ブルーエッジ

アイビー

第1話


 

 目をさまして▒眠ってはいけない。▒きみの、

 

 

 そらさないで▒みて▒▒もうすぐやってくる、から、今はまだ早い▒、

 

 

 お願いだから▒いって▒信じているよ、重なったじかんは戻らない。▒▒不確かな、巻き戻して

 

 

 

 ▒おい、で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 がばりと掛け布団を跳ね除けてハイネは簡素なベットから上半身を飛び跳ねさせた。心臓が今にも胸を突き破る勢いで早鐘を打ち、寝巻きの下には嫌な汗をかいている。

 しっとりと額に張り付いた、よく色素が薄いと人から言われる茶色の前髪をかき分けて、一度、自分を落ち着かせるように大きくため息をついた。

 恐ろしい夢だとは不思議と思わない。けれど、どこか焦燥を掻き立て、早くなにかをどうにかせねばならないと、謎の声に急かされるような夢。声の主は女か男か、何を言われたのか、起きた瞬間は知っているような気がするのだけれど、いつも目が覚める安堵と共に空気が抜けていくように忘れてしまう。

 手元の水時計を見れば、ぷかりと浮かんでは青白く光って消えていく気泡が日の昇り始める時間帯であることを示していた。起きるには些か早いけれど、目を閉じればもう一度あの夢を見なければいけない気がして自然と意識が覚醒してくる。

 仕方なくベットから片足を下ろして、緩慢な動作でもそもそと起きる準備を始めた。

 確か今日は東方から巷で人気のサーカス団が来る予定があったはずだ。あまり大きいとはいえない自分の街にやってきてくれるのが嬉しくて、楽しみで、昨日はよく寝付けなかったんだっけ、と昨晩の記憶の糸をぼんやりと手繰り寄せる。

 

 三日前親指のところに穴が空いてしまい、不器用ながらも何とか縫い付けた靴下を最後に履き終えて、ハイネは隣の部屋でまだ眠っている祖父を起こさないよう慎重に木製の扉を開けて外にでた。

 夏の終わりの早朝の風は少しだけ暖かさを残していて、吹き抜けの肌触りがいい。日は昇ってはいるが、早すぎて起きている人はいないのだろう。いつも活気のある街はまだ閑散としていた。

 両親を早くに亡くしたハイネを拾ってくれた祖父の家は小さいながらも丈夫で、2人で暮らすには充分すぎるほどだった。家の裏にあるこぢんまりとした畑も、素朴な生活を愛した祖父が丹精込めて世話しているものだ。

 その祖父の畑に足を運び、一足早い整備を始める。春に植えたホウセンカブが既に実をたわわに実らせているのを見つけて、自然と顔がほころぶ。収穫して、今日の朝御飯のスープに入れようと思い立ち心が躍った。

 

 「ハイネ」

 どれくらい作業に没頭していただろうか。ふと名前を呼ばれ、ハイネは農作業で泥のついた顔をあげた。向かいの柵に両腕をのせ、苦笑している長身の青年と目が合う。

 「チカ!おはよ!」

 肩下まで伸びた群青色の髪を一つに結い上げ、綺麗に整ったアーモンドのような形をしたグレーの瞳を持つ彼は独特の雰囲気を醸しており、最初に会った人間に強く印象づける出で立ちをしている。美形と断言しても、言い過ぎではないだろう。あるべき位置にあるべきパーツが納まっているといった感じだった。

 マサチカという名前を短くチカ、と呼ぶのがハイネの常套手段で、自分で考えたながらも結構気に入っていた。

 普段はピリピリと気を張って近寄り難いと定評のあるマサチカもハイネの前では幾分か周囲に纏った空気が緩む。

 冷静沈着で他人に気を許すことがないように思われるマサチカをここまで懐柔するとは、さすがは天然人タラシのハイネだ、と井戸端で噂されている事を、自分のことに疎いハイネは知らない。

 

 「今日は随分と早いな、いつからやってる?」

 「えー、どれくらいだろ。一刻半くらい前かなぁ、夢見が悪くてさ」

 そう言ってハイネは度々悩まされる奇妙な夢について話した。誰の声なのかはわからない、そもそも言葉が支離滅裂すぎて意味のある夢なのかもわからない、とも。

 「大変だな。―――俺もたまに見るよ、気色の悪い夢。疲れてると、特にさ」

 マサチカが目を細めてどこともいえない方向に視線を投げかけた。まるで、遥か彼方遠くの故郷を視ようとしているかのようだ。

 鍛冶場で住み込み作業員として働くマサチカはこの街の生まれではなく、八年前にふらりとひとりでやって来た浮浪者だった。まだ十一歳だった彼が、服と言えるか怪しいボロキレを身にまとい、傷だらけで、しかししっかりとした足取りで歩いていたのを覚えている。

 その時はこんなに友好的ではなく、むき出しの敵意を隠そうともしていなかった。鎖のついていない獰猛な大型犬のような狂気が彼の周囲を渦巻いていたように思う。それが今や街の鍛冶場で生真面目に黙々と働く大人びた青年になっていることにハイネはこみ上げる笑いを抑えられなかった。何が可笑しいんだと狐につままれたような顔をしたマサチカがもっとおかしくて、腹を抱えて笑い出した。

 その瞬間だった。一瞬ハイネはマサチカとの間で光が弾けたのかと錯覚した。何が起きたのか、脳の処理が追いつかない。それはマサチカも同じだったらしく、切れ長の目を珍しく見開いてぱちくりと瞬きを繰り返している。

 実際は光が弾けたわけではなく、“なにか白い物体”が目の前に落下してきたらしかった。もうもうと砂埃をあげて着弾したそこは、

 「あっ!!あぁーー!!!じいちゃんの畑が!!!」

 この事態が叫ばずにいられようか、祖父の畑は見事に白い物体の下敷きになっていた。

 物体の正体を捉えたのかマサチカの動きは早く、こなれた俊敏さで鍛冶場作業員の寮とハイネの家の間の柵を飛び越えると白い物体を荒々しく掴み引き上げた。

 え、と思わず素直な驚きが口をついてでる。

 「おん、なのこ……?」

 「みたいなだな……普通の女じゃないようだが」

 2人はしばし有り得ない、というふうに沈黙して目を見張った。それもそのはず同じ年くらいに思われる彼女の背中には、通常人間についてるはずのないものが、ついていた。

 

 大きく真っ白な、羽が。

 

 

 「……っ、お願い!助けて!!私このままだと殺されちゃう……!!」

 彼女の切羽詰まった悲痛な声で我に返る。

 大通りの方から、何やら大騒ぎしているような喧騒が聞こえてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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