花嫁御寮のお役目
「ようやくおじいさまのお説教が終わったみたいね。……日高、いつまでもそんなところに立っていないで入ってきたら?」
あたしと日高くんは視線が重なったまま、お互い凍り付いたように動けないでいた。でもいつも通り冷静な響ちゃんは一人淡々と日高くんに入室を促すと、再度あたしたちに言ってくる。
「早乙女さんが体調不良を不安がっていたから、早乙女さんが今日高の子を懐胎しているんだって私の方から話しておいたわ。……ああ、懐胎って言葉は説明していなかったわね。懐妊や妊娠と同じ意味の言葉よ」
説明されても、言葉が頭に入ってこない。脳内は靄がかかっているかのように重く痺れていて、今夢を見ているのか現実であるのかすらわからない。
「……日高くん…………あたしのお腹に、赤ちゃん、いるってほんとうなの………?」
しばらくの沈黙の後で、先に切り出したのはあたしだった。
「………そんなわけ、ないよね。あるわけないじゃんね……?さっきから響ちゃん、変なことばかり言うんだよ?」
笑ってみても、すぐにあたしの顔は引き攣っていく。それでも無理やり笑みを浮かべてみるけれど、日高くんは笑い返してくれない。あたしは否定の言葉が聞きたくてじっと日高くんを見つめ続けるけれど、日高くんの顔は苦痛でも味わっているかのように歪み、気まずそうにあたしから逸らされる。その暗い表情を見て、あたしがぎりぎり踏ん張っていた足場ががらがらと砕けていった。奈落を覗いたように心にぽっかりと穴が開く。
「……どうして………?……嘘、だよね……日高くん。響ちゃんも日高くんも、二人してあたしのこと揶揄う気なんでしょ?」
「嘘じゃ、ないんだ」
日高くんは日高くんらしくない、重苦しい声で呻くように呟く。
「ううん、嘘に決まってるよ。絶対に嘘だよっ…………だって……だってあたし、まだ十六歳になったばっかなんだよ?まだ高校生で結婚もしてないんだよ?それなのにいきなり妊娠なんて、あるわけないじゃんっ。……海来様は神力だけで赤ちゃん授けられるって聞いたけど、そんなの信じないよ。だって日高くんが勝手にあたしを妊娠させるとか、そんなひどいことするわけないよ。するわけがないよね?」
「…………………ごめん」
縋るように見上げたあたしに、日高くんは息することさえ苦しそうな顔をして言った。
「謝って済むことじゃないけれど………本当にすまない。……ののかは、すべてを了承して花嫁御寮を引き受けたのだと思っていたから」
「すべてって……なんのことなの?」
あたしの疑問に、日高くんではなくまだ寝室に控えたままだった響ちゃんが答えた。
「『花嫁御寮』のいちばんのお役目は、海来神の御子を産むことよ。『和合の儀』で早乙女さんはお腹に日高の『海来玉』を授かったでしょう」
「……知らない………そんなの、あたし知らないっ。あたしはただ、神事の花嫁役に選ばれただけで……っ」
「『海来玉』は海来神の体の中に生成される命の
響ちゃんの告白に、項垂れていた日高くんが顔を跳ね上げ、あたし以上に驚いた顔をする。
「響、おまえ。……やはり嘘だったんだな……ののかが報酬目当てに花嫁御寮を引き受けただとか、見返り次第で懐胎も厭わないって言ったっていうのは」
「ええ、全部嘘よ。早乙女さんに花嫁御寮のほんとうのお役目が『懐胎』することだっていうのも、一切説明しなかったわ」
「おまえっ……どうしてッ。俺はおまえの言うことだから疑わずにいようと思っていたのに」
「お粗末な信頼ね。何もかも他人任せにしていた日高に私を責める資格があると思うの?それに言ったはずよ。日高が私を花嫁御寮に選ばなければ、その時は私も手段を選ばないって」
響ちゃんは淡々と、でも抑えきれないほどの深い怒りを湛えた目で、日高くんを非難するように睨み付けた。その怒りをあたしにもぶつけるように響ちゃんはちらりとあたしを見る。
