十三話 好きとかないし
ベッドの端に腰かける華子が自分の隣をパンパンと叩く。
俺は意味が読み取れず首を傾げる。
華子がキツく睨んできた。
「座れって言ってるのよ」
「……いいの?」
俺のこと、怒ってるはずなのに?
「いいから、座れ」
「……はい」
言われた通り、華子の隣に座る。ほどよい弾力のマットレス。
俺が落ち着くと同時に華子が怒鳴ってきた。
「なんであんな恥ずかしいこと、私にさせるのよ!」
北極かどっかのブリザードみたいな冷たく荒々しい視線だ。
え、なに?
「……恥ずかしいこと?」
「そ、そうよ! 裸にひん剥いてさ! オチ……ヘンなの弄らせてさ! 信じらんない! この、童貞めがっ!」
ええ~!
自分で勝手に脱いで、自分から俺の息子を愛撫したんじゃん。
でも、今は華子を怒らせている。下手な反論はできなかった。
「俺が……華子にさせたんだ?」
「そうよ! 今日はうまい具合に下ろしたての上下だったからまだよかったけどっ!」
「あ、よかったんだ?」
「よくないっ!」
……どっちなの?
ここで俺は気付いた。華子の奴、何度も何度も右足の指先をカーペットになすり付けている。
……さっき、俺の一物を弄った方の足だよね? 後になってそんなにイヤがるならしなきゃいいのに。
ふいに華子の目から力が抜けた。そしてなじるように言う。
「全部あなたが悪いんじゃない。私を裏切るようなことして……」
「勝手に実加子さんと会ったのは悪かったと思ってるよ、ゴメン」
俺は身を縮こまらせて反省する。
華子が俺の身体に視線を落とした。その後、ぐるりと顔全体を見回す。
「酷いありさまよね?」
確かにそのとおり。柔道部にズタボロにされて傷だらけの泥だらけだ。
俺があいまいに笑うと華子は微笑んだ。
「すごく必死だった。必死に、『俺は裏切ってない』って言うの。ムシしてるのにしつこく来たわよね」
「ホントに裏切ってないんだよ。……それを、分かってほしいんだ」
どうにかして俺の想いを伝えたい。裏切られたと思っている華子はきっと傷付いているはずだから。
華子がちょっとだけ声のトーンを上げて言う。
「あなた、私のことバカだと思ってる?」
「え? いや、え?」
質問の意図がよく分からずうろたえる俺。童貞はとっさに気の利いた答えなんて言えない。無難な返答さえも。
「あんなに必死に言われたら、あなたがホントは裏切ってないって気付くから」
「そうなの? でも……会ってくれなかったじゃん」
警察まで呼んでさ。
華子がキツい目で見てくる。そんなに圧迫感はない。
「裏切ってなかったとしても、母に会ったのは会ったんでしょ? その分の制裁は必要なの」
「ま、まぁ……そうか……」
「それで、あなたにとって一番キツい制裁は会ってあげないことなのよ」
「よ、よくご存じで……」
警察にしょっ引かせるのは、やり過ぎな気もするけど……。
「当分の間、私はあなたと会う気はなかった。でも、ゲンちゃんとあのうるさいオバサンがうだうだ言うから、仕方なくその日のうちに会うことにしたのよ。感謝しなさい?」
「で、自分から服を脱いで、俺の息子を愛撫したんだよね」
「それは言わなくていいから……」
華子がイヤそうに顔を歪める。
いやいや、自分がしたことでしょ?
やっぱりちゃんと聞いておくべきか。
「……華子ってば、なんであんなことしたの?」
「なに言ってるのよ、あなたがさせたんじゃない」
あいかわらず華子の中では俺がさせたことになっている?
どうすればいいの、この状況?
