第14話 彼女との関係
抱えたその身体は小刻みに震えていて、握ったその手は何かにすがるように強く握り返してきた。
閉じられた瞳からは涙がこぼれ、苦しそうにあえぎながら、時折「お母さん」とうわ言を零す。
野々宮茉里を悪夢から救い出したくて、鬼島は握った手を優しく包み込み、「大丈夫だ」と囁き続けた。
「野々宮さん、どう?」
ふいに、後ろから声をかけられた。
声の主は、同じクラス担当の吉本だった。女性受けしそうな優しい笑顔を浮かべた吉本は、横たわる野々宮とその手を握る鬼島を見て、驚きに目を見開いた。そして、にやにやと目を細める。
「あれれ? 鬼島さんって女の子に興味ないのかと思ってましたけど、そういうことするんですね。付き合ってるんですか?」
口元に手を当て、面白がって聞いてくる吉本にイラっとし、鬼島は鋭い視線を向ける。しかし、それすらも野々宮を独り占めしたいがための行動だと解釈され、ますます吉本はにやにやして近づいて来た。
「野々宮さんって、真面目女子! って感じで攻略難しそうですけど、一体どんな手を使ったんですか? 普段、あんまり目立つような子じゃないから目を付けてなかったけど、意外とかわいいんですねぇ」
意外と、は余計だ。
立ち去れオーラ全開でも立ち去る様子のない吉本に鬼島はうんざりする。
吉本は三十四歳の鬼島より三つ年上で、人当りが良く、誰からも好かれる。女性にモテることを自覚した上で、女性に近づく。実務家ということで女性の警戒心は薄れ、その甘いマスクで女性の心を虜にする。そんなモテる女好きの吉本が、ようやく落ち着いた野々宮の寝顔を覗き込む。せっかく吉本に目を付けられていなかったと言うのに、興味を持たれてしまった。
ここで鬼島が否定すれば、少しは吉本も引くだろうか。眠っている野々宮にとって吉本に目を付けられるのと、自分と付き合っていることにするのと、どちらが良いのだろうか。そこまで考えて、頭を横にふった。
(いやいやいや、何で俺が吉本を警戒してるんだ……仕事に関係のない色恋沙汰など、どうでもいいことだろ)
今すぐにでも野々宮の手を離し、野々宮とは何の関係もないと伝えればいい。野々宮に必要以上に近づかないようにする、と決めたばかりだ。
野々宮のことは、教官として見守る。真面目で勉強熱心な野々宮は、誰かが止めなければ頑張り過ぎるところがある。目標に向かってがむしゃらに進んでいく姿は微笑ましいが、見ていて危なっかしい。
彼女の心が壊れた瞬間を見てしまったから、尚更目が離せない。
野々宮の母が死に、独りになってしまった彼女を生かすため、鬼島は母方の親戚を探した。母親のように暴力を振るったりしない、優しくて野々宮を受け入れてくれる親戚を。そして、母方の従姉妹に引き取られ、のどかな田舎で暮らすようになった。定期的に児童相談所の職員が訪問し、高校に上がる頃にはもう訪問の必要がないくらいに彼女は回復していた。バイトもしながら、毎日勉学にも励んでいる、と。その話を聞いて、鬼島がどれだけ嬉しかったか。
そして今、どんな思いでここまで歩んできたのかは知らないが、野々宮は鬼島と同じ裁判官を目指している。真っ直ぐな瞳で、裁判官になってみせると鬼島に宣言した。鬼島は彼女に何もできなかった。それなのに、鬼島に尊敬の眼差しを向けてくる。影ながら見守っていたが、高校卒業を見届けてからは、もう関わらないことを決めた。だから、まさか自分と同じ舞台にやってくるとは思っていなかった。このまま自分のことなど忘れて、前向きに生きてくれればそれでいい、と。
(だから、構いたくなるのか……)
もう会うことはないと心のどこかで思っていたから。
ずっと、救えなかったことを悔いていたから。
今度こそ、野々宮を泣かせることはしたくないと思ったから。
変わり続けていくこの世界で、信じられるものを見つけてほしいから。
「え~っと、鬼島さん? 僕がいるのに完全に二人の世界作っちゃってます? まあ野々宮さんは寝てるけど」