「私はね、日高が早乙女さんを花嫁御寮に選んだ以上、何が何でも早乙女さんに懐胎してもらうって決めたの。そのために嘘もついたし騙しもしたわ。でもそれも全部日高のせいよ」
すこしも悪びれる様子もなく、響ちゃんは言う。
「まだ高校生の女の子がよく知りもしない男の子供を産めと言われて『はい』なんて答えるわけがないじゃない。ましてや早乙女さんは豊海村の外から来た、“常識的”な“よそ者”よ?村の女の子ならまだしも『神様の子を産め』と言われて大人しく受け入れるはずがないじゃない。だったら騙すしかないでしょう。
……おじいさまから『説明役』を承ったけれど、私は早乙女さんに『神婚』も『和合の儀』も、村に古くから伝わるただの神事としか説明しなかったわ。知らないうちに妊娠することになった早乙女さんは深く傷つくかもしれないけれど、私はそんなこと構わなかった。ただ早乙女さんがお役目を全うしてくれさえすればね」
激情に駆られたように饒舌に語る響ちゃんは、あたしの友達ではなくまるで知らない人のような顔をしていた。いつもクールで取り乱すことがない響ちゃんの烈しい一面を目の当たりにして、あたしはただ茫然と響ちゃんを見ていることしか出来なくなる。
「日高。そんな顔をするくらいなら、なんで私を選ばなかったの?私はすぐにでも懐胎する覚悟があるって何度も言ったはずよ。それでも私ではなく早乙女さんを花嫁御寮に選んだのは日高でしょう」
「………おまえに俺の子供を産ませるなんて出来るわけがないだろっ。どんなに腹を括ろうがおまえが傷つくってわかっているんだから。けどおまえ………ののかの友達じゃなかったのか?」
日高くんは響ちゃんを責めるではなく、ただ悲しげな顔をして尋ねる。でもその途端、響ちゃんはいかにも不愉快そうに唇を歪めた。
「友達?冗談はやめてもらえる?私はただの『世話役』よ」
「けどののかはおまえのことを悪く言う木原やクラスの奴らから庇って、いつもおまえのこと気にかけてくれてただろ」
「………だからなんだっていうの?早乙女さんは友達なんかじゃない。勝手に一方的にお友達ごっこをしていただけじゃない。私は最初から早乙女さんのことなんて大嫌いよ。自分の大切な子が誰にとっても大切で愛される存在だなんて思わないでッ」
響ちゃんは憎らしげにそう吐き捨てた後、突然深々とあたしたちに向かって頭を下げてきた。
「私が話すことはもうないわ。これで失礼します。……どうぞご安静に」
皮肉にしか聞こえない言葉を残して響ちゃんは部屋を出て行った。
響ちゃんが出て行った襖をぼんやり見たまま、あたしは無意識に呟いていた。
「赤ちゃん、いるの…………?」
やっぱりまだ信じきれないけれど、でも『妊娠している』と思えば、腑に落ちることが多すぎた。止まったままの生理もそうだし、吐いたり寝込んだりの謎の体調不良も
神様の子を妊娠しているのだと、理屈では理解しようとしている。でもとてもじゃないけど心が追いついていかない。
茫然と自分のお腹を見つめていると、不意に日高くんが『開け』と唱えた。その途端あたしの両目には何か目に見えない熱いエネルギーのようなものが巡っていってちりっと痛みが走った。その刺激に思わず瞬きをすると。その一瞬で今まで見ていたものとは違うものが視界に映るようになった。さっきまでこれといって変化がなかったはずのあたしのお腹は、着ている薄手のワンピースの生地に沿ってほんのすこし丸く盛り上がっていた。しかもその下腹のあたりが着ている服の布地に遮られることもなく蒼色に発光しているのが見える。あたしのお腹に神懸かり的な『何か』が宿っているのが嫌でもわかった。
(ほんとうに、いるんだ。………海来様の……日高くんの赤ちゃんが………)
その事実をどう受け止めればいいのかわからない。
(これが穂高くんが言っていた、『女の子にとって残酷で許せないこと』………?)
