第15話 鬼に近づく方法

 深々と頭をシーツにめり込ませ、私はベッド上で土下座していた。


(本当は、お礼を言うつもりだったんだけど……)


 鬼島の授業で倒れたあげく、鬼島に運んでもらったなど、とても礼を言えるような心境ではない。

 私は、鬼島から発せられる無言の圧力に縮んでいた。


「……何してる?」


 しばらくの沈黙の後、がしっと頭を鷲掴みにされ、顔を上げさせられた。鬼島の怜悧な双眸が間近にあり、私は息を呑む。どことなく、鬼島はむっとしているように見える。


「あ、あの、授業中にとんだ失礼をいたしました……お忙しい時間も割いてしまって、それに、鬼島教官に運んでもらったなんて、すいません、重かったですよね……」


「お前が標準よりも重いことは知ってるが」


「……!」


 思わず、叫び声を上げそうになったのを必死で我慢した。鬼島には一度おんぶされている。しかし、数値的な体重は知らないはずだ。それなのに、標準よりも重いだなんて、女性に対して言うことか。顔を真っ赤にして、抗議したいのを我慢しているうちに、鬼島に無言でベッドに押し倒された。ぐるんと視界が反転し、真っ白な天井を背景に、美しく整った鬼島の顔が見える。眼鏡越しでも、視線が痛い。


「お前は俺の下僕だろう?」


 ヒィィ…という悲鳴を喉元にとどめ、私は平静を装っていた。今度こそ、襲われるかもしれない。ついさっきまでは吉本がいたのに、今は人気のない保健室に二人きり。私の心臓がばっくんばっくん跳ねている。視線を逸らしたいのに、視界は鬼島でいっぱいだ。


「ななな、何す……」


 鬼島の空気に呑まれそうになる自分を奮い立たせ、私は声を上げる。

 しかし。


「目を閉じろ」


 という鬼島の低い声に、身体は素直に従っていた。目を閉じると、ますます自分の心臓の音が近くに感じた。

 鬼島の気配が近づいてくる。


(うぅぅ……!)


 ぎゅっと目を瞑ると、額に柔らかくてあたたかいものが触れた。その直後、頭に同じようなぬくもりが優しく私を包み込む。


(……え?)


 心地よいぬくもりが、私の頭を撫でている。この優しい手は鬼島のものだ。目を開けようとしたが、もう意識はまどろんでいて、鬼島の真意を聞きたかったのに、できなかった。


 次に目覚めた時、側にいたのは鬼島ではなかった。


「野々宮さんっ! 大丈夫ですか?」


 ふわふわの巻き髪を揺らしながら、志野が声をかけてきた。その後ろには高岡が心配そうな顔をして立っている。


「あ、うん、大丈夫。少し眠ったら、随分楽になったから……」


「それはよかったです」


 と、高岡がほっと息を吐く。そして、志野もにっこり笑う。


「でもびっくりしましたよ~。野々宮さんが倒れた途端、あの鬼島さんが血相変えて駆け付けるんですもん。あげく、お姫様抱っこで運んでいくんですもん。野々宮さんって、鬼島さんと何かあるんですか?」


「いやいやいや、ない! 何もないですから!」


 志野が探るような笑顔を向けてきて、私は全力で否定した。言えるはずがない。

 十年前、鬼島の判断で母と離れることになり、その決定が結果的に母の精神を崩壊させ、私は母の死を目前にした。そして、もう何も信じられなくなり、すべてを失った私に生きるための言葉をかけてくれたのもまた鬼島で、私は鬼島に憧れて裁判官を目指すようになったにも関わらず、その憧れの存在に下僕扱いされている……などということは、口が裂けても言えない!


