第二章
1
「はーい、メータ様ー。お水を掛けますよー」
シムさんの声に返事をすれば、裏庭の池から水の塊が浮かび上がった。そいつらは桶に入れられた俺の元までやってくると、泡塗れな俺の体を包み込んだ。
「はーい、ジャブジャブしましょうねー。ジャブジャブー、ジャブジャブー♪」
シムさんは自作の歌と共に手を動かし、俺の黒い毛を濯いでいく。指使いが堪らなく気持ちいい。思わず「メェェ~」と鳴けば、シムさんは姉ちゃんだか兄ちゃんだかよく分かんない顔を、ニッコニコに変化させた。
因みにこの人、兄ちゃんらしいです。
本名はシム・ワイルドさん。ワイルド要素皆無ののんびり屋さんで、俺とかなり近い匂いを感じる。
それは向こうも同じらしく、
「メータ様といると、なーんか落ち着くんですよねー」
とか言って、時々一緒に昼寝してる。
たまに寝過ごして怒られてるけど、あんまり気にしてないみたい。そういう所も俺と似てる。兄弟がいたら、きっとこんな感じなんだろう。
「じゃあ次はー、脱水しますよー」
シムさんが、俺の体に両手を置いた。
すると、毛が後ろに引っ張られる感覚に襲われる。足に力を入れて踏ん張っていれば、膝カックンをされた時みたいに、突然カクっと前にのめった。桶の縁に軽くデコをぶつける。
「はーい、これで終わりでーす。お疲れ様でしたー。良い子に出来て偉かったですねー」
シムさんは俺の背中を撫でると、尻を押して桶から出した。片手に持っていた汚れた水の塊を桶へ入れてから、ポケットの中を漁る。
「はい。これ、ご褒美ですよー」
そう言って差し出されたのは、クッキーみたいな菓子だった。しかもこれ、俺の好きなドライフルーツが入った奴じゃん。
『あざっすっ。シムさんあざっすっ』
尻尾を振りながらありがたく頂けば、シムさんは肩に流した三つ編みを揺らし、それはそれは微笑ましげな眼差しで俺を見た。
隠れてお菓子とかくれるから、シムさんは結構好き。
三日に一回のシャンプーも好き。
すっきりして気持ちいいからっていうのもあるけど、一番の理由は、これ。
「さぁメータ様。こちらにいらっしゃって下さいな」
「お髪が乾くまで、私共と日向ぼっこでも致しましょう?」
「美味しい干し草と果物もご用意しておりますわ。さぁどうぞ」
メイドさん達にちやほやされるから、超好き。
俺は促されるまま地面に敷かれた布へと向かう。崩れた土下座みたいな恰好で蹲ると、左右にメイドさん達が座って俺の毛を櫛で梳いてくれる。これがめっちゃ気持ちいい。ポカポカ陽気にもつられて、体がでろんでろんに溶けちまいます。
「気持ち良いですか、メータ様?」
『最高っすぅ』
俺の口からビブラート付きの「メェェ~」が零れ落ちると、メイドさん達は声を出して微笑んだ。その眼差しは、縁側に寝転がる俺を見守るばあちゃんの如き温かさだ。
「しょうがないねぇ、芽太は」とか言いつつ、いつもブランケットを掛けてくれるばあちゃん。気持ちは凄ぇ嬉しいんだけど、真夏にもやるのは正直勘弁して欲しかった。流石の俺でも暑さで目が覚めるから。
くわーっと欠伸を零し、俺は前足の上に顎を乗せた。
この体にも大分慣れたもんだ。
最初は四足歩行ってどうしたらいいのか分かんなくて戸惑ったけど、今は小走りだって出来るようになった。まぁ、たまにコケるんだけど。でも、自前の毛と固いデコのお蔭で痛くないし、怪我もしないからいいかと思っている。
そういや、俺、ここにきてからどれ位経ったんだろう。十日まではちゃんと数えてたんだけど、途中で止めちゃったんだっけ。カレンダーみたいなものもないし。
うーん……多分、一ヶ月位? うん、多分そんなもんだろう。
一ヶ月。
家族や友達と離れてから、それだけの日が経った。
驚く程に、寂しくも悲しくもない。
寧ろずっとここにいたい。
