もうひとつの初恋の風景



波が打ち寄せる海岸。


 そこをまだ小学生くらいの男の子が一人で歩いていた。あたしの意識は彼と重なっていた。その子は幼い日の穂高くんだった。


 穂高くんはひどく退屈そうに砂浜を蹴り上げながら歩いている。しばらく波打ち際を歩き続けていると、どこからかすすり泣く声が聞こえてきた。穂高くんは一瞬(海の異形の声か?)と身構えながらも、泣き声のする岩場の方へそっと足音を殺して近づいていく。そして岩場の陰を覗き込んだ途端。


 まるで雷に打たれたような強烈な感覚が穂高くんのちいさな体を走り抜ける。


 人目に付かない場所で泣いていたのは、ちいさな女の子だった。黒い艶々とした長い髪に、思わず息を飲んで魅入ってしまうほど可憐な顔立ち。それは響ちゃんだった。響ちゃんを見つめる穂高くんの心の中に、色鮮やかな感情が芽吹きだす。


 それはまさしく、人が恋に落ちた瞬間だった。


 ひと目見たその時から、穂高くんの心は強烈に響ちゃんに引き寄せられ、まるで足は縫いとめられたようにその場から動かなくなってしまった。そうやって息すら殺して響ちゃんを見つめ続けていると、響ちゃんも人の気配を感じたのか顔を上げる。


 幼いふたりの視線が重なった途端、穂高くんの心は弾けそうなくらいに高鳴って、甘くしあわせな初恋の感覚に溶けそうになった。





 一度視界が真っ白に染まって。また別の場面があたしの目の前に現れる。


 場所は二人が出会ったあの海辺。また響ちゃんが泣いていた。たぶん中学生くらいの年頃で、巫女装束を着ているけれど、その緋袴は誰かの悪意の証であるかのように真っ黒な墨がぶちまげられて悲しいほどに汚れていた。



「………私だって好きでわけじゃないのに……みんな自分が何もからって、私のこと『おじい様の気を引くために嘘をついてる』って決めつけて………霊感が強くてよかったことなんて何もないのに、ねえさんたちはいつもいつもこんな意地悪ばかりしてくるし…………もういや……いやよ、こんなところに居たくないっ」


 嘆く響ちゃんに、穂高くんはただ黙って寄り添っていた。


「こんな薄気味悪い力のせいでお父さんにもお母さんにも捨てられて、でもこの村でも受け入れてもらえなくて……私の居場所なんてどこにもない。私はいらない子よ………もう、消えてしまいたい………私なんていなくなってしまいたい………」


 さめざめと泣く響ちゃんのその言葉に、穂高くんはぎゅっと拳を握りこんだ。


「馬鹿なことを言うな、響」

「…………だって……だって私……」


 叱られた子供の様に、響ちゃんの声がぐずぐずに崩れていく。そんな響ちゃんを、いきなり穂高くんは両手で捕まえるとぎゅっと抱き締めた。


「……っ……穂高っ!?」

「いなくなるなんて言うなっ。そんなこと絶対に許さない。おまえはずっと僕の傍にいろ。………僕は響がいないとダメなんだ」


 そう言うと、穂高くんは響ちゃんを抱き締める両腕にいっそう力を込める。


「響が好きだ。もうずうっと前から、僕はおまえのことが好きなんだ」

「…………そんな………嘘よ……」


 響ちゃんはイヤイヤをするように穂高くんの腕の中で首を振る。


「………私、知ってるのよ。穂高がいろんな女の子と仲良くしてること。……ねえさんたちにも『私を花嫁にして』って口説かれてることも」

「僕も知ってるよ。響は意地っ張りで強情だけど、本当は甘えたがりで、でも人に頼れずにいる不器用なこと。いつも無表情で押し隠しているけれどおまえが人一倍気が細やかで人の感情に敏感で、だからこそ人より傷ついてしまうことも。おまえが本当はとてもやさしくていい子だってことも、働き者でどんな雑用を押し付けられてもいつも最後まで丁寧にやり通していることも、全部僕には分かっている。響の全部が僕には可愛くて愛おしい」


