幕間「愚者は窮地で追憶する」-3

 当時の俺には、稲葉鳴子という恋人がいた。

 鳴子とは家が近く、それこそ保育園の頃からいっしょに育った。いわゆる幼馴染みというやつである。

 漫画などに登場する幼馴染みの男女というのは、表面上は互いを悪しざまに言いつつも内心では惹かれ合っている、というのが定番だが、俺と彼女の関係はもっと穏やかなものだった。彼女がおっとりとした性格で、基本的に人のことを悪く言ったりはしないというのもあっただろう。


 つきあい始めたのは高二になってからだったが、それ以前も何かにつけていっしょにいることが多かったため、周囲の人間には俺達が前々からそういう関係だったと誤解していた者も少なからずいた。

 しかし少なくとも俺にとって鳴子は親友か、もっと言うなら家族に近い位置づけであったし、実を言えばつきあい始めた頃もはたして恋愛感情があったのか自分でもよく分からない。


 ずっと彼女の傍にいたいという気持ちはあった。

 だが俺は、どうでも良いことを話せて暇な時には気軽に呼び出したり呼び出されたりするし、また気が乗らなくてそれを断ってもべつに申し訳なくはならない――そんな気安い関係に、それまで通りの関係に、居心地の良さを感じていた。そしてそれを維持するためには、変に恋人関係になったりするのはむしろマイナスではないかとすら思っていた。

 周囲には同じ校内でつきあっている人間が何人もいたが、その多くがそれほど長くは保たずに別れていた、というのを見てきたせいもある。

 人間、ある程度以上近づけばいろいろと嫌な部分も見えてきてしまう。そしてその結果別れてしまえば、もう気まずくなってただの友人に戻ることも難しい。

 そうなるくらいなら、最初からほどよい距離感を保っておいた方が、良い関係を続けられるのではないか――そんな風に、俺は考えていたのだ。

 だが、そんな考えを改めなくてはならない出来事が起こった。それが、羽田勝利という男の転入である。


 羽田が転入してきた時、クラス一同、特に女子はざわめいた。無理もない。なにしろ、テレビでさんざん見てきた顔である。もともとは男性アイドルグループの一員だったが、グループは解散、他のメンバーの多くがソロでの活動を続ける中、普通の高校生に戻るといって芸能界を完全引退した男――それが羽田だった。

 いくら当人が普通の高校生に戻ると宣言していたとはいえ、つい先日までは画面の中で見るのが普通だったような人間である。そうそう普通の目で見られるものではない。

 そしてそれは、鳴子も同じだった。

 教室に入ってきた羽田を見た時の彼女の目は、ありていに言ってキラキラしていた。それも道理というもので、鳴子は羽田が属していたアイドルグループのファンだったのである。そのグループが解散した時に散々電話で嘆かれた俺は、それをよく知っていた。


 とはいえ、その時点での俺は、とりたてて焦りも嫉妬も感じてはいなかった。前述の通り、俺は彼女とそれまで通りの居心地の良い関係を続けていきたかっただけで、それさえかなえば別に彼女が他の男に憧れを抱いていてもさほど気にするつもりはなかったのだ。

 それに、なんと言っても相手は元アイドルである。これを放っておかない女子は少なくない。しかも羽田は、実際に接してみてもテレビでの印象と違わず爽やかで気持ちの良い男だったので尚更だった。

 そうした数多のライバルを押しのけて鳴子が羽田と特別な関係になることはないだろう、という油断もあった。


 ところが、そんな俺の予想に反して二人は急激に仲良くなっていった。その主たる要因は、羽田が入った書道部に鳴子も所属していたことだろう。

 もちろん、羽田目当てで後から多くの女子が書道部へ入部や転部をしていったわけだが、羽田としてはそんなミーハーな女子達よりも、元々同じ趣味を持つ鳴子の方が話しやすい相手だったのだろう。

 そしてある時、俺は羽田に尋ねられた。

「矢部君って、稲葉さんとつきあってるの?」

 俺は「違う」と答えたが、その後、ほとんど無意識のうちに「今は」と付け加えていた。自分でもその時は何故そんなことを付け加えたのか分からなかった。

「ふーん、そうなんだ」

 羽田の笑顔は相変わらず爽やかで、何を考えているのか読めない。

「話聞いてると休みの日とかもよくいっしょに出かけたりしているみたいだし、てっきりそうなのかと思って」


 羽田が去った後、彼はどうしてそんなことを聞いてきたのだろう、と考えた。

 単に興味本位で聞いただけかもしれないが、そうではない可能性もある。

 仮に羽田が鳴子に交際を申し込んだとして、彼女はそれに対してどう応えるのだろう?

