と彼女は苦笑した。怖い顔になってるよ、と寄った眉を解すかのように僕の額の辺りを軽く揉んだ。

 「別に私は構わないよ。優がここしかケーキ屋さんを知らなくても、私以外にあげる相手が居なくてもさ」

 僕が構うんだよ、と口を尖らせる。その声がいじけた様になってしまって、我ながら大人げないなと思った。

 「そんなこと言わないでよ。私はここのケーキが好きだから、ここのケーキを貰えたら嬉しいし、優が私以外にあげる相手が居ないって言うのも、私が何だか特別な感じがしてちょっと嬉しい」

 ね、と微笑む彼女は、どこか照れたようでその頬に軽く朱を差していた。

 「……なかなか、恥ずかしいことを言うね」

 「そんなことないよ」

 気恥ずかしくて茶化すように返す僕を、彼女は未だ微笑みながら見つめていた。どうにも彼女は、子供っぽいのか大人っぽいのか分からなくなる時がある。僕はまだまだ幼い、と言うこともあるのだろうけれど。

 「ケーキ、どれがいい?」

 話を逸らすような僕の言葉に、そうだなあ、とケースの中のケーキを見つめる彼女は、きらきらとして、やっぱり子供のように見えた。


 「私ね、告白されたんだ」

 ケーキショップからの帰り道。まるで、今日の朝の星座占いの結果が良かったかのように、結が自然にその話題を切り出した。

 「そうなんだ」

 「むう、何だか素っ気ないね」

 そんなことはない。実際はかなり驚いた。と、同時にありえないことじゃないな、とも思った。幼馴染の贔屓目を抜きにしたって、彼女はなかなかに可愛らしい。明るくて素直で、下世話な話になるが、スタイルだってそこそこだ。思春期の男子を虜にするには十分すぎるものを持っていた。

 「……何だかいやらしい視線を感じる」

 僕のほんの少しの邪念を見抜いたのか、彼女はジトッとした目をこちらに向けていた。彼女に限らず、女性と言うものは何故だかこの手のものに鋭いような気がしてならない。

 「そんなことないよ」

 それで、いつ告白されたの、と言う僕の露骨な話題転換に彼女は若干の不信感を未だ拭えずにいたようであったが、それはね、とポツポツと語り始めた。どうやら、まさしく今日、放課後の教室で告白をされたらしい。相手は、サッカー部に所属してるらしい同級生で、見た目はなかなか、とのこと。

 「それで?告白は受けるの?」

 うーん、と手を口に当てて彼女は考えるような素振りをする。話を聞く限りでは、そんなに悪い奴ではなさそうだし、青春の一時を共に過ごすには悪くない相手のように僕には思えた。

 「……多分、断る、かな」

 そう言った彼女の表情は何処か寂しげに見えた。

 「私ね、分かんないんだ。恋とか、そういうの」

 友達の好き、家族の好きと何が違うんだろ、と呟く彼女が、ケーキショップのあの時の彼女と重なって揺れた。

 そうしている間に、彼女の家の前へと辿り着く。ケーキありがと、と笑って家の中へとかけていく彼女は、あの時と同じように、もう子供の彼女へと戻っていた。


 最近、結を見なくなった。見なくなっただけなら、良いのだけれど、その頃から最悪な噂話を聞くようになった。

 曰く、とある学校で女生徒が同級生の男子生徒に襲われたらしい。実しやかに囁かれるその噂は、彼女が僕に告白された次の日に起こったとされていた。何でも、告白を断られた男子生徒が逆上して、その女生徒を襲ったとか。不幸中の幸いか、校内に残っていた教員が、無理やり行為に及ぶ前に発見したとのことだった。

 しかし、この噂が最悪なのはここで終わらないことだ。女生徒は、当然のことだが深く精神を傷つけられ、不登校に。更に、加害者側の男子生徒は取り押さえられた後、教員の制止を振り切って脱走し、その後、近くの公園の雑木林にて首を吊った遺体の姿で発見された。近くにはコンビニで買ったと思われるペンとルーズリーフが落ちていて、ルーズリーフには、ごめんなさい、とだけ残されていたらしい。