 驚いたように体を強張らせていた響ちゃんは、穂高くんの真摯な告白にだんだんと緊張を緩ませて、穂高くんを抱き返そうとして。でもその手が途中で止まる。


「…………だめよ……いけないわ」

「なぜ?」

「穂高は海来様なのよ?この村でいちばん偉い生き神様よ。……私なんかが一緒にいることが許されるわけがないわ」

「そんなの関係ない。なあ、響。もし響が何もかも捨てて僕を選んでくれるのなら、僕と結婚しよう。一緒に駆け落ちするんだ」


 突然のプロポーズに響ちゃんは一瞬甘い陶酔に浸りそうになる。でもすぐ真顔になると無言で首を横に振った。


「……やめて。……そんな大それたこと……許されるわけがないわ」

「響は僕のことが嫌い?」

「…………好きか嫌いかも、言わないとわからない?」

「いや、分かるよ。響のことはなんだって僕にはわかる。響は僕が好きなんだろう?じゃあだったらなんでダメなんだ?」

「だって………私のせいで穂高の一生を台無しに出来ない。私のせいで誰からも慕われている穂高が村の人たちから後ろ指さされるようになるなんて嫌よ。絶対に嫌」

「響。それでも僕は誰に嫌われようと恨まれようとかまわない。ただ隣で響が笑っていてさえくれればそれでいいんだ。僕には響がいないほうが耐えられない。

 ……豊海村は大丈夫だ。なんたって僕には真面目で優秀な弟がいるからね。僕が急にいなくなったとしても、次の海来様は日高がちゃんと務めてくれるはずさ。……駆け落ちしたと知ったらきっとものすごく怒って僕を恨むだろうけど……でもいつかはきっと分かってくれるはずだよ。日高にも一生を賭けて守りたいって思えるほど大事なひとが出来たらね」


 穂高くんは表情を引き締めると、見たこともないくらい真面目な顔をして響ちゃんの手を取った。


「響。僕と生きてくれるか?……豊海村を出てしまえば、僕は海来の肩書も神力も財産も何もない、ただのちっぽけな男でしかなくなる。相当な苦労をさせるだろう。でも僕と来てくれるなら、何があっても全身全霊を賭けておまえを幸せにするって約束する。だから………僕にさらわれてくれるか?」


 響ちゃんは涙をこぼしながら、でも力強く頷いた。


「それじゃあ約束だ。響が十八になって高校を無事卒業したら。そのときになってもまだ響の気持ちが変わっていなかったら、この村を出て一緒に暮らそう。夫婦になって一からふたりではじめよう」


 幼子の約束のように小指を絡め合うと、見つめあった二人の唇がやさしく重なっていった。


「でも駆け落ちなんて………本当にうまくいくのかしら………」

「大丈夫。なんたってこの僕がついているんだから!」


 妙に自信満々な穂高くんの態度に、響ちゃんはまだうれし涙で目元を潤ませながら微笑んだ。


「もう、穂高はいつもそう。根拠もないくせに自信満々で『大丈夫』ばかり言うんだから」

「だって本当にそんな気分なんだ。僕はきっと響さえいれば大丈夫なんだよ。なんだって絶対に上手くいく!」

「………でも私にはない、穂高のそういう前向きなところ、私好きよ」


 恥ずかしそうに蚊の鳴くような声で囁いた響ちゃんの呟きを、穂高くんが聞き逃すはずもなく。次の瞬間穂高くんは子供の様に「やった!」と声を上げてはしゃぎながら響ちゃんを抱き上げた。


「きゃあッ……ちょっと、穂高っ」

「響が初めて!初めて僕のことを好きだって言ってくれた!!」

「………わかったから、お願い下してっ……こんなの恥ずかしいわっ」

「響、響!幸せになろうな。響はいままで辛い思いをしてきた分、これから人一倍幸せになれるよ。マイナスだらけの人生なんてあり得るはずがない、これからは必ず僕がプラスの方に帳尻を合わせてあげるからね、大丈夫、必ず二人で幸せになれるよ!」


 やっと穂高くんに下してもらった響ちゃんが、恥ずかしさのあまり拗ねて穂高くんをぽかぽか叩いたり、それを穂高くんがしあわせそうな顔をしながら宥めたり。そんなほほえましい場面が続く。このときの約束がどんなに響ちゃんの心の支えになっていたのか、幸せそうにほどけた響ちゃんのうつくしい笑顔を見れば十分過ぎるほどに伝わってくる。