俺は童貞なので他人に罪をなすり付けてくる女の扱いなんて分からない。
華子が目を閉じた。口の中でぶつくさなにかを言っている。
そして目を開いて俺を見る。その視線はどこか親しげだった。
「順番に話すからちゃんと聞きなさい?」
「う、うん……」
「まずね、あえて言ってなかったけど、私ってほんのちょっぴりだけあなたのことを信じてたの。他のゲスな男とは違うかもって」
「俺を? 信じてた?」
そんな素振りは少しもなかったけど?
いやでも……あんな無防備な笑顔を見せてくれたのは、それなりに信頼してくれていた……から?
「ほんのちょっぴりだけよ? あなたはとんでもなくバカな童貞だけど、いつも本当のことを言うのよね」
「え、俺だってウソつく時はあるよ?」
「そういうところ」
華子が口元を緩めた。
そして続ける。
「馬鹿正直に『ウソつく時はある』なんて言う。そういう奴だから、この私を騙すだけの知恵はないって思ったわ」
「は、はぁ……確かにおっしゃるとおりです」
なんだか酷い言われようだけど、信じてはくれていた?
「でも、私はあなたに裏切られたと思ってしまった。誤解には気付けたけど、前と変わらずあなたを信じてるか、よく分からなくなったの」
「誤解は解けたのに?」
「プカプカ浮いている風船は、ヒモから手を離したらもう終わりよね? あっという間に手が届かないところへ行ってしまう」
華子が、ぱっと手のひらを広げて上を向く。風船が空高く飛んでいくのを見つめるみたいに。
すぐにまた俺を見る。
「私にとって、男を信じるのはそれくらい危ういの」
やっぱり華子は男に対して強い不信感を持ってるんだ。
父親だけでなく、実加子さんのせいでもあるらしい。どうしても俺は二人を恨んでしまう。
華子は話を続けた。
「分からないままじゃダメだと思った。だから私は自分を追い詰めて、心の中を探ったの」
華子は透き通るような瞳でじっと俺を見つめる。
「こいつは欲望に流されはしない。信じなさいよ。信じられないの? そう問いかけていったわ」
「欲望に流されてたらアウトだったんだ……」
あ、危ないところだった。ギリギリセーフ?
「そんなことにはならないって分かってたわ。あなたはどうしようもない童貞なんだから、据え膳なんて食べられないの。それは分かってた」
「う、うん……まぁ、そうだね……」
極上の女に当たり前のように言われるのはそこそこキツいけど。
「頭では分かってるのよ。でも、心の中の方でもちゃんとあなたを信じられているか、それを知りたかったの」
華子の真剣な気持ちが伝わってきた。
俺なんてあのまま見限ってもよかったはず。
でも、華子はそうしなかったんだ。
……俺は、恐る恐る聞いてみた。
「それで……俺のこと、信じてくれてた?」
華子は少し首を傾げ、悲しそうな顔をした。
「……ダメね。どうしても……前と同じようには信じられないの。何度も何度も問いかけてみたけど、ダメだった」
「そう、なんだ……」
「残念だわ。すごく楽しかったのに……」
もう華子は俺に無防備な笑顔を見せてくれない? 軽率に実加子さんと会ったばっかりに……。
俺はみっともなく泣きそうになる。
そんな俺に、華子が静かな声で語りかけてきた。その目には力がある。
「でも私、あなたを信じ直してみたいの」
「ホント?」
「ええ、あなたの気持ちが届いたから」
俺の気持ち?
俺の告白は、ちゃんと華子に届いたんだ?
……それってつまり。
「華子も俺のことが好きなんだ?」
途端に華子の視線が冷たくなった。つららで突き刺してきそうな目だ。
そして投げ捨てるみたいにして言う。
「いや、あんたを好きとかないし」
あれ? あれれ?
