第7話 淡い期待

「ダイエットするなら、朝食は抜かない方がいい」


 私の作った朝食をきれいに食べ終え、鬼島が表情を変えずに言った。ダイエットなどするつもりはない、今のところは。しかし、あえて鬼島が私にダイエットなどという単語を出したのは、私がまだ何も食べていないからだ。


「私はダイエットなんてしていません!」


 私は洗い物をしながらむきになって言った。鬼島の家のキッチンは対面式になっており、リビングのテーブルに座って私の淹れた珈琲を飲む鬼島の姿がよく見える。鬼島に教わってから改めて淹れた珈琲は、まずまずの出来だと思う。白い泡に包まれたスポンジをぎゅっと握りながら、私は鬼島を睨みつけていた。

 主人と下僕、などと言われた後に、鬼島と一緒に朝食をとるなんて無理だ。私が下僕である以上、主人は鬼島なのだ。普通、下僕は主人と同じテーブルで食事などしない。半ばやけになっている私は、唇をむむぅっと引き結ぶ。

 こっちは気にしているというのに、鬼島は何事もなかったような顔で座っている。なんだか居たたまれない。

 確かにお腹は空いている。夜中まで課題をして、朝早く起きて朝食を用意して、もう胃袋の中はからっぽだ。しかし、一食ぐらい抜いても問題ない。我慢できる。それに、早めにここを出て、コンビニに寄って何か食べればいい話だ。鬼島が帰してくれれば、だが。


「ダイエットしていないなら、朝食はしっかり食え。修習中、頭が回らなくなるぞ」


 正論を武器に厳しい眼差しを向けられて、私は何も言い返せなかった。大人しく鬼島の言う通りに朝食を食べよう、と思った時、追い打ちをかけるような鬼島の言葉が私の耳に届いた。


「……だが、少しは体型を気にした方がいい。昨日お前を背負ったせいで背中が痛い。今以上に増えればさすがの俺でも背負えなくなだろうな」


 私は口を開きかけたまま硬直し、おおかた洗っていた皿を落としそうになってしまった。

 鬼島には感謝しているし、憧れてもいる。しかし、それとこれとはまた別問題だ。年頃の乙女に向かって体型の話題を振るなんて、しかも遠回しに体重が重いと伝えてくるなんて! こんなことならあの時意地でも自力で歩けばよかった……そう後悔してももう遅い。

 それにしても、鬼島は女心がまるでわかっていない。

 年下の女、しかも自分の教え子を捕まえて下僕だのダイエットしろだの、本当に最低な男だ。女性に対する物言いとして、どれも不適切極まりない。


「し、失礼なこと言わないでください! これでも私……」


「なんだ?」


 言葉に詰まった私に、鬼島の視線が突き刺さる。めちゃくちゃ怖い。あまりに顔が整い過ぎているために、余計に恐怖を倍増させる。しかし、これだけは言っておかなければならないのだ。乙女として、絶対に譲ることはできない。


「これでも私、標準体型なんですからっ!!」


 深刻な顔で、真面目に叫んだ私の顔を数秒見つめた後、鬼島はぶふっと息を噴出した。そして、歯を見せて笑っている。初日にして、絶対に笑わないだろうと囁かれていた鬼教官が、私の目の前で笑っている。


「は、ははは……いやぁ、お前おもしろい。なぁ、お前も笑え」


 これは褒められているのだろうか。否、絶対に馬鹿にされているだけだ。この状況で、笑えと言われても笑えない。私は曖昧に頷くにとどめた。決して笑うものか! 私は中肉中背だが、決してデブではないはずなのだ。そう、BMIだって標準体型だと示していた。私は何も間違ったことは言っていない。それなのに、何故こんなにも爆笑されてしまったのだろうか。

