第二章 知夏
沙奈とは今朝、一言挨拶を交わしたきりだ。昨日の感覚は引きずっていない。フラットに接することができたと思う。
『明日もまた、お話しようね』
昨日の別れ際、沙奈があたしに言ってくれた言葉だ。
そのときは特段気にならなかったけど、家に帰ってから、その意味について少し考えた。
明日って、いつでも声をかけていいよって意味?
それとも、昨日と同じ時間、つまり放課後になったら二人きりで話そうって意味?
最初は前者の意味かと思って、普通に挨拶した。沙奈も普通に返してくれたが、どこか人目を気にするように周囲に目を向けていた。
その反応から、本当は後者の意味だったんじゃないかと思った。実際、四時限目が終わった今に至るまで、沙奈からの接触はない。「明日」が「いつでも」の意味だとしたら、沙奈のほうから声をかけてきてもおかしくないと思う。
沙奈は独りで過ごすのが好きだ。直接訊いたわけじゃないけど、いつも独りでいるから、きっとそうなのだろう。なにより、似合ってる。
沙奈はあたしと接した結果、周囲から「気軽に声をかけてもいい人物」として認知されてしまうことを危惧した。自分を取り巻く環境が変わってしまうのを避けたかったのではないかと、あたしは睨んでいる。
本当のところは、わからない。
どちらにしろ、こんなのはあまりに些末な問題だ。別にどっちでもいい、もしくはどうでもいいが答えなのだろう。きっと、傍から見れば。
だけど、あたしは当事者だ。
昨日、ようやく第一歩を踏み出すことができた。沙奈と仲良くなるための、最初の一歩を。
このまま順調に事が進んでほしい。
なにもかもうまくいってほしい。
障害はできるだけ取り除きたい。少しも沙奈を傷つけたくない。少しも沙奈に嫌われたくない。
そんな想いが、あたしを必要以上に慎重にさせていた――。
【第二章 知夏】
……そうはいっても、行動しなければなにも始まらない。行動さえすれば、なにかは変わる。それは昨日、あたし自ら証明したことだ。
うん、決めた。今日は沙奈と一緒にごはんを食べよう。
意を決し、あたしは席を立った。
「あれ、サヤ、どうしたの?」
「お弁当食べないのー?」
「あ、ごめんねみんな、今日はほかの子と食べることにしたから」
まさにこれから一緒に食べようとしていたメンバーに、一言断りを入れる。
あたしは普段からこんな感じで、その日の気分で一緒に食べるメンバーを決めている。みんなはいつも決まったグループで固まって食べているから、あたしだけが転々と渡り歩くかたちだ。みんなもやってみればいいのにって常々思う。気分変わって楽しいのに。
「そ、そうなんだ」
「い、いってらっしゃい!」
あたしはお弁当の入った鞄だけ持って、窓際いちばん前の席に向かう。
沙奈は独り、お弁当の包みを広げようとしているところだった。
「よかった、間に合った」
「え……佐谷野さん?」
沙奈は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「あたしが来たのがそんなに意外?」
「だって、いつもみんなと一緒にいるから……お弁当はいいの?」
「ん」
あたしは鞄を持ちあげてみせた。
「一緒に行こ、沙奈」
「え、あの、わたしは……」
沙奈は周囲に視線をさまよわせた。たぶん、どこかのグループに一緒にお邪魔しよう、という意味だと思ったのだろう。
「うん、わかってる。沙奈は本当は独りで静かに食べたいんだよね?」
「え? ……う、うん、そう」
「ちゃんとわかってるから。だから、みんなで食べようとか、そういう空気の読めないことは言わない」
「う、うん……」
「だけど……お願い! 今日はあたしと二人で食べてくれない?」
「二人で?」
「うん、二人きりで」
「……それなら」
こくり、と沙奈はうなずいた。
「よかった! じゃあ、行こ! 早くしないとお昼休み終わっちゃう」
「行くって、どこに?」
「屋上!」
あたしがそう言った直後、一瞬だけ教室がシン……と静まり返った気がしたが、たぶん気のせいだろう。
屋上の重い扉を押し開けると、本格的な夏の到来を予感させる、ほのかに生ぬるさを孕んだ風が流れこんできた。
「ラッキーだよ沙奈、誰もいない」
「うん、ほんとに二人きりだね」