華子の言うことが理解できない。
「で、でも俺の好きって気持ちが届いたんでしょ? それって……」
「単に届いただけよ」
「ええ? よく分からないんだけど?」
「あなたって、ホント童貞よね?」
今度は蔑みの視線。当然のように俺は勃起する。
華子が冷たく言う。
「この私が、あなたごとき童貞を好きになるなんてあり得ないわ。身の程を知りなさい?」
「は、はい……」
俺は身の程を知る。
兄貴たちの言うとおり、華子は俺のことを好きになってはいない。
ケーケンホーフな極上の女なんだし、平凡な童貞なんて相手にしないのが当然か。
……ちょっとヘコむ。
「後、私のことを好きだなんて言うのは禁止だから。二度と口にしないで」
「ええ? でも俺の本心なんだよ?」
「ダメ。あなたに真顔であんなこと言われたら恥ずかしいじゃない」
「……恥ずかしい?」
華子が何度かまばたきする。
そしてまたキツい視線。
「言い方を間違えたわ。恥なのよ。あなたごとき童貞に好きになられるのは、この私にとっては恥なの!」
「でも、本気なんだよ。本気で……」
「だから言うな!」
華子が手で俺の口を覆ってくる。
はぁ……柔らかくって、スベスベで……。
華子が赤い顔で言う。
「に、二度と言わないでっ! 言ったら絶交だから!」
うなずく俺。
華子が手を離してしまう。ああ……。
華子がまたにらんでくる。今度は溶岩みたいな灼熱の視線だ。
「それと、私の下着を盗んだ件はまだ許してないから!」
「ええ? でもあれは結局使わなかったんだよ?」
「関係ない!」
「……は、はい」
俺の努力は評価してもらえなかった。
「あれは重罪だから。許してほしかったら今まで以上に私の言うことを聞くように。まずは引き続き浜口行道の調査を続けなさい?」
「……それっぽい証拠があればいいんだよね? 後はでっち上げ」
「ゴチャゴチャ言わない!」
「は、はい……」
今まで以上に言うこと聞かないといけないんだ? ……かなりキツいことになりそうなんだけど。
と、華子がベッドに手をついて身体を近付けてきた。
もう険しい表情ではない。
「一度しか言わないからよく聞いて」
「うん」
「……ごめんなさい。あなたを疑ったりして」
「うん、俺こそゴメンね」
華子が微笑む。
温かい、親しみの込められた目を向けてきた。
……それはそれとして。
今、華子は俺の方へ前屈みになっていた。
そして俺は純粋な童貞だ。
大きく開いたTシャツの襟元をチラ見するのは仕方がない。
……純白のブラ。
花柄のレースが色っぽい。
ついさっき下着姿の華子を見たところだが、あれは異常事態だ。
こうやってこっそりのぞき見る方が俺は安心できた。
ばっ、と華子が手で襟元を隠す。
……し、しまった。
地獄の番人みたいなキツい目で華子がにらんできた。
俺は華子の慈悲に
「さ、さっき自分から見せてくれたし、見るくらいは別によかったり?」
「こっちから見せてあげるのと勝手に見るのとじゃ、天と地くらい違うわよっ!」
……だよね。
そして俺は華子の部屋から追い出された。
何度も尻を蹴られながらゲンさんの家から追い立てられる。
蹴っ飛ばされて外へ出たところで後ろから華子の声。
「ホント、あんたってどうしょうもない童貞よね?」
おっしゃるとおり、俺はどこまでも童貞です。
信じ直してくれるはずだったのに全部おじゃんなの? 恐る恐る振り返る。
華子は優しい笑みを向けてくれていた。
「ま、今さらか」
「え? はい……」
「じゃあね、また明日」
そう言い残し、華子は扉を閉めた。
ともあれ華子を裏切ったという誤解だけは解けたようだ。
……よかった。
好きな人に憎まれるなんてキツすぎた。
好き……。
そう、俺は華子が好きだ。
俺はどうしようもない童貞なので、自分が恋をするなんて思いもしなかった。
だから自分の恋心を自覚するまで時間がかかった。
でも、俺はもう自分の気持ちを知っている。
さらに相手に自分の気持ちを伝えられた。
じゃあ次は……。
え、どうすればいいの?
俺は純朴な童貞なので恋の仕方なんて分からなかった。
どうしよう?
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