いや、だってさ。勉強しなくていいし、飯は美味いし、ゴロゴロしてるだけで可愛いとか良い子だって褒められるんだぜ? そりゃあやる事なさ過ぎてちょーっとばかし暇だなぁって思う事もあるけど、そういう時は日向でぐーすか寝てればその内誰かが構ってくれるし。これでもかと羊な自分を謳歌しているのですよ。
これがじいちゃんの言ってた『憧れのヒモ生活』って奴なんだろうな。うん。
「メータ様、はい、干し草ですよ。召し上がれ」
メイドさんが口元へ差し出してくれた茶色い草を、遠慮なく頂く。口だけもぐもぐ動かしてれば、「美味しいですかー?」って聞かれた。『激ウマっす』と答えると、メイドさんは嬉しそうに笑う。
そう。草って、実は結構美味いんだよ。
初めて出された時はどうしようかと思ったけど、取り敢えず一口いってみたら意外にイケたんだよね。きんぴらごぼうみたいな触感でさ。しかもばあちゃんが作ってくれる奴に味が似てるから、もう止められない止まらない。
勿論、生の草も食べられる。こっちは水々しくてちょっと苦みがある。ピーマンの肉詰めみたいな感じ。俺ピーマン割と好きだから、小腹が空いたらそこら辺の奴を失敬してる。
基本的には怒られないけど、一回だけ中庭の芝生を齧ってたらアイリーンさんに睨まれた事がある。何も言ってこなかったけど、怖いから中庭の奴は二度と食べないと心に誓った。
もう一口干し草に齧り付き、のんびり顎を動かす。美味ぇなぁと思いつつ、俺は目の前のシムさんを眺めた。
シムさんは、俺の入っていた桶に手をかざしていた。
ろ過された水が、空中に集まっていく。透明なバスケットボール位の大きさになったところで、池の中へ投げ入れた。また集めて、ある程度の塊になったら投げる。それを何度も繰り返した。
ここにいる人達は、水を操る事が出来るらしい。
別に魔法使いだからとか、訓練したからとか、そういうわけじゃなくて、モファット国に生まれた人なら誰でも普通に使えるんだって。シムさんみたいに汚れた水をろ過したり、アイリーンさんみたいに誰かを縛り上げたり、他にも水を汲んだり逆に捨てたり、色々出来るようだ。
あんまり皆が普通に使うから、俺にも出来るんじゃないかと思ってこっそり練習したのはここだけの話だ。結果は、まぁ、あれだよ。かめはめ波みたいなもんだよ、うん。
何となく物悲しい思いに浸っていると、不意にシムさんが桶を掴んだ。そのままメータの木の根元へ行き、桶をひっくり返す。
凝縮された泥の塊が、ドロボターっと垂れ落ちた。
凄いよな。あれ、全部俺にくっ付いてた汚れだぜ? 三日前に洗って貰ったばっかだっていうのに、俺、どんだけゴミ集めてんだよ。ま、モップの如きボディだからしょうがないのは分かってんだけどさ。でも、それを洗わされるシムさんにはちょっと申し訳なかったりする。本当はこんな事する立場の人じゃないわけだし。
「はい、メータ様。お背中の方は乾きましたので、今度は仰向けになって頂けますか?」
「ゴロンですよ、ゴローン」
メイドさん達が、頻りに俺の体をひっくり返そうとする。お望み通り、崩れた土下座スタイルから豚の丸焼きスタイルへと変更した。
ぽかぽかな陽気が顔に掛かり、自然と鼻から息が零れる。
「はーい、良く出来ました」
「良い子ですねぇ、メータ様」
「はい、ご褒美ですよ。あーん」
メイドさん達は俺の顔を覗き込み、腹を撫でたり毛を梳いたり柿みたいな果物を口元まで持ってきてくれたりした。それぞれお美しい顔を、お美しく綻ばせていらっしゃる。
だから、俺の顔がにやけ下がってしまうのも致し方ない事だろう。
ほら、だって健全な男の子ですから。
綺麗なお姉さんは好きなんです。
ちやほやされて嬉しいんです。
褒められたら舞い上がっちゃうんです。
俺はご機嫌に鳴き声を上げ、尻尾を振りながら柿みたいな果物を齧った。途端、俗に言う黄色い声が周りから降り注ぐ。
いやぁ、羊最高っす。
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