せっかくなのでちょうど中央あたりに陣取り、レジャーシート(教室を出るときクラスメイトから借りた)を広げていると……
「あ……日焼け止め塗ってない」
ぽつりと、沙奈が独り言を漏らした。
「あたし持ってるよ」
あたしは鞄のサイドポケットから日焼け止めを取り出す。鞄ごと持ってきて正解だった。
「手、出して」
「え、うん」
「違う、こう、腕を伸ばす感じで」
「え?」
「あたしが塗ってあげる」
そう言うと、沙奈は内容を即座に理解できなかったのか、数瞬、動きを止め……
「えぇぇぇえええっ!? そんな、いいよ佐谷野さんっ、自分で塗れるからっ!!」
沙奈の今まででいちばん大きな声を、聞いた。
「まぁまぁ、遠慮しないで」
「え、遠慮というか……!」
あたしは右の手のひらにクリームを出して、左手で沙奈の指先を捕まえた。
間髪容れず、あたしは沙奈の白い腕に右手をすべらせる。
「うぁ……これ、なんか……」
沙奈が変な声を出す。
「なんか……かなり、恥ずかしい……」
「そ? あたしはそうでもないけど」
ちなみに嘘だ。右手からはクリームを塗っているにもかかわらず肌のすべすべ感が伝わってくるし、依然指先を掴んだままの左手からは沙奈の体温が伝わってくる。正直、恥ずかしいとかいう次元を通り越して、得体の知れない背徳感のようなものさえ感じている。
「それはっ……佐谷野さんが塗ってる側だからでしょっ……」
「あはは、そうかも」
笑いながら、反対の腕にも満遍なく塗っていく。
「ん……だんだん、慣れてきたかも」
「それはよかった。じゃあ次は……」
あたしは両手にたっぷりとクリームを馴染ませた。
そして。
「ひゃぁ……っ!」
またまた沙奈が変な声をあげる。
「沙奈、じっとしてて」
「だ、だってぇ……!」
あたしは沙奈の細い首筋に、撫で回すように両手を這わせる。
「ひぁ……やぁっ……くすぐったいってばぁ……!」
「さーなー、動くと塗れないよ」
鎖骨のラインに沿って指でなぞる。
「佐谷野さん、絶対わざと意地悪してっ……あはははっ、やだやだ、もうだめ……やめ……!」
「よし、完璧」
さすがにかわいそうになってきたので、解放してあげた。
「完璧、じゃないから……」
沙奈は荒くなった呼吸を整えながら、恨めしげな眼差しをあたしに向けてきた。
本当はとっくに塗り終えていたが、なぜだか手を止められなかったのだ。沙奈の身体には中毒性がある。
「ま、お遊びはここまでにして、そろそろごはんにしよっか!」
あたしは上履きを脱いでシートの上にあがり――次の瞬間。
手首を、沙奈に掴まれた。手の中には、キャップを閉じたばかりの日焼け止め。
ヤバイ、と思ったときにはすでに遅く、いとも簡単に掠め取られてしまった。
「ふふ、仕返し」
沙奈は薄く微笑んだ。こんな状況でも、つい見惚れてしまうほど美しい。
「えっと、沙奈? ごはんに……しない?」
「しない」
即答して、沙奈は手のひらにクリームを押し出した。
今だ、と思ったあたしはとりあえず逃げ出そうと一歩を踏み出し、
「きゃあ!!」
自滅した。
あろうことか、すべって尻餅をついたのだ。
ここぞという場面でドジを踏む……これがあたしの、笑顔に次ぐもう一つのチャームポイントなのだった……。
「だ、大丈夫?」
沙奈の表情から笑みが消え、代わりに本気の心配が浮かんでいる。
「うん、平気平気! いつものことだから!」
せっかくほどよい感じに弛緩した心地よい空気だったのに、自らの手で台無しにしてしまった……。これはもう、元の空気に修復するのは不可能だろうなぁ……。
「そう……よかった。それじゃ」
沙奈はへたりこんだあたしの前に屈むと、そのままあたしを押し倒すように身を乗り出してきた。
「ちょっ……沙奈っ?」
「じっとしてて。うまく塗れないでしょ」
……どうやら、修復可能なようだ。
「……えいっ」
「……っ!」
ひんやりとした感触が、沙奈の両手が、あたしの首元を優しく包みこむ。
その瞬間、ぞくりと。
電流のようなものが背中を駆けあがった。
「こんな感じ……かな」
沙奈の白魚のような繊手が、まるで生き物のように、あたしの首筋を縦横無尽に這い回る。
指が移動するたび、鳥肌が立つ。
だから、絶え間なく鳥肌が立ち続けている。
