1-7.昼下がりのアップルパイ

 翌日、昼営業が終わったマニ・エルカラムでアリトラの至福の声が上がった。


「最高」


 テーブルに置かれた皿の上にはアップルパイが鎮座している。

 そのうちの一部がアリトラの口の中に運ばれたのは、つい数秒前のことだった。口の中に仄かに広がる甘味と酸味。シナモンの中に微かなアクセントとして使われている珈琲。

その上品でありながらも、庶民派を貫く味にアリトラは感動していた。

 昼の時間を過ぎた喫茶店は照明も落とされて客もおらず、店員が席に座って他所の店のケーキを食べているからといって咎める者もいない。

 目の前では双子の兄が何やら苦い顔をしているが、そんなことを気にするほどアリトラは人間が出来ていない。


「美味しいよ、リコリー」

「そりゃ美味しいだろうね。二時間並んで買ったんだから」


 テーブルの上には、紙のケーキ箱が置かれている。

 その表面には近頃人気を集めている洋菓子店のマークが描かれていた。


「しかも高い。これ一つでいい酒買うのと同じぐらいなんだけど」

「なに? 文句?」

「文句はないけど」

「リコリーが精霊瓶無くしたのを、アタシが探した。アップルパイ一つで済ませてあげたのを感謝されこそすれ、そんな顔される筋合いない」

「わかってるよ」


 仏頂面のリコリーの眼前に、フォークに突き刺したアップルパイの欠片が差し出された。

 礼も確認もなく、口を開けてそれを頬張ったリコリーは、軽く目を見開いたあとで口元を緩める。


「美味しいよね」

「うん」

「でも昨日は驚いた。リコリー、あの人許しちゃうんだもん」

「揉め事は嫌いなんだよ」

「でも窃盗なんだよ? ちゃんとすべきなんじゃないの?」


 アリトラの指摘を、リコリーは人を食ったような笑みで受け止める。


「別に許したわけじゃないよ。あの先輩、お兄さんが管理部…つまり母ちゃんの部下なんだよね」

「だから?」

「いざという時に「お礼」してもらえるかなって」


 得意気に言った片割れを見て、アリトラは両手で口元を抑えた。


「リコリー……。立派になって」

「僕はセルバドス管理官の息子だからね。当然だよ」


 その時、ドアベルが軽い音を立てて来客を知らせた。

 アリトラはナプキンで軽く口を拭って立ち上がる。


「いらっしゃいませ」


 ドアから入ってきた男は、派手な姿をしていた。

 服装はむしろ、洗いざらしの白いカットソーにすり切れそうな黒いパンツに軍用ジャケットという質素な身なりであるが、それ以上に本人の持つ資質が際立っていた。

 透けるような鮮やかな金髪は先端は蜂蜜色に近い色合いで、眼光鋭いその瞳は翡翠のように美しい色をしている。

 身長が平均より高いのと、その体つきが細身であるにも関わらず、背中に背負った身の丈ほどもある巨大な剣が男の持つ力を示していた。


「カレードさん、久しぶり」


 アリトラは嬉しそうな顔をして、男に声をかける。

 男は真一文字に結んでいた唇を開くと、落ち着いた声音で返した。

 二十五歳にしては声質が低いのを本人は気にしているが、アリトラ達はそれが良いと毎回絶賛する。


「一か月ぶりぐらいだな。元気だったか?」

「元気です。こっちどうぞー」


 アリトラが席に案内しようとすると、カレードと呼ばれた男は奥にいるリコリーに気がついた。


「よぉ、兄貴のほうもいたのか。珍しいな」

「ふっふーん。今日はリコリーに貢物をしてもらったんです」

「みつぎもの?」


 不思議そうな顔をした相手に、アリトラは別の表現を考える。


「えっと、奢ってもらってるんです」

「はぁ、なるほど」


 男は剣を下ろして、椅子に腰を下ろした。

 頭に巻いた民族調の赤い布の端が背もたれにかかる。


「珈琲」

「はーい。マスター、カレードさん来ましたよー」


 この大陸でもっとも不味い、と陰口を叩かれる珈琲をカレード・ラミオンは好んで飲む。

 だが飲むたびに、心底嫌そうに顔をしかめており、味が気に入っているわけでないことは誰の目にも明らかだった。

 アリトラが珈琲を淹れる手伝いにカウンターの中に消えると、カレードはリコリーを手招きした。


「なんですか、カレードさん」

「お前さぁ、これ読めるか?」


 カレードは乱雑に畳まれた新聞紙を取り出した。

 手に取って広げたリコリーは、真っ先に目に飛び込んできた鮮やかな黄色に驚く。

 新聞紙の上に黄色いインクで文字のようなものが書かれており、それが元の紙色のせいで際立っていた。


「なんですか、これ?」

「読めるか?」

「読めるような読めないような……。単語と数字が交互に書かれていて、少なくとも文章じゃないですね」

「なんだ。文章じゃないのか」


 カレードは溜息をつく。


「まぁそっち座れよ」


 自分の向かいを示したカレードは、テーブルに頬杖をついて話し始める。


「うちにマリッカっつーのがいるんだよ。マリッカ・ベル」

「十三剣士のマリッカさん、ですか?」

「そう」


 カレードは民間人ではなく、フィン民主国軍に属する軍人である。

 軍にはいくつもの部隊が存在するが、その中でも異色を放っているのがカレードのいる「十三剣士隊」だった。

 人間離れした剣技を持つ十三人の剣士を集めた隊であり、それぞれが一小隊に匹敵する力を持つ。その中でカレードは扱う剣の大きさから「大剣」という通り名で知られていた。


「そいつ第二地区に住んでるんだけどさ、ベル工房っていう鋳物屋の娘なんだ」


 この国の中央区は、第一から第五の五つの地区に分けられている。

 制御機関は第三地区なので隣接する地区になるが、別名職人街とも呼ばれる場所なのでリコリー達には縁がない。


「そこで最近幽霊が出るんだとよ」

「はぁ?」


 話があまりに飛躍したので、リコリーは首を傾げた。


「幽霊ですか」

「ベルの家の周りは昔からの職人が住んでいる区画で、結構建物がゴチャゴチャしてるんだ。それこそ初めて行った奴が迷子になるぐらいに。細い道がグネグネと続いていて、どの建物も似た色と来ているから、迷うのも無理はない」

「標識とかもないんですか?」

「さぁ? あったかもしれないけど、俺は字読めないし」


 カレードは国内の最南端にある貧民街と呼ばれる場所の出身だった。

 戸籍もなく親兄弟もなく、言葉を覚えるより先に鍵開けを覚えるような環境で育った。十七の時に偶然入手した戸籍を手にして街に出てきて、そこで剣の才能を開花させた。

 変わり者が多いと言われる十三剣士の中でも一際数奇な運命を辿っている。

 そんな生い立ちのカレードは、自分の名前しか書けないため、文字を読むという習慣がなかった。


「そこを夜中に歩いていると、後ろから誰かがついてくるような足音がするんだ。後ろを振り返っても誰もいない。怖くなって駆け足になると、その足音も追いかけてくる。路地から抜けると足音は消える…とまぁそんな具合だ」

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