 そして俺は、どうするのだ?


 俺は、鳴子とはこれまで通りの関係を続けていきたいと思っていた。

 だが、そのこれまで通りの関係は、羽田かあるいは別の誰かが鳴子とつきあい始めたとしても続けられるものだろうか。

 まず無理だなというのは、さすがに俺にも分かった。

 今まで散々、俺と鳴子は男女の関係なのではないかと誤解を受けてきたのだ。裏を返せばそれは、俺達の関係はそう見えても仕方がないものだったということになる。これまでは俺も鳴子もその誤解についてまったく気にしてこなかったから良かったが、鳴子の方に彼氏ができたとしたらそうはいくまい。

 浮気を疑われかねないし、仮にそこまではいかなかったとしても、相手の男の方は良い顔をしないだろう。そいつが俺のことを鳴子の元彼とでも誤解していたりしたら、俺と彼女が普通に話すことすら嫌がるかもしれない。


 俺は、自分が何も変えようとしなければ、俺達の関係はこれまで通りに続いていくものだと思っていた。

 だが、そうではなかったのだと、この時になって漸く自覚した。

 俺が何も変わらなくとも、変えなくとも、周りはどんどん変わっていくのだ。それでも変えたくないものがあるならば、むしろ俺は、能動的に動かなくてはならなかったのだ。


 翌日、俺は鳴子につきあって欲しい、と告げた。

 前日の夜にさんざん考えた末、これまで通り彼女の傍にいるためにはそれが一番確実な道だという結論を出していたのである。

 彼女は最初、ぽかんとしていた。まあ、これまでの関係から考えて、俺がそんなことを言い出すとは予想できなかっただろう。なんといっても俺自身さえ、前日までは予想できなかったくらいなのだ。

「ええと、それは買い物につきあって欲しいとか、そういうネタじゃなくて?」

「ネタじゃなくて」

「本気?」

「本気です」

 何故か敬語になってしまった。


「うーん」

 彼女は考え込んでしまった。しかも、かなり長かった。告白の返事待ちで長く待たされることほど居心地の悪いこともそうそうない。ついに俺は音を上げた。

「あの、そんなに悩むようだったら、とりあえず――」

 とりあえず……なんだ? まずはお友達から? いやいや、だったらこれまでの俺達の関係はいったい何だったというんだ。

「え? ああ、違う違う、悩んでるとかじゃなくって」

 彼女は、俺がそこにいることを今漸く思い出したとでもいった様子で顔を上げた。

「いやあ、きりちゃんもいつの間にかそんなエロい子に育ってしまっていたんだなぁとか、でも健全な男子高校生だからしょうがないのかなぁとか、そんなことを考えてた」

「えっ、エロ?! ちょっと待って、何で? 何がどうなってそんな話になってるの?!」

 万が一すげなく断られてもショックを和らげられるよう、『ごめんねお友達のままでいましょう』から『気持ち悪い身の程を知れこの虫が』までいろんなパターンを脳内シミュレーションしていたが、このパターンは想定外だった。


「何でって、じゃあ聞くけど、つきあったら何するの?」

「何って、デートとか?」

 これまで通りの関係を維持したいだけだった俺は、そのあたり深く考えてはいなかった。

「デートって要はそれ、いっしょに遊びに行ったりごはん食べに行ったりとか、そういうことするわけだよね?」

「まあ、そうだね」

「それって、今までと何が違うの?」

「それは……」

 何も違わない。

 なにしろ、今までと同様これからもそうできるようにするため、俺はこの選択をしたのだから。

 が、彼女は俺が言葉に詰まったのを、別の意味に捉えたようだった。

「ほらね? となると今更わざわざ彼氏彼女の関係になりたがる理由は一つしか考えられないよね。つまり本当にやりたいことは、デートとかよりもっと先の、友達だったらやらないような――」