シートに両手をついて身体を支えた体勢のまま硬直するあたしを、沙奈は好き放題に弄んでいる。
あたしは気の利いたリアクションすら返せずに――ただ、唾を飲みこんだ。
「あれ、もしかして佐谷野さん、全然平気?」
「…………え?」
「首、くすぐったくない?」
「うん……平気、かな」
「なんか、負けた気分……」
冗談めかして言う沙奈にも、曖昧な相槌を打つことしかできなかった……。
放課後になってもあたしと沙奈は席を立たなかったので、自然、教室には二人だけが残った。
沙奈は入学してからずっとそうであったように、今日も独りで本を読んでいる。
本を読んではいるけれど、なんとなく、今日の沙奈はあたしが声をかけるのを待ってくれているような気がした。これはもちろん、多分に願望が混ざっていると思う。
あたしは席を立ち、昨日よりは幾分か気軽に声をかけた。
「やっほ、沙奈」
「……ん」
あたしが声をかけると沙奈はすぐに本を閉じ、眼鏡を外した。……そんな対応が地味に、いやかなりうれしい。本当に、待ってくれてたのかな。
「沙奈、日焼けは大丈夫? 日焼け止めちゃんと効いてる?」
「あ、うん。おかげさまで」
「よかった、あたしが屋上に連れ出したせいで焼けちゃったら、どうしようかと思った。せっかくの美白なのに」
「平気。わたし元々、日に当たっても赤くなるだけで焼けない体質だから」
「それでそんなに色白なの?」
「……かも」
「そうなんだ」
「…………」
「…………」
気軽に声をかけられることと、話題があるかどうかは、また別の話だ。
あたしと沙奈の共通の話題といえば、日焼け止めくらいのものだが……それももう限界だろう。
沙奈のことがもっと知りたいと、昨日あたしは言った。
だからこれからは、そういう時間だ。
より深く沙奈のことを知るために、あたしは口を開こうとして――
「ねぇ……佐谷野さん」
沙奈に、先を越された。
「うん、なぁに?」
「ひとつだけ……訊いてもいい?」
「うん、なんでも訊いて」
沙奈の目は、真剣だった。
「佐谷野さんは、どうして、わたしに構ってくれるの?」
「……えっ?」
「教えて」
一瞬、心の奥がざわついた気がした。
どうしてあたしは、沙奈に構うのか。
その理由。
それは、
「……仲良くなりたいから、だよ」
「どうして? なんでわたしなの?」
「……なんで、って言われても。沙奈のことが、なんとなく気になって……みたいな」
「ほら、佐谷野さんって、友達多いよね。別にわたしじゃなくても、ほかの子たちがいればそれでいいって……そう思うでしょ?」
この問いには、自信を持って即答することができた。
「ううん、思わない。沙奈じゃなきゃ嫌。ほかの誰かじゃなくて、あたしは沙奈と仲良くなりたいの」
「……本当?」
「本当」
「……絶対?」
「絶対」
「……そっか」
沙奈は一度、照れたように視線を逸らし……もう一度、真正面からあたしを見据えた。
「答えてくれて、ありがとう」
そして沙奈は、今日いちばんの笑顔で、言った。
「これからも、仲良くしてね――知夏」
この瞬間、あたしは自覚した。
自覚せざるをえなくなった。
「知夏……」
「あ……嫌だった?」
「ううん、嫌じゃない。ただ、新鮮だなって」
きっと本当は、心のどこかで気づいていた。
だけど気づかないふりをしていた。
常識とか、世間体とか、女の子同士だからとか。そういうノイズが、本心を覆い隠していた。
「新鮮なんだ?」
「だってみんなからはサヤって呼ばれてるし、朱美……親友からはちーだし、両親に至ってはちーちゃんだよ?」
「ふふ、ちーちゃんも可愛くていいね。今度からわたしも」
「やめて! それだけは勘弁して!」
「可愛いのに……」
けれど、沙奈が笑顔であたしの名前を呼んだ瞬間。
ノイズはいとも容易く霧散して。
今は、剥き出しの本心だけが見えている。
「そんなことよりさ、なんか違うこと話さない?」
「ん、いいよ。なに話そっか」
「えっと、それじゃあまずは……」
うん、もう……認めよう。
これ以上自分の心に嘘をつくのは、耐えられそうにない。
だって、あたしは。
あたしは、沙奈のことが――
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