噂だけで済めば良かった。しかし、朝のニュースで、噂通りの内容が報道されているのを見つけてしまった。被害者、加害者の両方の生徒の名前は配慮ゆえか報道されていなかったけれど、その事件の舞台となった学校は、まさしく彼女の通っている高校だった。被害者の友達、とされた女の子が二、三人インタビューに答えているのを見た。そのどれもが、彼女の隣にいるのを何度か見かけたことがある人ばかりだった。

 彼女に会えなくなると、鬱々が募る。何とも言い難い不安が今日も少しずつ山になる。毎日の営みが、何故か僕を恐れさせる。最悪な噂も相俟って、僕の心も最悪だった。


 僕は結の家へと来ていた。取り敢えず噂の真偽だけでも確かめたかった。しかし、彼女が被害者でない、と言う淡い期待を抱いていた僕は、彼女の母親の憔悴しきった姿を見て、非情な現実を察してしまった。あらやだ、どうしたの、といつも通りの笑顔に努めようとする彼女の痛々しいことと言ったら無かった。

 その、噂を聞いて、と僕が口ごもると、彼女は随分と悲しそうな表情を浮かべた。そう、心配してくれたのね、ありがとう、とほとんど彼女は泣いていた。

 それから、リビングに通された。椅子に腰かけると彼女は暖かいお茶を出してくれた。それからポツリポツリと呟くように、話し始めた。

 「あの子ね、随分まいっちゃってるわ。そりゃあ、あんなことがあったらそうなるんでしょうけど、それだけじゃなくてね、その、相手の男の子が死んじゃったのがね……」

 瞳に涙を溜めながら、彼女は声を震わせる。

 「私だって、あの男の子を許せないわ。だけどね、死んじゃったらダメじゃない。私もあの子も、もう誰にも文句が言えない」

 確かに、そうだ。加害者の男子生徒の死によって、結と彼女は自らの感情の放流先を失ってしまった。死んだって許せない、と言うこともあるだろうけれど、死人を責めることはできないし、死人はもう謝ることだってしないのだ。

 「それで……その、結は?」

 恐る恐る、と言った具合に僕はその話題を切り出す。あの子はね、部屋に籠りきりよ、と彼女はその言葉と同時に涙を零した。それから、鼻声で、

 「一応、あの子に声、かけてあげて。会えないとは思うけれど」

 と言った。


 結、とネームプレートのかかった部屋をノックする。小気味のいい木の音が響く。返事は無かった。

 「結。僕だよ。優」

 まるで誰もいないような静寂に包まれた扉の向こう側に話しかける。それでも、何の音もしなかった。

 「その、何と言うか……ごめん。何も言えないね。結の気持ち、分かる訳無いもんね」

 また、元気になったらケーキを買ってくるよ、と最後に残し、その場を立ち去ろうとする。

 「……待って」

 消え入りそうな、小さな声。結の声だった。思わず、体が強張る。

 「入って……」

 入って。確かに彼女はそう言った。でも、彼女は今。

 「でも」

 「怖いけど……でも、優には入ってほしい」

 彼女にそう言われたのは喜ぶべきことなのかも知れなかった。けれど、どうしてかこの状況に僕は言いようのない恐れを抱いていた。ここに立ち入ったら、何かが壊れてしまうような、壊してしまうような、そんな気がしてならなかった。

 「……お願い」

 それでも、今にも消えてしまいそうな彼女の声に、僕は入る以外の選択をすることはできなかった。

 部屋に入ると彼女はベットの上で体育座りをして、顔を自身の膝に埋めていた。 その姿を見たときに、胸がキュッと締め付けられるような思いがした。しかし、それと同時に、これは彼女ではない、と言う邪悪な思想が僕の頭の片隅に現れた。

 「私ね、怖かった……本当に……」

 こんな、弱々しい声で語りかけるのが本当に彼女か?

