6-9.消えた老人
「アリトラ、何か言いかけなかった?」
スミレのケーキを味わいながら、リコリーが尋ねる。タルトを食べていたアリトラは、それを飲み込んでから口を開いた。
「バルコニーに出るための扉は両開き。なのに右側しか開かれていなかった。どうしてだと思う?」
「閉じた扉の方に魔法陣でも仕込んだのかと思っていたけど」
「もし魔法陣を使ってベルセ老人が落ちたのを誰かに見せたいなら、扉は両開きの方がいいと思う。風圧を使って吹き飛ばす程度なら、何も扉に仕込まなくてもいいわけだし。アタシが考えるに、扉が片方しか開いていなかったのは、もっと物理的な理由だと思う」
「物理的?」
その言葉にリコリーは現場の状況と、不可解な点を頭の中で照らし合わせる。
「……車椅子を押さえるため?」
「そう。列車は何度かカーブを曲がって左右に揺れていた。ストッパーのない車椅子をバルコニーに置いていたら、サロンの中に転がり落ちてしまう。あくまで「誰かが来た時に落ちた」状況を作りたいのに、車椅子だけ転がっていたら不自然」
「うーん、でも横に倒したほうがいいんじゃないのかな、その場合。なんでわざわざ、不安定な状態で放っておかなきゃいけなかったんだろう」
「横倒しだと、踏み台にならないから」
スミレのケーキをフォークに刺したアリトラは、リコリーを見向きもしないで言った。表面をゼラチンで覆われたケーキは、車内の照明を浴びて光っている。
「魔法陣も装置も使わずに、誰かが入ってきたタイミングでバルコニーから人が落ちたように見せる手段は、ただ一つ。自分で飛び降りればいいんだよ」
「自分でって……自殺ってこと?」
「自殺じゃない。さっきも言ったでしょ。「生きている」「ベルセ老人」は誰も見てないんだよ。飛び降りたのがシトラムさんだったとしてもおかしくない」
「ちょっと待って」
リコリーは思い切り眉を寄せて考え込むと、食べかけのレモンタルトをそのまま皿に残してフォークを置く。
「じゃあこう言いたいの? 目撃者がサロンに入ってきたのを見計らって、バルコニーから外に飛び降りたって。無茶だよ。だってそんなことしたら……」
「死んじゃうよね。でも仮に飛び降りてもすぐに安全な場所に移動できるものが用意してあったとしたら?」
「転移魔法陣のことを言っているなら、無理だよ。転移魔法を使うには開始点と終了点を予め作成しなきゃいけないんだ。動いている列車では……」
反論を途中まで口にしたリコリーは、アリトラの落ち着いた様子を見て思考を切り替える。「その場から消えた」と思い込むからややこしいのであって、ただ姿を隠すだけなら、さほど難しいことではない。
「……扉を半分閉じていたのは、もしかして」
「飛び降りたように見せかける舞台演出かな。右から左に飛び降りれば、目撃者からはその後どうなったかなんて見えないし」
目撃者の女性は「左足が見えた」と証言をした。左側に傾くように飛んだとすれば、体が横向きになるので右足よりも左足のほうがよく見える。
手すりを乗り越えながら左側に「落ちた」ように見せかけた後、死角となる扉の陰で手すりにしがみついていたとしたら、室内からはバルコニーに出ない限りは気付かれない。
「でも一歩間違えたら大怪我だよ」
「命綱を使えばいい」
「……あのさ、忘れてるかもしれないけど、さっきお祖父様とバルコニーを見た時に、手すりに目立った傷なんてなかったじゃないか。第一、命綱を使って飛び降りた後に、それを回収して、更にそこから逃げ出して……なんて出来る?」
当然の疑問に対してアリトラが何か返そうとした時だった。孫二人の会話を聞いていたギルが口を開いた。
「振り子か」
「お祖父様、流石!」
孫娘に称賛されたギルは、満更でもなさそうな顔をした。だが、理解出来ずにいるリコリーを見ると、小さく咳ばらいをしてから説明に転じる。
「振り子は知っているな?」
「支点から錘をつけた糸などを垂らして、それを左右に振ると重力で一定の動作を繰り返すものですね。ヴェンス寺院の山門の鐘も同じ仕組みです」
「その通り。振り子は左右対称の動作を行うのが特徴だ。要するに、始点さえ決めれば終点が予測出来る。もし命綱を手すりではなく列車の屋根につけて、糸をピンと張った状態で手すりから飛び降りたらどうなる」
