可愛い弟


 即答は出来なかった。そんなあたしのことを、日高くんは固唾を飲み、期待のような緊張のようなもので揺れるまなざしで見つめてくる。あたしは自分を落ち着かせるために一度深く呼吸をした後で考えてみる。


 まだあたしの妊娠のことは何も知らないままのお父さんとお母さんのこと。

 悪阻のせいで最近は休んでばかりだった学校のこと。

 養護の竹田先生から聞いた、痛みと出血にまみれた生々しい出産体験談のこと。

 10代で妊娠した女の子が登場するドラマや漫画のこと。


 そんないろんなことが脳裏を駆け巡っていった。あたしの貧弱な想像力でも、子供のあたしがコドモを産むことは生易しいことじゃないって思う。産むのだとしても出産で終わりなんかじゃなく、親になる以上はあたしみたいな未熟なお子様なんかじゃ負いきれないくらいの重い責任や義務を、それでも一生背負わなくてはならなくなるんだってこともわかる。

 甘くて無責任な決断なのかもしれない。無謀かもしれないし、まだ戸惑いや迷いもある。でもあたしは日高くんの赤ちゃんをお腹越しに撫で続けるのを止められないまま答えていた。


「………………あのね、日高くん。あたし、痛みに弱いんだ」


 日高くんはただ黙って、あたしの次の言葉を待つ。


「それにね、すごくビビりなの。怖いことがあるとすぐ逃げ出したくなっちゃうし、すぐ泣き言いうし、泣いちゃうし。自分でもときどき嫌になるくらいメンタル弱すぎの弱虫なんだ。………だからね、たぶんこれからすごいテンパると思うし、日高くんが呆れるほど根性なしなこと、いっぱい言っちゃうと思う。自分の決めたはずのことなのに、後悔するようなこともいつか言っちゃうかもしれない」


 正直、今日の決断を一生に一度も悔いずにいる自信なんてまだない。でも。


「………でもね、この子のこと産んであげたいって思うの。日高くんの大事なお兄さんのこと、あたしもぜったい助けたいって思うし。それにね、この子のことも大事にしてあげたいの。だってきっとこの子、今もあたしのお腹の中でパパとママに会いたがってるんだろうなって思うの………だからこの子のこと、あたしが守ってあげたい。……だってこの子は、もうあたしの赤ちゃんでもあるんだもん」


 授かった方法も理由も、何もかもフツウの赤ちゃんとは全然違う。でもこの子は日高くんの……あたしの好きな人の赤ちゃんだ。この子をなかったものになんて出来ない。だから怖いけど。怖くてたまらなくて、産むときのことを考えると今から心臓がバクバクして指先が震えてきてしまうけれど。


「あたし、この子を産んであげたい………いいママになれる自信なんて全然ないけど……産んでみたいって思うの」


 緊張しながら一言一言自分の気持ちを確認するように告げると、日高くんは顔をくしゃっと歪ませた。それから急にあたしの両手を取ると、息が詰まるほど真剣な顔をして言った。


「ののか」

「は、はい……」

「俺と結婚してくれ」

「…………け、けっこん………っ!?」


 驚きのあまり声を裏返らすあたしをよそに、日高くんはあたしの手をぎゅっと握りしめたままあくまで真面目な顔して言い募ってくる。


「俺みたいな奴がののかに相応しいだなんて思わない。今すぐ好きになってもらえるとも思っていない。……でも俺は、ののかに一生傍にいてほしい。俺もまだ何一つ自分で出来ない半人前の子供だけど、許されるならののかと一緒にお腹の子を育てていきたい」


 『結婚してくれ』なんて、女の子なら誰もが好きな人から言われてみたい言葉のはずなのに。自分の身に起きていることを認識することが精一杯で、『妊娠したこと』とか『出産すること』以上に、『結婚』だなんてあたしにはまだ全然想像出来なかった。だから日高くんの言葉に上手く反応出来ずに、あたしはただ日高くんの目を見つめ返すことしか出来ない。そんなあたしの態度に、あたしの手を握り締める日高くんの力がだんだん弱くなってくる。


「すまない、先走ってるよな、俺………急にあれこれ言われても混乱するだけだよな……」


 日高くんが顔を俯かせながらあたしから手を放そうとするから、あたしは思わず日高くんの手を握り締め返して引き留めていた。


「日高くんっ……たしかにあたしいっぱいいっぱいになっちゃってるけど、でも、その、日高くんがそこまで考えてくれたこと、ちゃんとうれしいよ?……だから今、日高くんに聞いておきたいことがあるんだけど……ダメ?」