 「いきなり押し倒されて……」

 こんな風に泣きながら、消え入りそうな姿を見せるのが、本当に彼女なのか?結はもっと明るくて、いつも笑っていて、冗談だって言って。これじゃまるで、僕の鬱々を人にしたみたいじゃないか。僕の太陽だった彼女はどこへ行ったんだ。今の彼女は、まさしく僕の不安の体現者で。彼女は、彼女は―――。

 気が付けば、僕の体は動いていた。彼女が僕の名前を呼んだような気がする。でも、よく分からない。ただ、僕は腕を伸ばし、彼女の首に手をかける。力を入れる。彼女の首は随分と細かった。呻くような声が漏れる。何か、言っている。けれど僕はただ手に力を込める。これは違うから。違う。違うんだ。

 場違いなメロディーが突如として彼女の部屋に響く。僕は瞬間的に、彼女から飛び退くようにして離れる。その音楽は、どうやら彼女の携帯の着信を知らせていたようだった。

 彼女を、殺そうとした。首を、この手で絞めて。その事実が、理性を取り戻した僕を襲う。何てことをしようとしたのだろう。何が違うのだろう。何も違わないじゃないか。今、ここにいるのは確かに結でしかなかった。それなのに僕は、自分の不安と彼女のその姿とを重ね合わせて、あまつさえそれを抹殺しようと試みた。一体全体、僕はどうしてしまったのだろう。

 「……優……」

 息も絶え絶えに、彼女が僕の名前を呼んだ。

 「そっ、その、ご、ごめ」

 言葉にならなかった。一体何を言えばいいのだろう。ただでさえ深く傷ついた彼女を、更に傷つけるような、いや、傷つけるだけでは済まないようなことをしてしまった。声も、手も震えっぱなしだった。

 僕は転がるように部屋を出た。扉の向こう側で彼女が何か言ったようだったが、よく聞こえなかった。そうして自分のした事から紛れもない逃走を行った。挨拶もせずに家を飛び出したから、結の母親には怪しく思われたかも分からない。けれど、僕にはそんなことに構う余裕はなかった。


 次の日、僕は自室に籠っていた。あの後、自宅へと逃げ込んだ僕は、ベットの上で蹲るように、じっとしていた。母さんが夕食ができたと僕を呼びに来たけれど、体調が悪い、と部屋から出ようとはしなかった。母さんは、疑うこともなく、おかゆでも作ろうか、と優しい声色だったけれど、食欲がない、と言うと納得したようだった。

 どうしてあんなことをしてしまったのだろう。僕の頭の中は、そのことだけで満ちていた。どうして、あの時、僕は結の首を絞めるだなんて暴挙に及んだのだろう。ただ、あの時はそれが正しいような気がしてならなかった。彼女が彼女でないような気がしてならかった。だから、壊さなきゃいけないような心持がした。しかし、彼女の首を絞めて、彼女に触れて、少し遅れて確かに結を感じた。

 これから、僕はどうしたらいいのだろう。彼女は、母親にこのことを話すだろうか。そうしたら、僕はきっと豚箱行きだ。でも、その方がいいような気がした。うじうじした僕を警官が外へと引きずり出してムショにぶち込んでくれたなら、どんなにいいだろう。一番僕が恐れていたのは、このまま何も起きないことだった。彼女が母親にこのことを話さず、また一つ克服したがたい傷を抱えて生きることになるのが、怖かった。自分で傷つけておきながら、とは思うけれど、それは嘘偽りのない本心だった。それを恐れているのに、自分から行動を起こすことはどうしてもできなかった。僕は、どうしようもない臆病者だった。

 気が付けば、僕は眠ってしまっていたらしい。それが分かったのは、こんこん、と言うノックの音で目を覚ましたからだった。自分の仕出かした事への後悔と、自己嫌悪の中で眠りに落ちたせいか、随分と体が怠かった。ちらと、横目で時計を見るともう午後の一時を示していた。今日は一限から講義があったのにな、と少し考えたが、今の状態ではきっと間に合うように起きていても、どうせ行かなかっただろう。こんな時でも学校のことを考える自分の真面目さが何だか憎たらしかった。

 「優?体調はもう大丈夫?」

 母さんの心配するような声に、何だか少し申し訳のない気持ちになる。まずまずだよ、と返すと、そう、それは良かった、とどこかほっとしたような様子であった。それから、続けて、

 「それでね、お隣の結ちゃんが優に会いに来てるんだけど」

 心臓を掴まれたかのような心地がした。何でも話があるらしいんだけど、と言う母親の声が遠く聞こえた。話、と言うのはきっとあのことだろう。それしか考えられなかった。僕は、何とか、まだ少し怠いから、部屋に呼んでほしい、と母さんへと伝えた。声が震えていたかもしれない。しかし、母さんは怪しむこともなく、そう、と言ってパタパタと階段を下りて行った。