「えーっと」
リコリーは宙で指を左右に揺らした。
「あ、そうか。反対側に自然にたどり着きますね」
「ただ命綱をつけて飛ぶよりは安全だろう。ロープか糸はなるべく上の方で切り取ってしまえば、人の目には止まりにくくなる。だがアリトラ、その後はどうする?まさか屋根に上ったとでも?」
「バルコニーからサロンの中を通らずに車内に戻るには、どこかの窓から入らなきゃいけない。窓の外から入るには、車体についている補強用の鉄板を使うのが正解かな」
「あれを足場にしたと言いたいのか。まぁ不可能ではないな。鉄線が支えになるだろうし」
「で、でも」
話に追いついたリコリーが慌てて口を挟む。
「そんなことしたら中から見えちゃうよ。僕達そんなの見なかったじゃないか」
ガラス張りの車体の外を、細い足場と鉄線だけを頼りに進む。想像しただけで血の気の引くような行動であり、どんなに身体能力が優れている人間でも時間がかかるに違いなかった。
女性の悲鳴が聞こえてすぐに双子はサロンに入った。その間誰かが窓の外を移動していたら、目に入らないのは奇妙である。
その疑問に対して、アリトラは至って平坦な調子で「そうなんだよね」と返した。
「そこがわからない」
「えぇ……そこが一番大事じゃないの?」
「この前の透明イルカじゃあるまいし、人間が透明になるなんて無理だもん」
「別に透明になる必要はないだろ。要するに見えなければいいんだから……」
リコリーはふと脳裏によぎった記憶に目を見開く。そのまま何秒か考え込んだ後、少し気の抜けた声を出した。
「あ、そうか」
「何?」
「見えなければいいんだよね、要するに。ガラスの向こうに立っている人を見えなくすることなんて、簡単じゃないか」
簡単、と言い切ったリコリーにアリトラは驚いた顔をする。
「どうやるの?」
「サロンに入った時のことを思い出して。目撃者の女性は左手の人差し指をバルコニーに向けていた。それを左側からの光が照らしていた」
「うん」
「今日は曇りだ。となるとあれは太陽の光じゃない。室内の照明と考えるのが普通だね」
アリトラが何か言おうと口を開きかけたが、リコリーはそれを制して続ける。
「でも後で僕たちがサロンに行った時、離れた場所に建っているヴィンス寺院の旧山門を見つけることが出来た。ということは照明はそこまで明るくなかったことになる。強い光が手前にあると、その向こう側のものは見えなくなっちゃうからね」
旧山門は進行方向の右側、つまりサロンに入った時には左側となる。短時間に照明の明暗が何度も変わるとは考えにくい。
「それに室内照明が右側と左側で明度が違うっていうのも妙だ。誰かが故意に、片方の照明の明るさを調整したと考えるのが普通だろうね」
「窓の外を見えなくするために?」
「うん。多分目撃者の目さえ眩ませられれば良いって考えだと思う。バルコニーから人が飛び降りたら、誰だってそっちに視線を向けて、両側なんて注視しないしね」
「じゃあサロンの照明を調べれば……」
「いや、多分魔法を仕掛けたのは照明本体じゃなくて強弱を変えるためのスイッチだと思う。窓の外から魔力をぶつけてスイッチを切り替えるだけなら大した手間も掛からない。元に戻すには自分がサロンに駆け込んだ時に手動で行えばいいだけだし」
「要するに、証拠は残ってない?」
「そういうことだね」
リコリーは、「お手上げ」だと言わんばかりに肩を竦める。今の推理も双子の記憶に基づいており、証拠と言えるものがない。
だが、アリトラは片割れの諦めとは逆に、何か確信めいた表情を浮かべていた。
「あるかもよ、証拠」
「窓の外にでも探しに行く? 振り子に使ったロープだって、もう残ってないかも……」
「魔法を使った証拠じゃなくて、魔法を使わなきゃいけなかった証拠。それも見つかったら最後、絶対言い逃れ出来ないものがあるはず」
アリトラは向かいで聞いていた祖父の方を見て、母親そっくりな笑みを浮かべ、父親そっくりの有無を言わせない口調で言った。
「お祖父様、手伝ってくれる?」
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