第8話 少女への誓い
「いつも、あいつは俺から逃げていく……」
野々宮茉里が去って行った玄関を見つめ、鬼島は小さく息を吐いた。逃げられる原因を作ったのは自分自身だ。反応がおもしろくて、つい無茶なことを要求してしまった。
怖がらせたくないはずなのに、とことん怯えさせたいとも思う。
野々宮が鬼島を見る瞳には、恐怖や恨みではなく、憧れが浮かんでいた。
そのことに驚愕したのは他でもない、鬼島だった。
野々宮には、嫌われていると思っていた。しかし、彼女は鬼島と同じ裁判官を目指している。
その上、鬼島をきらきらした純粋な瞳で見つめてくる。その眼差しは、嫌っている男に対するものではなかった。
だから、鬼島は彼女の記憶から自分が消されているのだと悟った。
(忘れた方がいい、あんな記憶。だが、俺は忘れてはいけない)
国家公務員として、裁判官として、一人の人間として。
まさか司法修習で再会するとは思わなかったが、相手が覚えていないのなら再会とは言わないだろう。
鬼島は、忘れている野々宮のために何も知らないふりをした。それに、彼女の存在を認識すると、講義内容に集中できなくなってしまう。彼女がどれほどの悲しみと痛みを乗り越えて頑張ってきたのかが分かるから、めちゃくちゃに甘やかしてやりたくなるのだ。よく鬼だと言われる自分が、もし野々宮にだけ優しく笑いかけたりでもしたら、不審に思われる。
そして、噂好きの吉本に確実にからかわれる。野々宮自身にも、変に思われるだろう。だから、あえて視界に入れないようにした。
そうして避け続けるはずが、何故か野々宮を襲った泥棒を捕まえ、家の鍵をなくした彼女を自分の家に招き入れ、下僕にするという奇妙なことになってしまった。
下僕になれと命じたのは、自分自身への牽制と、野々宮に対する牽制だった。
自分が目指す職業についている鬼島に憧れを抱くのは分かるが、その純粋な憧れは鬼島の罪悪感を増長させる。それに、野々宮に憧れの眼差しを向けられると、自分の感情を抑えられそうにない。抱きしめて、よく頑張ったなと褒めてやりたいし、何かあったらいつでも頼るように言ってやりたい。しかし、初対面であるはずの鬼島が、野々宮に対してそんなことをすれば、嫌でも過去を思い出させるきっかけとなる。
だったら、幻滅させて、嫌われればいい。
そうすれば、自分から近づいてくることはないだろう。鬼島が最低な男だと気づけば、遠慮することもない。
それでも、必要以上に怖がらせたくはなかった。
修習一日目で泥棒に遭い、家にも帰れないという最悪な状況に置かれた彼女を、ゆっくり休ませてあげたかった。勉強熱心な野々宮のために、できる限りのことをしてあげたかった。
今更優しくしても遅いことは分かっていた。こんなのはただの自分勝手な償いだと。
かつて野々宮の心を追い詰め、傷つけたのは自分だ。
その十字架を背負って生きていくつもりだったのに、鬼島の前に彼女は再び現れた。関わらない、ということもできたが、放っておけなかった。
それに、許しを請いたかったのかもしれない。あの日、野々宮を救ってやれなかったことへの。
『君は、何を信じる?』
愛していた者に傷つけられ、信じていたものを失った十五歳の少女。
泣き喚く少女に、鬼島は問うた。
少女は何も答えなかった。しかし、その瞳から溢れる涙はぴたりと止まっていた。そして、その瞳の奥には空虚さだけが残っていた。
少女の絶望を目の当たりにして、鬼島は決めたのだ。
たとえ一瞬だけでもいい。少女の光になろう、と。
『この世界を変えることは難しい。でも、自分を変えることならできるかもしれない。俺は、これから変わる。だから、君も変われる。俺を信じろ』
鬼島の真っ直ぐな視線に、少女はびくりと身体を揺らし、再び目に涙を浮かべて叫んだ。
『どうして、変わらなきゃいけないの? 私は幸せだったのに……返して、お母さんを返してよ!!』
もう何も信じられない。信じたくない。
現実を涙で隠し、そのまま幸せだった時に居座ろうとする少女を、鬼島はそっと抱きしめた。しかし、少女の敵である鬼島が受け入れられるはずもなく、強く抵抗された。
何ものをも寄せ付けない、傷だらけの小さな身体。
あの頃の鬼島には、どうすることもできなかった。
――――彼女は今、何を信じて生きているのだろうか。
「その答えを、俺が知る権利はないか」
忘れたことはなかった。いつも鬼島の胸には、少女への誓いがあった。
信じるものを失った少女の道しるべになるために、努力した。
少女が忘れてしまっても、自分だけは忘れないでいよう。
そしていつか再び少女に会うことができたなら、今度は何があっても少女の力になろう、と。
「俺にできることは、修習を無事に終えさせることだ」
一方的な誓いに、彼女を巻き込む訳にはいかない。
教官として、自分は彼女を見守り、支えることができる。それだけで、十分ではないか。余計なことを思い出させず、前を向く彼女を応援すればいい。
それなのに、どうしてこんなにも胸が締め付けられるのだろう。
自分から嫌われるように振る舞っておいて、鬼島はついさっきまで彼女がいた場所から目を離すことができなかった。
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