 でも続いて見えてきた場面で、その支えが残酷な形で砕け散ってしまうのをあたしは見ることになった。





 あたしの目の間に、また違う景色が広がっていく。


 背の高い木々で囲まれた小道。そこは海来神社の鎮守の森だった。その木漏れ日の下に、穂高くんが立っていた。何かお務めの後なのか神社の神紋柄の和服を着ている。そしてその傍らには巫女装束の女の子が立っていた。……でもそのひとは響ちゃんじゃない。くっきりとアイラインを引いた、響ちゃんよりも十歳は年上のおねえさんだ。その人は目をたのしげに細めて穂高くんに詰め寄っていた。


「穂高比古は相変わらずつれないなぁ。でも私の誘いを断ってもいいの?……私、この前見ちゃったの。穂高比古があの子に『駆け落ちしよう』だなんて言っているところ。あの子も子供のクセにやるなぁ。男になんてまるで興味ないって冷めた顔してるクセに、皆の知らないところでちゃっかりこの村でいちばんの権力者をモノしてるんだから」


 いつも笑顔のポーカーフェイスを決め込んでいる穂高くんの顔が、隠しきれずに一瞬強張った。


「………ふふふ、おじい様が知ったらなんて言うかな?まず間違いなく海来様を誑かしたあの子はここから追い出されるんだろうなぁ。そうしたらあの子、また縁戚の間を盥回しかな?それとも十六になったら早々に見合いでもさせて嫁がせた方がいいのかしら?不愛想でも見栄えだけはいい子だからね、実はもう縁談の話はいくつかきているって知っていた?もっともあの子の見てくれだけに食いついてきた、二十も三十も年上の好色そうなおじさま方からだけどね」


 おねえさんはどこに隠し持っていたのか、煙草を取り出すと素早くライターで火を付けて吸い出す。そんな姿が様になるほど妖艶でオトナな人だった。


「あなたも吸う?……いつもいつも優等生をしていたら疲れちゃうでしょう?」


 そういって勧められた煙草を、なぜか誘われるがままに穂高くんは吸い出し、それが半ばまで吸い落ちるとにいっと意味ありげに笑った。


「まったく清子ねえさんは。こんな場所に呼び出して何を言い出すのかと思えば、あの『遊び』を見られていたなんてなぁ……」


 穂高くんはすぅと紫煙を吹き出しながら、気まり悪そうにうすら笑いをする。


「遊び?」

「そう。本気なわけないでしょう、だって僕はいくらでも女の子は選びたい放題なんだよ?子供だって何人に産ませてもいいとまで言われてる。そんな特権を捨てて自ら一人の子に縛られようとするわけないよ」


 そういってあしらおうとするけれど、まだ穂高くんの言葉を半信半疑で聞く清子さんに穂高くんはなおも言い募る。


「ゲームは難易度が高い方が面白いだろう?最近は僕に簡単に靡きそうにもない女の子をオトすことにはまっててね。まあ響の場合、ちょっとやさしくしてやっただけですぐころっと落ちたから物足りなかったんだ。………僕は清子ねえさんの方がタイプだよ。あんな面倒な子より、ねえさんみたいに恋愛の駆け引きをたのしめて、おまけに色っぽくて物わかりのいいオトナの方がね」


 そういって穂高くんは清子さんの腰を強引に抱いて引き寄せる。清子さんも満更じゃないのだろう、「やめなさいよ」と言いながらもたのしげにきゃらきゃら笑う。


「子供のクセに。悪い男ね」

「清子ねえさんだって嫌いじゃないだろ?……どう?僕の子供、産んでみる?」

「したいの?それとも私に海来玉を授けてくれるの?」

「もちろんどっちもだよ」

「………ふふ、正直ね。でも悪くないわ。けどおじい様からお叱りを受けたくないから、今はこれだけでいいわ」


 そういって清子さんも強引に穂高くんの顔を引き寄せ、穂高くんが抵抗しなかったから二人の唇が重なった。


「……生意気。少しも照れたり動揺したりしないのね」

「じゃあ僕が焦るようなすごいキスでもしてみせてよ?」


 挑発するように穂高くんが言うと、二人の唇がまた重なる。今度はなかなか離れない。その様子に、実は初めからこっそりとふたりのことを木陰から窺っていた響ちゃんがそっとその場を離れて走り出した。二人は響ちゃんに気付かないのかキスを続けている。響ちゃんはもう何も見たくも聞きたくもないとでもいうように、固く拳を握り締めて走り続ける。