眠る野々宮の顔をじっと見つめていた鬼島の耳に、吉本の声が遠慮がちに聞こえてきた。完全に吉本を無視していた。というか、存在を忘れていた。しかし、相手にするのも面倒だ。
「心配して来たんじゃないなら帰ってもらえますか?」
穏やかに帰ってもらおうと口を開いたにも関わらず、吉本は鬼島の顔を見ておろおろしている。
「え、冗談だったのに、本当に鬼島さんこの子と付き合ってるんだ」
どうしてそういう解釈になるのか、鬼島には理解できない。
「何でそうなるんですか。別になんでも、な……」
鬼島が無表情で否定の言葉を述べようとした時、握っていた野々宮の手にぎゅっと力が込められた。意識が戻る、そう直感し、鬼島は慌てて手を離した。
「……あ、れ。ここ、どこ?」
「野々宮さん、気が付いた? ここは保健室だよ。教室で急に倒れるからびっくりしたよ」
まだぼんやりしている野々宮に状況を伝えたのは、笑顔の吉本だった。
「え、あ、すいません! 私、御迷惑を……」
勢いよく起き上がり、野々宮が吉本に頭を下げる。そして、最も近い場所に鬼島がいることを認識して、彼女は固まった。
「あ、ちなみに野々宮さんをここまで運んだのは鬼島さんだよ。随分心配してたみたいで、さっきまでは手も握ってたんだけど……」
「余計なこと言わないでもらえます?」
ひと睨みしても、吉本はへらりと笑うだけだ。
鬼島が手を握って側にいたなど、さぞ気分が悪くなっただろう、と野々宮を見ると、何故かその顔は真っ赤になっていた。熱でもあるのか、ととっさに額に手を当てる。
「熱は、ないようだな。まだ気分が優れないか?」
頬を赤く染めて俯く野々宮の顔を覗きこむと、ますます彼女の顔は赤くなった。
「あ~、もしかして鬼島さん天然もの? 自覚なし? 嫌だなぁ、自分の容姿を正しく理解していないイケメンって……」
ぶつぶつと愚痴のようにこぼす吉本の言葉の意味が分からず、ただただ首を傾げる。しかし、吉本の言葉に野々宮も頷いていて、ますます訳が分からない。
「二人は、まだまだ発展途上なのかなぁ。修習でこんなに面白いものが見れるなんて、これからが楽しみだよ」
また意味の分からない言葉を残して、吉本が去って行った。
「何なんだ、あの人は。お前はもう少しベッドで休んでろ。寝不足だろ?」
溜息を吐いて、野々宮を見ると、少しびくつきながらも首を横にふった。休め、という命令に逆らうつもりらしい。
「お前は俺の下僕だと言っただろう。黙って従え。ったく、なんで自分の家に帰れたくせに寝不足なんだよ」
「勉強、していたので」
いつもなら強く反発してきそうなのに、倒れて少し弱っているのか、野々宮の声は小さかった。それとも、自分に脅えているのかもしれない。
「ほら、さっさと寝ろ」
起きていた野々宮の身体を無理矢理寝かせ、眠るように圧力をかけた。しっかりかけ布団までかけてやったのに、野々宮は再び起き出そうとする。それを抑えつけていると、野々宮の弱々しい訴えが耳に届いた。
「……でも、ようやく、鬼島教官と二人きりになれ、たのに……」
意味が分からない。
確かに、ここ数日野々宮に必要以上に関わらない、と決めていたから、授業でしか顔を合わせていなかった。他の学生たちとも、とくに親しく話す方ではないから二人きりになることもない。野々宮にとっても、下僕だなんだと馬鹿なことを言う男に関わるよりも、他に大事なことがあるだろう。
それなのに、野々宮は自分と二人きりになりたかったというのか。
潤んだ瞳で、可愛らしく、二人きりになれたなどと言われれば、いくら品行方正な人間像を目指す鬼島とて冷静さを保つことは難しい。
一体、野々宮は自分に何の用があったのだろう。
鬼教官といわれる鬼島の心に少しだけ淡い期待が生まれた時、野々宮はベッドの上で綺麗な土下座を披露した。
「本当に、申し訳ありませんでしたぁっ!」
野々宮茉莉の見事な謝罪に、鬼島の肩ががっくりと落ちたことは言うまでもない。
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