第23話 沈む心

 昨日までの晴天が嘘のように、天気は崩れていた。まるで、私の心を表しているようだ。


「はあ……」


 曇天の空の下、私は大きな溜息を吐く。雨が降るのだろう。空気は湿っていた。しっかりと手にビニール傘を持って、私は修習所へ向かう。気が重い。忘れよう、考えないようにしよう、と思っても、昨日の鬼島のことを思い出してしまう。


(彼女さん、きっととても喜んだんだろうな)


 あの後、鬼島が彼女に会いに行ったのかと思うと、また胸が痛んだ。誰にも見せない優しい笑顔を、彼女には見せているのだと思うと、息がうまくできなくなる。

 片想いとは、こんなにも苦しいものだったのか。


「あれ、野々宮さん?」


 俯いて歩いていると、名を呼ばれた。顔を上げると、吉本が立っていた。もう修習所に着いていたらしい。


「どうしたの、暗い顔して」


「……おはようございいます。あの、天気が悪いなあと思いまして……」


 吉本に泣き顔を見られたことや自分の気持ちを告白したことを思い出して、なんだか気まずい。しかし相手は教官だ。変に避けることもできず、私は天気のせいにした。


「うん、たしかに。今日は天気が悪い。一雨きそうだよね」


 吉本は、人当りの良い笑顔を私に向ける。まるで、この間のことなどなかったかのように、自然だ。気にしているのは私だけのようだ。それもそうだろう。吉本は、女性にモテる。私一人のことだけを気にするはずもない。そう思えば、少しは気分が楽になった。


「吉本教官、今日は早いんですね」


 今は、朝七時。修習が始まるまで、まだ時間がある。吉本は、いつもこんなに朝早くから修習所に出勤していなかったように思う。


「まあ、ちょっと仕事があってね。野々宮さんの方は、今日も早くから自習?」


「はい。家だと、集中できなくて」


 本当は、家に一人でいると鬼島のことを悶々と考えてしまうからだ。修習所にいれば、嫌でも気が引き締まる。自分が苦しくなるだけなのに、少しでも鬼島の気配を感じたいという思いもある。

 二人で他愛もない話をしながら、修習所内を歩く。そして、吉本は教官室へと消えて行こうとした。しかし、その足を止めて私に向き直る。


「そういえば、鬼島さんも早くから来てるみたいだよ」


 吉本の言葉に、私は固まった。


「野々宮さんさあ、本気で鬼島さんのこと好きなの? 教官相手だし、彼、優しくないでしょ」


 まさか、ここでその話題を出されると思っていなかった。私の身体は強張って、答えられない。


「大丈夫。ここからなら、鬼島さんには聞こえないよ」


 にっこりと吉本が笑う。しかしその笑顔は、どこか黒いものを含んでいるように見えて、怖かった。

 教官室への扉は閉まっているし、窓からも死角になっている。たしかに、聞こえないのだろう。

 それでも何故、吉本は今こんなことを聞くのだろう。

「鬼島教官は、誰よりも厳しくて、誰よりも優しいですよ」


「教官に恋をしてもいいと思ってるの?」


「勉強に支障はありません。それに、これは私の一方的な片想いで終わりますから心配は無用です。鬼島教官には、彼女がいますから」


 できるだけ冷静に、その事実を受け入れているように、私は言った。


「彼女が? それは初耳だなぁ」


「でしょうね。鬼島教官が吉本教官に話すとは思えません」


 そう言うと、吉本ははは~と笑ってみせた。


「でも、好きなんだよね?」


 私の耳元で、吉本が囁いた。いい加減、吉本の相手をすることが面倒になった私は、はっきりと認めることにした。


「前にもお伝えした通り、好きです。この気持ちを簡単に消すことはできません」


 認めたのだから、もういいだろう。その答えに満足そうにうなずく吉本に、私は背を向けた。

 そして、今度こそフリーズする。


 鬼島がいた。

 それも、今出勤してきたようだ。もう出勤しているという吉本の話は嘘だった。


「おはよう、野々宮。今日も早いな」


 まったく抑揚のない冷たい声で、鬼島が私に声をかけた。そして、私の返事も待たずに教官室へ消えていく。

鬼島への告白を聞かれたのに、何も言ってくれなかった。それどころか、いつもより冷たかった。目も合わせてくれない。やはり、この気持ちは迷惑なだけなのだ。


「今の、聞かれちゃったかな? 僕がうまく誤魔化しておこう」


 という吉本の言葉で、私の硬直は解けた。


「やめてください。もう、何もしないでください。私のことは放っておいてください!」


 どこに感情を向けていいか分からなかった。息が苦しい。鬼島との思い出が、本気で好きだと気づいた恋心が、私の中で泣き叫んでいる。


「どうして、こんなことに……」


 ただ、鬼島が好きなだけなのに。

 好きだという気持ちがあるから、苦しくて、辛い。

 自分を受け入れて欲しいと願ってしまうから、拒絶されると視界が真っ暗になる。

 頭がガンガンする。冷たい鬼島の声が、耳に痛いほど残っている。


「嫌だ、怖い……怖いよ」


 鬼島を信じて生きてきたのだ。

 そして、恋をした。自分の信じるものは、鬼島だった。

 その鬼島に冷たくされたら、どうしたらいいか分からない。鬼島に追いつこうと思って詰め込んだ知識の数々が、頭の中をぐるぐる回る。そのどれも、今の混乱する私を救ってはくれなかった。

 鬼島だけが、私に光を見せてくれたのに。優しく包み込んでくれたのに。

 もう、その鬼島も私を見てはくれない。


「…かはっ! うぅ」


 私は過去のこともあって、精神的に強い訳じゃない。何かショックなことがあると、よく発作を起こしていた。そして、勉強することで意識をそらしていた。

 しかし、あの火事のトラウマを思い出した時以外、最近は落ち着いていたのだ。

 それなのに、また昔の悪い癖が出て来たようだ。

 過呼吸になり、うまく息が吸えない。

 意識が薄くなっていく。


(あぁ……ここで倒れちゃダメ……)


 しかし、体は鉛のように重くなり、意識を失った。

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