六話 女の子の匂い

 母と兄が出ていってたっぷり十分は経ってから、華子は身体を起こした。


「大変……大変、お聞き苦しいものをお聞かせしてしまい……」

「いえいえ、こちらこそ、馬鹿兄貴が……」


 二人して謝り合う。


「で、分かったと思うけど、あの人が私の母なのよ」

「華子さっき、娘が家を出たって言ってたよね? お母さんも、連絡を寄こさないって愚痴ってたし。華子って今、家出してるの?」

「その話は本題ではないわ。本題は、あなたの兄が私の母に詐欺を働こうとしてるってところ」


 そうなんだろうか? 家出も結構大きな問題だと思うんだけど。

 しかし華子は話を進めてしまう。


「聞いてて分かったでしょ? 母は結婚する気みたいなのに、浜口行道は別に女がいるのよ」

「でも、その人……早苗さんとは別れたみたいな言い方だったよね? 実際、最近あの人のことが兄貴の話に出てくることはないし」

「違うわよ。ホントは早苗って人が本命で、母のことは騙くらかす気でいるの。危うくメールを見られたけど、うまく誤魔化しきったようね」

「そうなのかなぁ……」


 華子は自分の説を確信しているようだ。

 でも、今の会話でそこまで言い切れるのかな? 童貞には分からない会話の機微があったのだろうか。


「そもそも、あんなに年の離れたカップルなんてあり得ると思う? 母は私みたいな大きい子供がいる年なのに」

「十七才差って言ってたっけ? でもさぁ、年の差なんて関係ないでしょ?」


 聞いたふうなことを言う俺。本当は、俺も年が離れすぎてると思うけど。


「あなた、やる気あるの?」


 華子がゾクゾクくる視線で睨み付けてきた。ようやく収まっていた息子がまた起立する。


「いや、今の会話だけじゃ、何の証拠にもならないよ」

「そうかもね」


 華子は自分の耳元に手をやると、長く艶やかな髪を横に払った。

 色っぽくて一物がビクンビクンする。


「そうかもねって、どうする気なの?」


 ちょっとずつイヤな予感がしてきたけど。


「あなたは浜口行道の弟なのよ。うまい具合に一緒に住んでる」

「ちょっと待ってほしいなぁ……」


 ここまで来たらイヤな予感しかしない。

 華子は平気な顔で言ってのける。


「まずは証拠集め。浜口行道の部屋を調べなさい?」

「はぁ……」


 やっぱりそういうことになるのか。

 これで華子が俺に近付いてきた理由がはっきりした。

 浜口行道と同じ家に住んでる、扱いやすい童貞だから。

 徹頭徹尾、利用する気マンマンなのだ。


「スマホも抑えなさい? データを吸い出すやり方とか調べてあるの。位置情報を掴むアプリも仕込むわよ」

「いやいや、それって違法じゃないの?」


 なんかそういうニュースを見た記憶がある。どのみち、部屋漁りも含めてプライバシーの侵害もいいところだ。

 華子が俺の目を見る。


「……ねぇ、法律と私、どっちが大切なの?」

「法律だよ」


 俺は順法精神のある童貞なのだ。

 華子が俺をにらみ付けてくる。

 いや、にらむというのとは少し違う。熱く……艶めかしい……視線を……向けてきた……。


「……ねぇ、もう一度聞くわ? 法律と私……どっちが大切なの?」

「華子に決まってるじゃないか」


 俺はあっさり陥落する。

 あんな目で見られたら仕方がない。別に殺人を犯すわけでなし。大丈夫、大丈夫。


「分かってくれてうれしいわ。全ては浜口行道の悪行を防ぐためなの。正義は我にありよ」


 自ら名乗る正義ほどうさんくさいものはない。俺はそれを知っているが、あえて言うことはしなかった。

 華子が学生カバンからノートパソコンを取り出す。


「今からデータの吸い出し方を説明するわ。こっち来なさい?」


 どうやら本気でやるみたいだ。

 もういいや、腹はくくった。

 俺は席を立って華子の隣に座り直す。余裕のある二人掛けのシートだ。

 ちょっと二人の間が空きすぎた。

 俺が十センチ間を詰めると、華子は十五センチお尻を向こうへ動かす。


「あのさ、それってないと思うんだけど」

「……分かったわよ」


 華子が身体を寄せてくる。向こうの肩が俺の肩に当たった。肩どころか、お互い半袖なので腕同士が直に接する。

 うおおおっ!

 と叫びたかったが、騒ぐと怒られるのでこらえる。

 なんか、すっげぇいい肌触り。

 そして、この香り。何これ、華子の匂い? 体臭なの?

 俺は鼻水をすするふりをして思いっきり匂いを吸い込む。

 ふあああっっっ!

 叫びたいが我慢。

 やべぇ、今すぐトイレ行きたい……。


「ねぇ、ちょっと。ちゃんとしなさいよ」


 間近からにらまれるのもご馳走だ。でも、あんまり怒らせるとマズい。


「ゴメンゴメン、ちゃんと聞く」

「そうしてよ。まず、データを吸い出す手順が乗ってるWebページを、コピーしておいたのよ……」


 と、身を乗り出してマウスを操作する。

 マウスはノートパソコンの右側にあり、俺は華子の右側に座っている。自然、華子は俺の方へ身体を寄せる形になった。

 俺の鼻先に華子の頭。とんでもなくいい香りが髪から漂ってくる。

 そして俺の脇腹に親しげに当たる華子の胴体。


「ちょっとちょっとちょっと!」


 華子が抑えた声で怒鳴ってくる。


「え?」

「え? じゃなくて! いきなり抱き付いてこないでよ!」

「あ」


 俺はいつの間にか華子を抱き寄せていた。左腕が華子の左肩まで回されている。

 極上の女から与えられる刺激が強すぎて、身体が勝手に動いていたようだ。

 慌てて手をのける俺。


「ゴ、ゴメン。無意識に……」

「あなたってば、無意識に襲いかかってくるの? とことんケダモノよね?」


 すぐ側からゴミムシを見るような視線を俺に向けてくる。当然、これもご馳走だ。

 華子はマウスを左側に移し、俺からわずかに距離を取った。

 そして説明を再開する。

 俺は鼻で息をしながら華子の話を聞く。

 ちらりと横を見ると、とんでもない美貌を間近で見られる。このまま隙をついて顔を寄せたらキスできるんでは?

 いやいや、ここで焦っては、童貞を捧げるという大目標を逃してしまう。

 こらえろ、快人!

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