 そう考えていると、鬼島が何かを思いついたようにはっと私を見た。

 今度は一体何を言い出すのだろう、と私は身構える。


「よし、決めた。今日から一日一回以上俺を笑わせてみろ」


 鬼島はいつもの冷たい表情に戻って、真面目なトーンで冗談みたいなことを言ってみせた。

 さすがにもう、鬼島がこの手の冗談を言う時は半分以上本気なのだと気づいてはいるが、私が気になったのは命令についてではなかった。


「え、あの、今日からって……?」


「今日から、修習を終えるまでだ」


 当然だろう、という顔で頷かれても、はいそうですかと納得できるはずがない。私がまた反論しようとすると、その前に鬼島が口を開いた。


「まだ自覚がないようだな。お前は俺の下僕だ。ただ俺という法に従って動けばいいんだよ」


 なんて横暴な言葉だろう。

 自信満々に言ってみせる鬼島の姿に思わず見惚れそうになるが、その内容には全く同意できない。

 頷いたのは自分、鬼島を頼ったのも自分、お礼をしたいと思ったのも自分……すべては私がまいた種である。とはいえ、憧れていた鬼島のこんな本性知りたくなかった。

 鬼教官としての鬼島ならば受け入れられたのに、無茶な要求をして女性を困らせて楽しんでいる鬼島は受け入れられない。


(だって、どうせ鬼島さんは私のことなんて覚えていない……)


 鬼島に対して強い思い入れがあるのは、私だけだ。

 鬼島にとって私はただの修習生で、暇つぶしの遊び相手に過ぎない。

 それに、もし私のことを覚えているのなら、鬼島は私に近づいたりしない。

 すべてが崩れ落ちたあの日、私は鬼島のことを責めたて、一方的な怒りをぶつけたのだから。

 一人前になって、出会いたかった。

 あの日のことを謝りたかった。

 鬼島とこんなヘンテコな関係になる前に、ちゃんと伝えていればよかった。

 迷惑しかかけない下僕の私が今更何を言っても、きっと鬼島の心には届かない。

 むきになって怒るのも馬鹿らしくなって、私はただ黙ってうつむいていた。


「どうした? 何も言い返さないのか?」


 そう言った鬼島の表情は下を向いている私には確認できなかったけれど、その声はひどく優しい響きを持っていた。

 鬼島は言い返してほしかったのだろうか。

 下僕だなんだと挑発するような無茶苦茶なことばかり言うのは、私に反論してほしいからだろうか。

 もしかして、あの時のように……? そう考えて、私はいやいやいや、と頭を振る。あり得ない。もう十年も経つ。覚えていてほしいと願っていたから、そんな都合のいい解釈をしてしまうのだ。

 じっと黙り込む私を不審に思ったのか、鬼島の気配が近づいてくる。

 今は駄目だ。絶対、おかしな顔をしている。どういう訳か、胸が苦しい。目頭が熱い。鬼島に泣き顔を見られたくない。

 手に持っていた皿を放り出して、私は慌ててキッチンから出る。鬼島がキッチンに来てしまえば、きっと逃げられない。


「私なんかが、何を言ったって鬼島さん相手に勝てるはずないじゃありませんか!」

 

 私は鬼島の顔をよく見もせず、それだけ叫んで玄関へと走った。 

 すぐに出発できるよう、荷物は玄関に準備しておいたのだ。

 どのみち、私と鬼島が一緒に修習所に行くことは避けた方がいい。予定とは違う出発だが、問題はない。

 今日の修習が、少しだけ気まずくなるだけだ。

 鬼島が私のことを下僕だなんだと言い出したのは、私のためだろう。

 ああいう風に言わなければ、私が意地を張って何も食べないと思ったから。

 ああいう風に言わなければ、私が笑わないと思ったから。

 心から笑うことは、あの日以来なかった。その代わりに、作り笑いばかりがうまくなってしまった。

 どうして笑わせろなんて鬼島が言ったのかはわからないが、敏感なあの人には気づかれてしまったのだろう。私が心から笑っていないことに。

 本当は、分かっていた。鬼島が本気ではないことぐらい。

 言葉や表情は冷たくても、その心は優しいのだ。これ以上迷惑はかけたくない。

 靴を履く時、ちらりと後ろを見たが、鬼島は追いかけて来ていなかった。当然だ。私自身、こんなめんどくさい女相手にしたくない。きっと、冷静になれば賢い鬼島は気づくだろう。私のような地味で何のとり得もない女を下僕にするよりも、かわいくて、綺麗な女性を側においておいた方がいい、と。

 本当に大事にしたい相手なら、下僕なんて言い出したりしない。

 結局、誰も私のことを大事に扱ってはくれないのだ。

 信じられるものなど何もない。

 私は前を見て進んできたつもりだったが、あの頃と何も変わっていないのかもしれなかった。

 古傷の痛みを思い出しながら、私は鬼島の家を出た。


「本当に、お世話になりました。ありがとうございます……お邪魔しました」


 私は玄関の扉に向かって頭を下げ、かなり早い時間だが修習所に向かった。

 

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