 走って、走って、走って。


 たどり着いたのはあの海辺だった。


 走っている間に結い上げられていた髪は解け、海風に煽られて四方に散っている。でも顔や首筋に纏わりつく髪を振り払うこともせず、響ちゃんはただ打ち寄せる波のその遠く、海の向こうを見ている。その目はガラス玉のように乾いていて、深すぎる悲しみで泣くことすら出来ずにいた。


「…………やっぱり、私はいらない子だったのね…………」


 響ちゃんの胸の中に、いろんな記憶が去来する。




『あの子は薄気味悪いのよ、もう嫌よ』

『俺たちが豊海村を捨てた祟りなのか……響にあんな気味の悪い力が現れるなんて』

『もう一緒にいられないわ……あの子はおじい様に預けましょう。私たちには涼さえいれば十分よ。あんなおかしな子はいらないわ』


 --------両親に海来神社に置き去りにされたときのこと。


『あんたって、ほんとに可愛げのない子ね』

『ちょっとおじい様に気に入られているからって、いい気になるんじゃないわよ』

『どうせ霊感があるなんてでたらめなんでしょ、この大ウソつきッ』


 --------斎賀のおねえさんたちに能力を嫉妬されて、ひたすら冷遇されていた日々のこと。


『ほかの斎賀のおねえさんたちはやさしいんだけど、響さんはちょっとね……』

『あたしも響さんって苦手だわ。お高く留まってる感じがするじゃない』

『わかるわかる。ちょっと美人だからって、愛想の欠片もなくて感じ悪いよね』


 --------村でも学校でも友達が出来ずに、ずっと孤独に過ごしてきたこと。




「はじめから、誰からも必要とされない子……」


 今までどうにか耐えていた細く繊細な糸が、とうとう響ちゃんの中でぷつりと切れた。たくさんの悲しい記憶を反芻すると、響ちゃんは顔を上げて海に向かって一歩を踏み出して行った。神社から駆けてくる間に、履いていた雪駄は脱げていた。白い足袋はすぐにつめたい海水に浸かる。それでも響ちゃんはまた一歩と海に向かって進んでいく。


「……穂高………今までありがとう…………」


 ひどい裏切りを受けたはずなのに、響ちゃんはそんなことを呟きながら海に踏み出して行く。


「穂高のお陰で今までいい夢が見られたわ………幸せってどういうことなのか、私にもわかることが出来そうだった………」


 響ちゃんの腿のあたりまでもう海水に浸かっていた。………響ちゃんは入水するつもりだ。この世界になんの未練もない顔でまた一歩進んでいく。


「………さよなら…………穂高……」


 それでもその名前を口にしたとき。響ちゃんの唯一の支えだったその人の名前を口にしたとき。もう堪えることが出来ないとばかりに響ちゃんの能面からぽろりと涙がこぼれ落ちた。響ちゃんの肩が震え出し、足が止まる。


「だめよ……生きてたって、いいことなんて何もない……今までだってつらいことだらけだったわ………穂高からあの約束は嘘だったって聞かされるくらいなら……このままこの世界から消えてしまった方がしあわせだわ………」


 そういって、響ちゃんは震える足をまたもう一歩沖に向かって投げだしていく。


「………いやなの……穂高のことだけは嫌いになりたくない……恨みたくない………私の人生でたったひとつの大切な宝物だったと思ったままでいたい………そんな夢を見たままでいたいわ………」


 そうやってとうとう胸元くらいまで海水に浸かったときだった。日が傾き始めた海の、その水面がまばゆく光りだした。響ちゃんがはっと気が付くと目の前には世にもうつくしい一人の童女が海の上に立っていた。