「本当ですか? 鬼教官があんなに取り乱す姿、初めて見ましたよ?」


 高岡までもが、私と鬼島の関係に興味を抱いている。教官でありながら、生徒の前でなんて行動をとっているんだ。

 暇つぶしの悪ふざけが公になれば、鬼島の裁判官としての地位は地に落ちるというのに。


(でも、本気で心配してくれてたんだ……)


 そういえば、寝不足ということもすぐに見破られてしまったし、倒れる直前に意味深な言葉を聞いた気がする。もう半分夢の中にいた私には、その言葉を思い出すことができない。しかし、これ以上鬼島の迷惑になる訳にはいかない。クラスのみんなの前で私を抱きかかえて行ったなら、今志野が言ったような噂も流れてしまうだろう。それだけは、阻止せねばならない。


「私は、一方的に鬼島教官に憧れてるけど、向こうは何とも思ってないと思うから……それに、誰が倒れていたとしても、あの人は平等に心配すると思うよ」


 そうだ。私だけが特別であるはずがない。

 下僕、という点では特別なのかもしれないが、鬼島は私をうまくコントロールしたいがために言っているだけにすぎないだろう。そのことに胸が痛むのは、自分を特別視してほしいという欲求からではなく、利用されていることに腹が立っているからだと思い込むことにする。


「そういう風には見えなかったですけど、あの鬼教官に近づける人は早々いないので、野々宮さんはすごいですね」


 高岡には、なんだか斜め上の方向で感心されてしまった。反対に、志野はまだ納得できていないような表情を浮かべている。


「う~ん、絶対何かあると思ったんですけど。あ、でも、野々宮さんと鬼島さんに何もないなら、私が狙っても問題ないですか? 吉本さんも素敵なんですけど、なんだか軽い気がして……」


「えっ……いや、鬼島教官はやめといた方がいい、と思うよ。だって、あの人鬼教官だし、眼光で人殺せそうだし、顔はそりゃあ整ってるかもしれないけど、口悪いしデリカシーないし……」


 と、鬼島の悪口を言いつらねているうちに、二人の視線が私に注がれていることに気付く。喋り過ぎた、と思った時にはもう遅い。


「野々宮さん、やっぱり鬼島教官と親しいですよね?」


 冷静に、高岡が私をじっと見る。


「ほんっとうに親しくないですって!」


「むきになって否定するところがますます怪しいですねぇ」


 志野がにやにやと楽しそうに笑う。全力で否定することで、墓穴を掘ってしまった。


「でも、鬼島さんって惚れた女には弱そうじゃないですか? そのギャップに萌えるというか。あ~でも、Sっ気を出されてもときめいちゃうかも……」


「志野さんは、なんだか平和ですね」


「え? どうしてですか~。やっぱり女に生まれた限り恋してドキドキしたいじゃないですか! 私達、まだまだ若いんですからね! でも、司法修習を終えたら、仕事に追われてそれどころじゃなくなるって聞くし、今のうちにいい人見つけないと!」


 熱く語る志野を呆然と見つめながら、私の頭の中には鬼島の姿が浮かんでしまい、慌てて消した。高岡も私と同じくそこまで恋愛に夢中になるようなタイプではないらしく、適当に頷きながら聞き流していた。


「それにしても、どうやって鬼島さんに近づけばいいんだろう」


 泥棒に襲われているところを運よく助けられて、運悪く家の鍵を落としたら、お近づきになれるよ! なんて言えるはずもなく、私は微笑むだけにとどめた。


「あ、これ、今日の課題です」


 いきなり現実問題を目の前にドンと置かれ、私の笑顔は固まった。そうだ、鬼島の授業で倒れてからずっと寝ていたのだ。大切な授業の時間を寝て過ごしてしまった。なんということだろう。夢が遠ざかっていく気がして、私は青ざめる。


「大丈夫です、わからないところがあれば私でよければ手伝いますから」


 そう言って微笑む高岡が天使に見えた。私は涙ぐんで高岡に礼を言う。


「これ、ノートのコピーです」


 志野が紙の束を手渡してくれる。若くて恋愛に夢中になりがちな志野だが、さすが現役合格しているだけあってノートはきれいにまとめられていた。


「二人とも、ありがとう!」


 私は二人の友人にせいっぱいの感謝を伝えた。

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