「いやちょっと待って、もうちょっと違う理由も考えようとして!」


 こんな風に、よく分からないぐだぐだな展開になってしまったが、それでも最終的に俺達はつきあうことになった。

 後になって、俺がこの時に交際を申し込もうと決意するに至った理由を聞いた時、鳴子は呆れた顔をした。

「えー、つまり私が羽田君とつきあうかもしれないって心配してたってこと? いやあ、観賞用に好きなのとそういうのはまた別だし……っていうか、羽田君だったらもっと釣り合うような、すごい美人とかじゃないと駄目なんじゃない? 私のことなんか相手にしないって」

 鳴子はそんな風に言ったが、少なくとも俺は、俺と鳴子が本当につきあうようになったと羽田が聞いた時、彼が心底残念そうな表情になっていたのを知っていた。

「それにしてもよく考えたら酷い話だよ、これは。つまりきりちゃんは、愛も無いのに私をキープしておくためにつきあってとか言ったわけだ。なんて可哀想な私」

「いや、恋があったかは分からないけど、少なくとも愛はあるよ」

 そう返すと、彼女は真っ赤になった。

「ちょっ、ちょっと、そういう恥ずかしいマジレスを素で言うのはやめて」


 ただ俺は、つきあうようになってからも、彼女に俺の抱える罪について話したことはなかった。俺が自分の母親を殺して産まれ、父や親族達を不幸にしながら生き、そしてそれらの全てについて何も知らないフリを決め込んでいるということには、触れずにきたのだ。

 仮に彼女がそれを知ったとして、はたして俺を糾弾しただろうか?

 いや、そんなことはないだろう。彼女がそんなことをする人間ではないことを、俺はよく知っていた。

 しかしだからこそ、もし彼女にその話をしてしまえば、俺の卑しさが――誰かに『君は悪くない』と言ってもらいたいという、俺の浅ましい気持ちが――表に出てしまいそうで、それがたまらなく嫌だったのだ。

 だが、今にして思えば、そんな考え自体もまた俺の身勝手なエゴだったのだ。

 そしてそれもまた、鳴子が命を落とすことになった一因と言える。


 俺達の関係は、高校に続いて大学も卒業し、社会に出てからも続いた。

 その頃には既に実家を出ていて父と顔を合わせる機会も少なかった俺は、自らの罪をほとんど忘れかけ、幸せに浸っていた。

 だが、俺はもっと自覚しておくべきだったのだ。俺は周囲を不幸にする人間であり、浸かっているのはぬるま湯などではなく汚泥なのだということを。そして、俺に近づく人達もまた、その汚泥に呑まれてしまうのだということを。


 ある日、俺は用件も告げられず鳴子に呼び出された。いったい何の話だろうと訝しむ俺に、彼女は少しはにかんだ様子でこう告げた。

「あのね……できちゃったみたい」

 誓って言うが、彼女との関係について俺は遊びのつもりは無かった。いずれは家庭を持ちたいとも思っていたし、彼女の方もそのつもりだったはずだ。

 だからこそ、妊娠について告げた時の彼女は、さほど動揺していなかったのだろう。ちょっと順番が変わっちゃったね、くらいのつもりでいたのだ、きっと。

 しかしこの時の俺は、子供ができた場合のことなどまるで考えてはおらず、そして唐突にこの告白をされた時、真っ先に思い浮かんだのは出産と引き換えに命を落とした母のことだった。


 冷静になって考えてみれば、元から体が弱くて出産は無理だろうと言われていた母と、特に健康に問題があるわけでもない鳴子を同列に考える必要などなかった。世の大半の母親は別に命を落とすことなく子供を産んでいるのだ。

 しかしこの時、俺の頭は鳴子が死ぬ想像でいっぱいになった。そして、そうなった時、産まれてきた子供のその後についての妄想も俺を怯えさせた。


 父は、母を殺して産まれてきた俺に対する憎しみを見せたことはこれまで一度も無かった。それが、そんな感情など端から存在しないからなのか、それともそんな感情を表に出してはいけないという良識に基づくものなのかは別として。

 だが、はたして俺も同じだと言えるだろうか。同じようにできるのだろうか。産まれてきた子供は、母と死に別れ、父からは憎まれる悲愴な人生を送ることになってしまうのではないか。

