『――だから言ったでしょう。あの生き物には、紐でも括り付けた方が良いと』


 部屋の中から、アイリーンさんの声が聞こえてきた。


『ですがー、それだとメータ様が可哀そうじゃないですかー』

『そんな事を言っているから、今回のような事故が起こったのです』

『い、痛、痛いですよー、アイリーン様ー』

『痛くしているのです』


 怒っている風にアイリーンさんが言うと、シムさんの呻きが大きくなる。


『全く。姫様もあなたも、あの生き物に甘過ぎます。クライヴ王子がお心の広いお方だったから良かったものを、下手をしたら殺されていても可笑しくはなかったのですよ? 二度とこんな事が起こらぬよう、厳しく躾けて貰わねば困ります』

『大丈夫ですよー。メータ様も反省してたみたいですしー、もう起こりませんってー』

『そんな事分からないではありませんか。相手は動物なのですよ?』

『分かりますよー。メータ様は賢いですからねー。こちらが本気で駄目と言えば、ちゃーんと理解してくださいますよー』


 その通りっす。俺、聞き分けは割といい方っす。


『……随分とあの生き物の肩を持つのですね』


 アイリーンさんの声が、一段と低くなった。


『んー、そうですかねー?』

『そうですよ。大丈夫だの賢いだの、先程から聞いていれば褒めてばかりではありませんか。普段もやれ可愛いだやれ良い子だと言い、意味もなく構ったりして』

『ですがー、最近ではミルギレッド様のお手伝いもなさっていますよー?』

『ただ高い場所のものを取っているだけでしょう。あのような事、椅子を使えば誰だって出来るんです』


 厳しい物言いに、俺の肩身は狭くなっていく。返す言葉もございません。


『大体、本当に賢いのならば、そもそも飼い主に向かって飛び付いたりなどしないのです』

『いやー、それに関してはメータ様は悪くないですよー。メータ様は、ミルギレッド様が喜んでくださるから飛び付いただけですってー。その証拠に、私や使用人には絶対にやらないですものー。だから、それは止めなかった周りの責任ですよー』


 シ、シムさん……っ。

 あざっすっ。庇ってくれてあざっすっ。俺っ、もう二度と飛び付かないっすっ。シムさんの為にもちゃんと反省するっすっ。


『……では、これからは甘やかさずに、きちんと躾をして下さい。いえ、これからは私がしましょう。姫様やあなたに任せるのは些か不安ですので』

『えー、大丈夫ですよー。私もやる時はやりますからー。信じて下さいよー』

『いいえ。あなたの事ですから、どうせ甘やかすに決まっています。姫様など、もしかすれば躾にかこつけてお仕事を疎かになさるかもしれません。やはりここは私が適任でしょう』

「……何を言うか。妾とて、やる時はやると言うのに。なぁ、メータ?」


 小さな声でご主人が愚痴る。でも正直否定し切れなかったので、どっち付かずの「メ」を返しておいた。


『もー、アイリーン様ったらそんな事言っちゃってー。もっと素直になったらいいじゃないですかー』

『……何の話ですか?』

『躾にかこつけなくても、メータ様と触れ合っていいんですよー?』


 ……なぬ?


『な、何を言うのですか。私は、別に』

『いいんですよー、隠さなくたってー。アイリーン様がメータ様の姿を目で追ってるのは、とっくの昔に気付いてましたからー』


 そ、そうなんすか?

 俺は耳を更に押し付け、中の様子を探った。

 アイリーンさんの戸惑ったような呻きが、断続的に聞こえてくる。


『まぁ、いいですけどねー。私よりアイリーン様の方が、しっかりとメータ様を躾けてくださるでしょうしー』

『う、あ、そ、それは』

『では、お言葉に甘えてよろしくお願いしまーす。これを機に、メータ様と仲良くなっちゃって下さいねー』


 シムさんは、かなり楽しそうにしている。きっとニコニコ笑って、珍しく動揺しているアイリーンさんをからかっているに違いない。

 実はSっ気があるんすね。シムのシはSのシなんすね。


『……わ、私は、結構です。そんな資格、ありませんので』


 ふと、妙に沈んだ声がした。


『私は、あの生き物に、嫉妬しているのです……姫様やシム、城に務める者だけでなく、おばば様やエマにも可愛がられるあの者が、嫌いなのです。突然やってきた癖に、食べて寝ているだけの癖に、良い子だの賢いだのと愛されるあの者に、どうしようもない怒りを感じるのです……』


 ポロリポロリと、零れるようにアイリーンさんは語る。


『先程だって、あの生き物が飛び出してこなければ、あなたは殴られなかった。レッディは、あなたを殴らなかった。私だって、こんなに腹立たしい思いをしなくても良かったわ。逆恨みかもしれないけど、でも、憎らしくてしょうがないの。あなたのせいで、一体何人が苦しんだのかと、責め立てたくてしょうがないの』