 あたしが見上げるように日高くんの顔を覗き込むと、日高くんはぱっとあたしから顔を背けてしまう。


「日高くん?」

「……………そういう顔でお願いされて、駄目と言える男がいるわけないと思うんだが……」

「え?」

「まったく。……ののかのそういうところ、ときどき本気で憎らしいな」


 日高はあたしを見る目をわずかに眇める。


「別になんでも答えるけど、俺がののかを好きだってこと以外にまだ知っておきたいことがあるのか?」


 ストレートな『好き』の言葉に、懲りずにまたもや心臓がドキンと脈打った。


「え、えと………その、日高くんだってまだ十六……十五歳なんだっけ?なのにもう結婚とかって決めちゃっていいの?……たしかにお腹の子の責任取るのも大事かもしれないけど、結婚ってこの先ずっと一生傍にいるってことなんだよ?なのにもう決心出来るの?オトナになって気持ち、変わるかもしれないのに……?」

「変わらないよ、絶対に」


 あたしの不安を払拭するように、日高くんは確信に満ちた口調できっぱり言い放つ。


「俺がののかを好きだって気持ちは絶対に変わるわけがない。呆れられるかもしれないけれど、お腹の子を育てたいっていう情や体裁以上に、俺は他のどんな男にもののかのことを渡したくないんだ。そんな勝手な感情だけど、俺は本気でののかと結婚したい。

 ………すぐに答えを出せなんて言わない。生まれてくる子の認知は出来ても、戸籍上、結婚出来るのは俺が十八になってからだし、それまでにののかが結婚してもいいと思える男になれるようにこれから努力する。だから考えてみてくれないか」

「……日高くんはあたしなんかの、どこがいいの………?」


 そこまで思ってもらえる自信なんてなくて尋ねると、日高くんはなぜだか腹を立てるような困るような顔になる。


「どこがって……ののかはそういうことまで全部俺に言わせないと気が済まないのか?俺に面と向かって好きな理由を言わせようとするなんて、ののかは意外に意地が悪い」

「だ、だって」

「………いいよ。なんでも答えるって言ったのは俺だしな」


 そういって日高くんはあたしをじっと見つめてくる。まるで好きになってくれた場所をたどるように、日高くんの視線があたしの顔や目や体、その奥にある心まで覗き込もうとするようにひとつひとつを視線でゆっくり撫でていく。その熱烈な視線に晒されたあたしは、なんでかものすごく恥ずかしくなってしまって「いい」と口走っていた。


「やっぱいい。……いいです、言わなくていいよ」

「言えっていったり、言うなっていったり。……もしかしてののかは俺を弄ぼうとしてる?」

「ち、ちがいます……っ」


 日高くんがあたしを非難するように顔を近付けてきて、ゴチンッとあたしのおでこに自分のおでこをぶつけてくる。唇があとすこしで触れてしまいそうな近すぎる距離に、もう耐えきれないくらい恥ずかしくなって身を引こうとして。でもあたしの手を握ったままの日高くんの手が強く引き留めて阻止してくる。


「ひ、日高くんっ!?」

「いつもどれだけ俺のことを振り回しているのか自覚あるか?たまにはののかの方が焦ってみればいいんだ」


 真っ赤になってるあたしに気付いてるだろうに、日高くんはちょっと意地悪に笑って離してくれない。そんな日高くんの甘い責めに痛いくらい胸をバクバクさせていると、突然あたしの頭の中に聞き慣れた声が響いてきた。


『へえ。ヘタレかと思いきや、好きな女の子には意外に強気なんだなー』


(えっ………!?)


 あたしを捕えようとする日高くんから無理やり顔を背けて見上げると、あたしたちから少し離れたところに、淡く発光している制服姿の穂高くんがぷかぷか宙に浮いていた。


『あれ?ののかちゃん、もしかして僕がの?』


 あたしと目が合うと、穂高くんはにっこりとなんの悪意もなさそうな爽やかな笑顔で言う。


『仲良きことは麗しき哉、いやぁ、弟と弟嫁が手に手を取って睦まじく愛を語らう姿、感動するね!しっかし奥手だと思っていた日高に子作りも結婚もプロポーズも先を越されるとは思わなかったな。……あ、ののかちゃん、僕に構わず、どうぞ続けて続けて。存分に日高と甘い恋人タイムを楽しんでねっ』


 どうやら穂高くんは最初からあたしたちのやり取りを見ていたらしいということに気付いた途端、あたしは猛烈な恥ずかしさが込み上げてきて「きゃあ」と悲鳴を上げながら日高くんを突き飛ばしてしまっていた。


「………ののかっ……!?」


 突然取り乱してみぞおちに張り手を食らわせたあたしを責めるでもなく、日高くんは怪訝な顔をしてあたしを伺ってくる。


「どうしたんだ?急に声を上げて」

「ご、ごめんっ、………でも、そ、そこっ……そこぉっ!!いるの!!」


 立ち上がって必死に訴えるけど、びっくりしたのと恥ずかしいのでまともな言葉が出てこない。あたしが指さしたあたりに視線を向けた日高くんは半パニック状態になってるあたしと見比べながら首を傾げる。