 恐ろしい想像で頭を埋め尽くされた俺は、こう言うのが精一杯だった。

「少し考えさせて欲しい」

 その時、俺がどんな顔をしていたのかは分からない。

 そして、彼女がどんな顔をしてたのかも。


 少し時間が経ち、漸く自分が悲観的になり過ぎていたことを自覚した俺は、鳴子と連絡を取ろうとした。

 だが、電話は繋がらず、SMSにも既読がつかなかった。しかし俺は、それをあまり深刻に捉えなかった。何か用事でもあって手が離せないのだろう、くらいに考えていたのだ。滑稽なことに、楽観的でいるべき時に悲観的になっていながら、悲観的であるべき時には楽観的になっていたのである。

 次に俺が受けた電話は、彼女が交通事故で命を落としたというものだった。

 目撃者の話では、心ここにあらずといった様子で信号が赤になったことに気づかず横断歩道を渡ろうとし、車に轢かれたのだという。


 葬式の席で、久々に会った羽田に殴りつけられた。羽田は、鳴子が死ぬ直前に俺達の間に何があったのかを知っていた。

「稲葉さん、泣いてたぞ! 子供ができたって聞いた時、お前が今までに見たことないくらい酷い顔してたって!」

 俺の反応を見て、俺には鳴子と家庭を持つつもりなど全く無かったのだと思い込み、ショックを受けた彼女は、共通の友人である羽田に電話で相談したらしい。羽田は、突然の話だったから驚いただけだろうと言って鳴子を宥めたが、結局彼女はショックから立ち直れないままだったという。

「お前のせいだ」

 羽田は、慌てて止めに入った別の友人に羽交い締めにされながら、俺を詰り続けた。

「お前さえいなければ、こんなことにはならなかったんだ」


 ああ、そうか。

 俺はその時になって、漸く理解した。

 俺は、もっと早くに消え去っているべきだった。父だけではなく、皆の前から、消え失せているべきだったのだ。俺がもっと早くにいなくなっていれば、鳴子がつきあう相手も羽田か他の誰かになっていただろう。そうなっていれば、彼女が深く傷つき、そしてそれによる不注意から事故に遭うなどということも無かったはずだ。今頃は幸せな家庭を作っていたかもしれない。

 その幸せは、俺がいたことで永遠に失われてしまったのだ。


 俺が産まれたことで母は死に、父や親族達は不幸になった。

 俺が生きていたせいで鳴子は死に、鳴子の家族や友人達、それに羽田も不幸になった。

 きっとこれから先も、俺は生きている限り周囲の人達を死なせ、不幸にしていくことになるのだろう。

 それを回避するための最適解は分かっていた。

 全ての不幸の元凶を、この世から消し去るのだ。


 だが、理解と実行は別だった。

 自分自身をこの世から消し去ることについて、思い止まる積極的な理由が何かあったわけではない。何もかもについて無気力になっていた俺には、それを実行するための気力すら湧いてこなかったという、ただそれだけのことだった。

 以前の職場を去ったのも、この時だ。

 そのことで父には更なる心配をかけることとなり、やはり自分は消えるべきだという思いは強まったが、やはり思い切るだけの決断力は、俺には無かった。


 そうこうしているうちに一年が過ぎてしまった。鳴子の一周忌で再会した羽田は、あの時とはうって変わり、開口一番に俺に詫びた。

「彼女が事故に遭ったのは、僕と電話した本当にすぐ後だったんだ」

 ひとしきり謝罪の言葉を連ねた後、彼は語った。

「それで、事故が僕のせいみたいに思えて……僕がもっと別のことを言ってたら彼女を落ち着かせることもできて、こんなことにはならなかったんじゃないかって、そう考え出したら耐えられなくなって、つい他の誰かのせいにしてしまいたくなってしまったんだ。本当に、すまない」

 俺は、彼のその言葉を残念に思った。

 俺は期待していたのだ。

 彼が、お前のせいだお前が全て悪いのだお前は死ぬべきだ今すぐこの世から消え去るべきだと俺を詰り、つけるべき思い切りがいつまでもつかない俺の背を強く押してくれることを。


 しかし結局この時も俺は機会を逸し、そのままずるずると生き続けることになった。

 そうしているうちに、悲しみも絶望も摩耗していった。癒えたというよりは、それらを感じる心ごと摩耗していったという表現が適切なように思う。

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