 声が、どんどん小さくなっていく。


『だから、無理よ。きっと顔を見たら、辛く当たってしまうわ』


 アイリーンさんが、静かに吐き出す。


『躾だって、きっと過剰に厳しくしてしまうわ。そうしたいから、私は自分がやると言ったんだわ。きっとそうなのよ。私はそういう器の小さい人間なのよ』

『でも』


 自分を貶すアイリーンさんを、シムさんは遮った。


『メータ様の事、可愛いと思っていらっしゃるんですよね』


 疑問形ではない質問が、シムさんから上がる。

 それに答える声は、ない。

 代わりに、凄ぇ優しい声が、した。


『大丈夫ですよ』


 微かに笑う気配もする。


『アイリーン様は、公私を混合するなど絶対になさいません。例え憎いと思う相手でも、理不尽な振る舞いをなさる事は決してありません。人間ならば、誰でも嫉妬位します。私だってそうです。そんな当然の事を、恥じる必要も嫌悪する必要もないのですよ』

『で、ですが、私のこの感情は、ただの僻みなのです。本当は、あの生き物は悪くないと分かっているのです。分かっていて、止められないのです。荒を探して、勝手に憎らしく思っているだけなのです』

『本当に僻んでいる人間は、自分に非があるとは言いませんよ。全てを相手に押し付けて、己を正統化するものです。そうしないアイリーン様は、とても実直で、清らかな心の持ち主だと私は思います』


 シムさんの言葉が、ゆっくりと消えていった。

 アイリーンさんは何も言わない。

 でも、執務室の中の空気が、じわじわと温かくなっていくのが分かった。


『……アイリーン様』


 ソファーの軋む音がした。


『私が何故、メータ様を可愛がるか知っていますか?』

『え?』


 アイリーンさんの声と、俺の心の声が重なる。

 シムさんは小さく笑い、ゆっくりと言葉を続けた。


『私は普段、ミルギレッド様に代わりメータ様のお世話をする事が多いのですが、メータ様のお体を洗ったり、お食事を手伝ったり、人間の姿となった際は服を着せて差し上げたり、歩行の練習をしたり、そうして触れ合っていると、何と言うか……』


 シムさんは少し口籠もると、内緒話をするように声を潜めた。


『……こ、子供を育てているような、そんな感覚に陥ってしまいまして……』


 いつぞやおばばに結婚について言われた時のような、照れ臭そうな声色で笑う。

 執務室の空気が、何だかとろみを増した気がする。


『だ、だから、というわけでは、ないのですが……』


 ソファーの軋む音が、さっきよりも大きく鳴った。


『アイリーン様も、そのようにメータ様と触れ合ってみては、いかがでしょうか?』


 穏やかな、俺に話し掛ける時よりもっともっと優しい声で、シムさんは言った。


 アイリーンさんの呻き声がする。それもどんどん聞こえなくなってきて、最後には沈黙だけが残った。


 時間が経てば経つ程、執務室の中の温度は上がってきているような気がする。何だかむず痒くて、心のままに「メェェェェ~ッ!」と叫びたい気分だ。

 でも、俺は歯を食い縛り、必死こいて我慢する。

 ご主人と共に、一層耳を押し付けて扉に張り付いた。


『……そ、その……』


 ようやく、この場に音が生まれた。


『それは、あ、あなたも一緒に、ですか……?』


 か細い声で、アイリーンさんが問い掛ける。


『……そのつもり、ですよ?』


 執務室の中が、一気に熱を帯びた。

 扉越しでも分かる程に、甘い。


『……では、もし、私が辛く当たってしまいそうになったら、その時は止めてくれますか?』

『はい。あなたが後悔しないよう、きちんと止めてみせます』

『もし、私が理不尽に怒ってしまいそうになったら、その時は宥めてくれますか?』

『勿論です。心が落ち着くまで、ずっと隣で宥めています』

『もし嫉妬をして、醜い想いを持て余してしまったら』

『その時は想いが鎮まるまで、僕と散歩にでも行きましょう』

『僻みが抑えられなくて、口汚く罵ってしまったら』

『代わりに僕とお話をしましょう』

『それでも我慢し切れずに、手をあげてしまったら』

『それはありえない』


 シムさんは、断言した。


『あなたが子供をぶつなんて、万に一つもあるわけがない。あなたは、例え負の感情に飲まれようと、そのような非道な真似をする人ではないよ』

『……シム……』

『だから、どうか安心して。大丈夫。君はとても素敵な女性だよ。いや、今度からは母になるのかな?』


 からかいを含んだ声で、シムさんは笑う。


『ね、だから、笑ってよイリーナ。僕は君の笑顔が好きなんだ。大丈夫。きっと出来るさ』

『そうかしら……』

『そうだよ。君は出来る。僕も付いているから、頑張ろう。ね?』

『……そうね。あなたもいるのだから、きっと大丈夫ね』


 幸せそうに笑う声が、扉の向こうから二つ上がった。


 それからすぐに、チュ、という音も聞こえた。


 俺はびっくりして、ご主人を仰ぎ見る。


「……全く。妾がいないとすーぐ乳繰り合いおってからに。それ程イチャイチャするのであれば、意地を張らずにさっさと結婚すればよかろう。なぁ、メータ?」


 その言葉で、流石の俺も悟った。


 あの二人、デキてたんだ。

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