「どうした?また油虫でも出たのか?……たまに窓から紛れ込むんだよな。やっぱり貝楼閣にも網戸を設置した方がいいかな?」


 日高くんはのんきに言いながら、部屋の隅に置いてあった豊海村の地域振興会の冊子をぐるぐる丸めてバット状にすると、ぐっと握り締めて片手に構えた。


「ののかはやっぱり都会育ちだよな。たかだか油虫一匹にそんな血相変えたりして。どこだ?どこにいたのかおしえてくれたら今すぐに始末するけど、」

「違いますッ、ゴキブリじゃなくてぇっ!!………いるのっ、そこにっ!!」

「何が?」

「穂高くんが!!日高くんのお兄さんが!!そこに!!」


 その名を聞いた途端、日高くんは顔色を変えた。


「………穂高だって………?………穂高が……いるのか……?」


 あたしの目にははっきり見えている穂高くんの姿が日高くんには見えないらしく、日高くんは部屋じゅうにきょろきょろ視線を走らせる。


「どこに?どこにいるんだ?!」

「いるの、ほんとにっ……そこ……そこにっ」


 あたしの言葉は信じてくれているみたいだけれど、どんなに目を凝らしても穂高くんの姿が見えないようで日高くんは困惑した顔になる。あたしはどうにかして穂高くんがすぐ傍にいることをおしえたくて、考えた末に日高くんの手を取った。そしてその手を浮かんでいる穂高くんに向けてそっと伸ばしていく。


「ここに、ここにいるの。穂高くんがほんとにいるのっ。ねえ、穂高くん」

『うーん、でもののかちゃん。残念だけど触れないと思うよ?どうやっても日高には僕が知覚出来ないんじゃないかな……』


 そう言いつつも、穂高くんは宙に伸びてきた日高くんの手に、自分の手を伸ばしていく。あたしと日高くん穂高くん三人の手が重なったその瞬間。パンッと音を立てて光が爆ぜた。閃光の眩しさにあたしが目を押さえていると、隣で日高くんが息を飲む気配がした。


「………穂高…………なのか……?」


 日高くんは宙に浮いている穂高くんを、強張った顔で凝視する。


『え?僕が見えるのかい?』

「見える………本当に……本当に穂高なのかっ!?」

『うわぁ、すごいな………ひょっとしてののかちゃんが僕らを繋ぐ媒介として作用したのかな?花嫁御寮や海来玉にはまだまだ僕の知らない未知数な力があるってことなんだろうな』

「………っ……穂高……!!」


 日高くんが掴み掛らんばかりの勢いで詰め寄ると、穂高くんは笑顔を浮かべて答えた。


『うん、お兄ちゃんだよ。いやあ、日高。久しぶりだね、あんなに小さかった子がちょっと見ない間に随分背が伸びて大きくなったみたいで。おまえがもうこんな立派な高校生になっていたなんて、お兄ちゃんも感慨深いよー』


 穂高くんが滅多に会わない親戚のおじさんみたいなことを口にすると、日高くんは普段の日高くんらしくなく「なってねぇよっ!!」と荒々しい語勢で即座に言い返した。


「たった一年でそんな身長伸びるかッ。中学生だった一年前と大差ないわッ、おまえこんなときにまでくだらないこと言うな!!……だいたい何が……何が久しぶり、だ。人の気も知らないで能天気なこと言いやがって……この……この大馬鹿者がっ………!!」


 日高くんの顔は一瞬泣きそうに歪んだ後、すぐに険しくなった。なんの緊張感もない穂高くんの態度に腹を立てたようだけど、それでも穂高くんに会えた安堵の方が勝ったのか、口調に反してその表情はだんだんと緩んでいく。


「おまえな、こっちは今までどれだけ心配したと思ってるんだッ………だいたいなんで霊体でいるんだ、生身の体はどこに置いてきたんだよ!!……それに……それに今までどうして出てこなかったんだ……っ」


 質問攻めにされても穂高くんは何も答えず、ただあたしの方を向いていたずらっぽく言ってきた。


『見てよ、ののかちゃん。日高のこの取り乱し様。ね、僕のことが心配で心配でならなかったなんて、ほんっと兄ちゃん子だろ、この子。口は悪いけど愛情の裏返しっていうの?まだオムツが外れないくらいちいさな頃からほんとに僕のこと大好きなんだよねぇ、日高は。うんうん、可愛いヤツめ』


 こめかみに青筋を立てた日高くんが怒鳴りだす寸前、穂高くんは目を細めて小さな声で呟いた。


『…………だからね、なんとしても僕はまだ死ぬわけにはいかない。もうしばらくは日高の傍についててやりたいんだ』






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