妊娠したといっても、日高くんに無理やりヤられてハジメテを奪われたわけじゃない。強引にエッチをされることに比べたら、あの和合の儀のときお腹にしか触らなかった日高くんは紳士的ですらあったのかもしれない。でもあたしの意志ではなく、あたしの体があたし以外の人の都合で勝手に使われたということに、大事なものを踏みにじられた不信感とかかなしさでいっぱいになっていく。
(無理だよ穂高くん。こんなこと、耐えられるわけがないじゃん……平気な顔なんてあたし出来ないよ………)
何があってもあたしの味方でいてくれると言っていた穂高くんは、今この光景をどこかで見ているのかもしれない。けれど姿は見えないし返事もない。その心細さにあたしはますます追い詰められていく。
「………日高くん、なんであたしだったの?」
たぶん答えを聞いたらもっとみじめになるだけだってわかっていた。それでもあたしは聞かずにはいられなかった。なんであんなにも花嫁御寮になることを熱望している響ちゃんがいたのに、日高くんはよそ者のあたしを『花嫁役』に選んだんだろう。響ちゃんに決めなかった理由を、日高くんは響ちゃんを傷つけたくないからだと言っていた。つまりはあたしだったら傷つけてもいいと思ったってことじゃないのか。
小さな頃からきょうだいのように一緒に育った幼馴染と、特別親しいわけでもないクラスメイト、どっちのほうが大切かなんて考えなくてもわかることだ。日高くんは大事な幼馴染みである響ちゃんを守れるなら、花嫁御寮は誰でもよかったんじゃないのか。響ちゃんでさえなければ、あたしであろうとほかの女の子であろうと構わなかったんじゃないのか。
……ほんとは響ちゃんの代役でしかないくせに、日高くんにやさしくされて舞い上がっていた自分が恥ずかしくてただただ悲しい。
「………日高くん。あたしって何?赤ちゃん産む道具?装置みたいなものなの?」
「違う。そんなんじゃない」
日高くんは即座に否定する。けどその言葉は全然あたしの心に届かない。
「でも日高くんがあたしにしたことって、そういうことだよね。そういう扱いだよね」
「違う」
「赤ちゃんを産ませることなんて、なんてことないことだとでも思ってるの?それともあたし、海来様の子供を産めるなんて名誉なことだって喜ばなきゃいけなかった?それが豊海村の常識なの?あたしもそう思わなきゃいけないの?」
「違うッ」
「違わないよッ!!」
ここで泣いてたまるかと、あたしは奥歯を噛みしめて耐える。目にもぐっと力を込めて潤んだ両目から涙がこぼれないように日高くんをきつくにらみつける。
「だったらなんで今までこんな大事なこと何も話してくれなかったの?『神婚の儀』さえ無事に終われば、あたしがちゃんと花嫁御寮のお役目で赤ちゃん産みさえすれば、それでいいと思っていたの?………あたしがどう思うかなんてどうでもよかったの………?」
「……そうじゃない。さっきも言ったけれど、俺はののかが全部を知ったうえで花嫁御寮になることを承諾したんだと思っていたんだ。……だから」
「響ちゃんが言ってた、あたしが報酬目当てで引き受けたって話……?」
「報酬というか……『海来玉』には命とともに神力も凝縮されているから、海来玉を宿せばその母体になった人はあらゆる財に恵まれて金に不自由することがなくなるし、神力によって普通の人よりもゆっくり老いるから若々しくなれるんだ。だから俺は」
「日高くんは、あたしがその海来玉のご利益欲しさに赤ちゃんを産むような子だって思ったんだ」
「それは…………響や狐たちに言い含められたこともあって…………」
「でも、日高くんは信じたんだよね?あたしが見返りのために妊娠を承諾したって………ご利益やお金のためにそういうことする子だって思ったんでしょ?目の前にいるあたしじゃなくて、いい加減な情報の方を信じたってことなんでしょ」
自分の言葉がまるで傷口に塗り込められた塩のようにヒリヒリと心に浸食してくる。また涙がこぼれそうになったから下唇をぐっと噛みしめると、日高くんはそんなあたしを案ずるように手を伸ばしてきた。
「ののか、」
「………触らないでッ」
あたしはその手を思いっきり叩いた。今こんなめちゃくちゃな気持ちのときに、日高くんの大きくてあったかい手なんかで触られたくなかった。やさしくなだめられたら、もっとみじめな気持になるってわかっているから。
「ひどい。………ひどいよ日高くん………」
響ちゃんの方が大事なくせに、半端に情をかけないでほしい。ひどいことをしておいてまだあたしにやさしくしようとする日高くんのことも、それに縋りたくなってる自分のことも許せなかった。