 しばらくの間、僕の部屋は静寂に包まれる結果となった。僕と結は、向かい合うようにして座っていた。何故だか、二人とも示し合わせたように正座をしていた。僕も、彼女もなかなか声を発しなかった。ときどき身動ぎをしては、相手のことを窺った。そんな時間をどれだけ過ごしただろうか、彼女が、あの、と口を開いた。

 「昨日の、こと、なんだけど」

 おどおどとした彼女の言葉に、凍り付くような感じがした。寒い。心臓が痛い。それでもどうにか僕は彼女に頭を下げた。ほとんど床に擦り合わせるような格好だった。

 「本当にごめん」

 何とか、それだけ言った。しかし、それ以上の事は何も言えなかった。寒気と胸の痛みはより一層強くなっていくように感じた。僕はただ、彼女の断罪を待っていた。

 「あの、ね」

 彼女は何か言葉を探しているように感じられた。自分の言いたいことを、拙い言葉で何とか言い表そうとする子供のような声だった。

 「私ね、怒ってないし、傷ついてないよ。謝って欲しいわけじゃないの」

 その言葉に僕は耳を疑った。思わず顔を上げると、彼女と目が合った。彼女は、あ、と恥ずかしそうに眼を逸らした。何故か、これから愛の告白でもするかのような熱っぽい表情をしていた。

 「私ね、嬉しかったんだ」

 おかしいとは思うけど、と彼女は子供のように笑う。おかしくなんかない、とはとても言えなかった。一体彼女は何を言っているのだろう。あの、あんな、暴力的な行為が嬉しいだなんて。それこそ、あの自殺した男子生徒の強姦未遂と大差がない。それでも、彼女は、それを嬉しいと形容した。

 「その、無理やりされそうになったときにもね、同じようなことをされたの。押し付けられて首に少し手もかけられた」

 それはそうだろう。無理やり犯そうとすれば、そういうことをせざるを得ない。暴力に訴えなければ達成できない。でも、だからこそ理解できなかった。あの日と、同じようなことが、嬉しいだなんて。

 「そのね、優が首を絞めてくれた時、何だか上書きされるみたいな感じがしたの。あの人から受けた暴力が、優に塗り変えられていくような感じがしたの」

 気持ち悪いよね、そう言った彼女の自虐的な笑顔。その時何故か、「全てのセックスはレイプである」と言う文言が頭の中に響いた。どこで聞いたかすら定かでないその言葉を、どうして思い出したのかすら分からない。ただ、もし全ての接触が暴力であるのなら、それを変容させるのは愛の有無だけなのだろう、と言う狂ったような思想が浮かんで消えた。

 ね、と彼女は甘えた様な声を出す。気が付けば息遣いを確かに感じられるほど僕と彼女は近づいていた。

 「もう一回、首を絞めてほしいの。昨日みたいに、強く、上書きするみたいに」

 まるで救いを乞うかのような彼女の言葉、深く、吸い込まれてそのまま沈んでいってしまいそうな彼女の瞳に、僕は思わず息を呑む。気が付けば、僕はあの時と同じように彼女の首に手を伸ばしていた。やっぱり、細い。ただ触れただけで折れてしまいそうだ。僕はゆっくりと力を入れる。彼女は、少し苦しそうな顔をしたけれど、その瞳の中に喜びの色が見えたのを僕は確かに発見した。


 あれから、何度か彼女の首を絞めた。勿論、彼女を殺すことが無いように、細心の注意を払った。今、彼女の首元には、紛れもない暴力の跡がくっきりと残っていた。

 「ありがと」

 彼女の声は、どこまでも穏やかだった。まるで、自分の子供を愛でるかのように、その暴力の跡を何度も何度も撫でていた。

 「私、もう大丈夫な気がする」

 そう言って笑った彼女は、まさしく僕の太陽だったあの時と全く変わらないもののように思えた。けれど、僕はそんな彼女に、どんな言葉をかけていいか分からなくて、逃げるかのように、視線を窓の外へとやった。今日も随分な青空であった。



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今日も空は青かった。 国会前火炎瓶 @oretoomaeto1994

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