『なんて悲しい色をした憐れな魂なのかしら』


 突然現れたその女の子を覆う白金色の神秘的なオーラに、響ちゃんはすぐにこの童女は『伊津子比売』だと察した。祖父である宮司から内密にせよと言われていた、先代の海来神であり穂高くんや日高くんの父親である天高さんを葬り去った人だと。

 響ちゃんの背筋に冷たいものが走り抜けた。でも目の前の童女は、話に聞く残忍さとは裏腹にまるで聖母のような慈愛に満ちた笑みを湛えていた。


『今まで捨てられ、妬まれ、迫害され、辛い思いをしてきたのね。……でももう大丈夫よ。わたくしがあなたをつれていってあげるわ』

「……………連れていく?」

『そうよ。この海のずっとずっと遠く。そこではもう苦しむことも悲しむこともないわ。ずっとわたくしとしあわせにくらしましょう』


 響ちゃんは思う。『幸せに』と言われても穂高くんのいない世界に幸せなんてあるわけがないと。でももう自分は穂高くんの傍にいることも出来ないのだと思うと、静かに頷いた。


『うれしい。あなたはわたくしといっしょにきてくれるのね?』


 伊津子比売はあたらしいおもちゃを前にした子供のように手を叩いて喜ぶ。


 どこだっていい。もうこの世界にいたくない。海の底の底のどこか遠くに連れて行ってくれるなら。それでいい。伊津子比売の差し出したちいさな手に、響ちゃんが自分の手を重ねようとした、そのときだった。


「響に触るなッ!!」


 突然浜辺から絶叫があがる。その声のあまりの必死さと大きさに驚いて響ちゃんが振り返ると、そこには髪を振り乱し、響ちゃんの脱げた雪駄を両手に握り締めた穂高くんが苦しげに呼吸を荒げて肩を上下に揺らしていた。


「響、行くなッ!戻って来いッ!!」


 穂高くんは悲痛な叫び声を上げると、濡れることなぞ少しも厭わず響ちゃんに向かって海水の中に突っ込んでくる。


「僕を置いておまえはひとりでどこへ行く気だッ」

「…………穂高………」


 必死で追いかけてきて自分を連れ戻そうとする穂高くんに、響ちゃんの目が熱く潤む。


「穂高…………私……」

「おまえを攫っていいのは僕だけだ!早くこっちへ来いッ!!」


 海水をかき分けて突き進んでくる穂高くんの勢いに、もう何も感じまいを決めていたはずの響ちゃんの胸は熱くなる。


(私……穂高が好き……どうしようもなく好き………私のことどう思っているのだとしても…………やっぱりまだ死にたくない……)


 響ちゃんは自分の気持ちを確信して、穂高くんに向かって歩き出そうとしたその時。


『もう遅いわ』


 耳元で童女のたのしげな声がしたと思ったら、響ちゃんの体に無数の手が絡みついてきて海に引き摺り込もうとしてくる。


「……きゃあっ………」

「響ッ!?」

『残念ね、穂高。もうこの子はこの世界にすっかり絶望しているの。そんな憐れ魂を、わたくしが貰い受けると約束したの。憐れでうつくしい人の子、さあその悲しみの器を捨ててわたくしと行きましょう』


 穂高くんが精一杯伸ばした手に、あともうちょっとのところで響ちゃんの指先は届かない。二人を引き裂くように大きな波が立ち、響ちゃんの体は冷たい海の中に吸い込まれ深く沈められていく。急に酸素を断たれた響ちゃんの顔は苦しみに歪んでいく。穂高くんは自分の方がよほど苦しみを味わっているかのような顔で、必死に水中にいる響ちゃんを追いかけた。


(………穂高………もういいの………)

(馬鹿を言うなッ、僕がおまえを諦めるわけがないだろッ)


 水中で目が合った二人は、視線だけでそんな会話を交わす。響ちゃんの目からはまた涙がこぼれていく。そして意識はどんどんと遠退いていく。


(響ッ!?)