「妊娠って、なんなの……?あたし、赤ちゃんを産むの……?……怖いよ……信じられないよっ……あたし、いつか好きな人と付き合って、結婚して、そうやって赤ちゃんって授かるものだと思ってたのに………まだ全然先のことだけど、いつかきっと自分の家族をつくりたいって、そういうささやかな夢があったのに………全部めちゃくちゃだよ……こんなの、ないよ………ひどすぎる……っ……あたし、まだキスだってしたことがないのに…………」
恨みの言葉を吐かずにいられなくて日高くんをにらみつけたまま非難し続けていると、日高くんが急にあたしに詰め寄ってあたしの頬に片手を添えてくる。あたしが驚く間もなく、日高くんは急にあたしの唇に自分の唇を押し付けてこようとする。
「……………こんなときに何考えているのッ!!」
キスしてこようとした日高くんを平手で思いっきり引っ叩くと、避けもせずにその一打に甘んじた日高くんは静かな声で言った。
「『海来玉』はとても清廉な命の
「……ながれる……?」
その言葉の不穏さに、お腹の奥がまたきゅっと痛み出す。
「だから『海来玉』を宿し懐妊している期間は、花嫁御寮はキスやそれ以上の行為……つまり男女の営みを決して交わしてはいけないんだ。たとえ相手が父親である海来神だとしても、そういう行為に及んだ途端『海来玉』は……赤ん坊はすぐに
妊娠していると聞かされたとき以上に、あたしの背筋はすぅっと冷えていった。
「それだけのことで、流産、しちゃうの………?」
「………『和合の儀』を終わらせることは、穂高を助ける最後の望みでもあった。でもののかを望まぬ懐胎でこれ以上苦しませるくらいなら、俺は」
そういって日高くんは再びあたしに顔を寄せてくる。本気でキスしようとしているのが分かったから、あたしは両手で思いっきりその体を突き飛ばした。勢いが強すぎて、あたしも日高くんに乗り上げる恰好で床に転げる。
「最低だよ、日高くん」
あたしは日高くんに馬乗り状態になったまま、日高くんを見下ろして言う。
「日高くんは、命をなんだと思ってるの?自分の都合で勝手にあたしのお腹に命を宿らせておきながら、そんなあっさり流そうとするの……?」
「………ののかにとっては望んでいない妊娠だろう。花嫁御寮になることも、ほんとうの意味でも承諾していなかった。だからすべてを取り消す。………俺の権限のすべてを持って、今日限りののかを『花嫁御寮』の役から解放する」
それは今の日高くんにとって、最大限の気遣いなのかもしれない。でもあたしは脳天にハンマーを打ち付けられたような衝撃を味わっていた。こんな形での妊娠なんて、たしかに望んだことじゃない。でもこんな唐突に、いらなくなったモノみたいに放り出すなんて、あんまりだ。
「ののか、だから一瞬だけ我慢してくれ。そうしたら全部なかったことに出来る」
「………日高くん、それ本気で言ってるの?赤ちゃん突然できるなんて怖いしひどいし許せない。でも、でもこの子、日高くんの子なんでしょ?……それにあたしのお腹にいるあたしの赤ちゃんでもあるんだよ?それをそんなに粗末に扱うことが出来るの?………簡単に流れるって何?流産させることになんの罪の意識もないの?」
声が震えている。視界も涙でぼやけてきている。お腹に宿っているモノのあまりの儚さにうろたえ、それを流そうと言った日高くんに愕然として心はもうぐちゃぐちゃだった。
「流しちゃえばなかったことに出来るなんて、本気で思ってるの?………あたしのためみたいな言い方しないで。どこまであたしの気持ちを踏みにじれば気が済むのよッ」
蒼白になった日高くんは、それでもあたしからのどんな批難にも甘んじるという覚悟をその顔に刻んでいた。弁解すらしてくれないその顔に、ヒビだらけのあたしの心はバラバラに砕けた。
「人のファーストキスをそんな悲しいことに使おうとするなんて最低だよ……日高くんなんてもう大嫌いッ!!」
日高くんら飛び退くと、あたしは襖を乱暴に開けて部屋を出て行く。
「ののか、待って、」
すぐに日高くんが追って来る。引き留めようとする日高くんにあたしも本気で抗うけれど、日高くんも諦めずに食い下がってこようとする。
「離してッ」
攻防していると、不意に誰かが割って入ってきた。人の
「………右狐?」
『ののか様、お行きなさい』
なんでいつも意地悪だった右狐があたしの味方をしてくれるのか分からなかったけれど、今はとにかくすこしでも日高くんと離れたくて右狐に任せてあたしは階段を駆け下りていく。
『日高比古。今はののか様をおひとりにしてさしあげてください………今のあなた様にもののか様にも時間が必要です』
その声を背後に、あたしは貝楼閣を飛び出した。
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