 意識を手放しかけた響ちゃんを見て、穂高くんの心臓が氷に掴まれたようにぞっと冷たくなった。その瞬間、穂高くんの体が突然蒼く輝き出した。


『伊津子比売ッ、もうやめろッ。これ以上は許さない。響から離れろッ!』


 ありったけの神力を使ったのだろう、もともと整っていた穂高くんのその顔が、神懸ったうつくしさへと急激に変化していく。


『だめよ穂高。この娘はもうわたくしのもの』

『いや響は僕のものだ。あなたになぞ渡すものかっ』

『あなた程度の力でわたくしに敵うとでも?こうしてる間にもこの娘の息は断たれていくのよ?』


 二人の足元で、唇から細く酸素の泡粒を漏らす響ちゃんを見て、徹底抗戦の構えを見せていた穂高くんが顔を青褪めさせた。もう響ちゃんが事切れてしまうのも時間の問題だった。


『やめてくれッ、頼む、伊津子比売っ、響だけは見逃してくれ……ッ!!』

『ええ。別にわたくしはこの娘じゃなくてもいいの。……そのかわりあなたに代償が払えて?』

『………だったら僕が代わりに行くっ。命でもなんでもくれてやる。それだったらいいだろう?だから響に手を出すなッ』


 穂高くんがそう宣言した途端、海面に四つの水柱が立ち、まるで意思を持った生き物のようにその四本はうねうねとうねりながら穂高くんの両手両足に絡みつく。そしてあっという間にその体を海の中へと飲み込んでしまう。海中に消えていく一瞬、響ちゃんの方を見た穂高くんは大事な人を守れたからなのか、どこか満足そうな笑みを浮かべていた。


『ふふ、可愛い穂高。それではわたくしと一緒に参りましょうね』


 海面にふわふわ浮いてその光景を眺めていた伊津子比売は満足そうに言うと、何か神呪を唱えて自分も海中に沈もうとする。


「……ほだ………か……」


朦朧とする意識の中で海面に押し上げられた響ちゃんが呟くと、伊津子比売が振り返った。


「おねが………私も……ほだかの………ところ………いっしょ……つれて………」


 声も体も震わせて懇願する響ちゃんを憐れむように、伊津子比売はふっと笑った。


『それは出来ないわ、憐れな娘。穂高との約束だもの。………あなたはおかへ帰りなさい』


 そういって伊津子比売が神呪を唱えると、突然波が荒れだし響ちゃんの体を飲み込みながら岸へ岸へと運んでいく。あまりにも荒々しい波に何度も海水を飲み込み、響ちゃんは苦しさのあまり意識を手放した。



 次に響ちゃんが意識を取り戻したとき、響ちゃんは日が沈み切った砂浜の上で倒れ込んでいた。そして行方の知れなくなった穂高くんを探しに来た村人に取り囲まれていた。


 響ちゃんの傍には穂高くんが握り締めてここまで持ってきた雪駄が転がっているだけで、穂高くんも、穂高くんがいた痕跡すらもどこにも残っていなかった。



「この疫病神ッ」

「穂高比古を海の異形に売り渡した悪魔めッ」

「あんたがいなくなればよかったのよッ誰も悲しんだりしないんだからッ」

「穂高比古を……わたしたちの海来様を返しなさいよッ」

「それが出来ないならあんたなんて死んで詫びなさい!!」


 その日以来、響ちゃんへの風当たりはますます強くなった。


 穂高くんが行方不明になったのは響ちゃんのせいだと決めつけられ、響ちゃんもまた反論しなかった。何を聞かれても固く口を閉ざしたままだった。日高くんやおじい様である宮司さんが庇っても、それでも響ちゃんは陰に日向に斎賀のおねえさんたちに苛烈にいじめられるようになり、村の人たちからも冷たい目で見られるようになった。


 それでももう響ちゃんは何も感じていなかった。


 響ちゃんの心にあるのはただひとつ、穂高くんを助けるということだけ。日高くんが言った「穂高の神力が俺の体に流れ込んで来てないってことは、穂高はまだ生きているに違いない」という言葉だけを支えに、穂高くんの生存を信じる響ちゃんは少しでも穂高くんを助ける力になれるようにと、ますます熱心に神社のお務めに励むようになった。

 穀断ちという断食をしたり滝行をしたり、寝る間を惜しんで祝詞の筆写をしたり、霊感を研ぎ澄ますために自分に出来ることはありとあらゆることに取り組んだ。


 ただ穂高くんを、大好きなひとを助けたいという一念だけで。






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