神力の満ちゆく旦那さま


(うぅー、キモチワルくないっキモチワルくないっキモチワルくない……っ!!)


 保健室のベッドに体を沈めながら胸の中で呪文のように何度も何度も繰り返して、込み上げてくる吐き気をやり過ごそうとする。それでも堪えきれず、あたしは慌てて起き上がって保健室の奥にあるトイレに駆け込んだ。


「…………っ……ぅえッ………ぐっ」


 今朝はフルーツくらいでたいして食べていないはずなのに、喉の奥から何か熱いものがせり上がってきて便器を覗き込むように前屈みになる。すると徹底的に胃の中を空っぽにしようとするかのように体の奥が痙攣してきて、あたしはそこで何度も何度も吐き続けた。


--------あたしの体に、今、何か普通じゃないことが起きている。


 それだけは間違いないのだけれど、不調の原因が分からないままだから、あたしは苦しさに喘ぎながら不安でぐすぐす泣き出した。


「………も、……やだ…よぉ…………」


 先週から体調を崩しているあたしはもう何度も学校を休んでいて、今日みたいに「大丈夫そうかも」と思っていざ学校にきても急に体調がおかしくなることばかりだった。だから近頃はすっかり保健室登校状態になっていた。

 熱は微熱程度しかないし、鶴子さんの孫娘で豊海村で診療所を開いている女医さんにお邸に来てもらったけど、その先生の見立てによるとあたしは風邪だとか何か怖い病気に罹っているわけではないらしい。だからこんなに具合が悪いのにお薬すら処方してもらえず、ただ「無理をなさらず安静にお過ごしください」とだけ言われた。


「おーい。早乙女さーん。入ってるの早乙女さんだよね、また吐いてるのー?」


 突然ノック音とともに、ドア越しに養護教諭の竹田先生が声を掛けてくる。胃の中身を吐ききった後、口をすすいで身支度を済ませてから保健室と直結しているトイレを出て行くと、パンツスタイルの竹田先生が今日も豪快に足を組んで自分の席に座っていた。


「やっぱ早乙女さんか、来てたんだね。先生今まで来月の徒歩遠足の打ち合わせで花田先生に捕まっててさ。空けてて悪かったよ、大丈夫だった?」

「………はい。……いつもすみません……」


 いつもトイレで吐き散らかしてばかりで申し訳なく思っていると竹田先生がちょっとオーバーリアクション気味に手を振った。


「いいのいいの、具合の悪い生徒がそんな気を遣わないの。トイレなんていくらでも好きに使ってちょうだい。……それより、いい加減今日こそは検査してもらうからね!」


 竹田先生は立ち上がると、黒いショルダーバッグの奥に忍ばせていた“あるもの”を取り出す。


「ほら、他に誰もいないから今がチャンスだよ。お代はいらないから、ちゃっちゃと調べちゃいな」


 そういって先生があたしに手の中に無理やり押し付けてきたのは、「お買い上げありがとうございます」のテープが貼られた細長い小箱。……テレビドラマや漫画の中でしか見たことがなかったそれは、妊娠検査薬だった。

 竹田先生は先週はじめてあたしが保健室に来たときから、あたしのこの状態が妊娠の初期症状なんじゃないかと疑っていた。そして他の生徒がいないタイミングで何度も「調べておいたほうがいいよ」とこっそり耳打ちしてきた。でもあたしが一向にそのアドバイスを聞き入れないでいると、先生は痺れを切らしてあたしのためにこの検査薬をわざわざ自腹で買ってきてくれたようなのだ。


「早乙女さん、まだ先生のこと信用出来ない?聞いてほしいなら検査結果のこともこれからの相談もちゃんと聞くよ?けどここで話してくれた内容は早乙女さんのカレシくんにも、親御さんにも、学校の友達にも、先生は絶対言わないよ。約束する」


 いつもはサバサバしているけれど、今あたしに語りかけてくれている先生はとてもやさしい表情をしていた。今は『教師』ではなく三人の娘さんを持つという『母親』としての顔をあたしに向けてくれているのだろう。先生の気遣いはほんとうに有難いし、本当にそういうことで悩んでいる女の子がいたらものすごく心強いだろうとは思う。……だけどあたし相手じゃあまりに見当違いな心配だ。


「………だから先生、妊娠だけは絶対100%ありえませんっ!!……だって何度もいいますけど、あたし、その………まだシタことないんですからっ」


 何度も何度も先生に説明したことだけど、何度言ってもこのはずかしさに慣れることはない。


「はいはい、そういうことにしておきましょうか。でもカレシはいるでしょ?同じクラスの皆礼くんだっけ?」

「ひっ、日高くんは、カレシとかそういうわけじゃ、」

「すっごいよね、皆礼くん。休み時間の度に早乙女さんのこと心配して保健室通って来るし、今の子にしてはめずらしくどんなに周りに揶揄われようと顰蹙買おうと全然動じずに早乙女さんへの愛貫いてるし。なかなか見所のある男の子よねぇ?」


 そういって竹田先生はにやにやと教師らしからぬ面白がるような笑みを浮かべて揶揄ってくる。


「昨日も早乙女さんが食欲ないって言えば『すこしでも何か口に入れた方がいい』っていって、うちの購買で扱ってたジュース、棚の端から端まで全種類コンプリートして両手いっぱいに抱えて来たしねぇ。このデスクの上にそれずらっと並べて『ののか、どれでも好きなもの飲むといいよ』なんて言ってくれてさ。

 皆礼くん、めちゃくちゃ熱烈で早乙女さん好き好きオーラ出しまくりの、ステキなカレシじゃない?先生もあんな風にオトコから姫扱いされて大事に大事にされてみたかったわー」


 竹田先生に朗らかな声で笑われるたびに、あたしははずかしさでその場に溶けてしまいそうになる。そう、日高くんは弱っている女子には滅法やさしいらしく、先週からちょっとやりすぎなんじゃないかとツッコミ入れたくなるくらいあたしのことを甘やかしまくっているのだ。


 お邸からバス停まで歩かないで済むように当然のように神力を使ってくれるし。家事は免除どころか『全面禁止』という通達を女中役さんたちに出してしまったし。あたしが何かすっぱいものとかさっぱりしたものなら食べられそうだというと、お邸に食材の配達に来てくれる『御用聞き役』のおにいさんに最高級品種のみかんだとか梅干しだとか、有名洋菓子店のフルーツゼリーだとかお取り寄せさせて届けさせるし。教室で気持ちが悪くなりすぎて身動きとれなくなってしまったときなんて、授業中だったのに迷いもなくあたしのことを抱きかかえて保健室まで連れてってくれたし。


(でもっ……さすがにみんなの前でお姫さま抱っことか、あれはホント、はずかしすぎて死ぬかと思った………!!)


 つい数日前のことを思い出しただけで、あたしはやり場のない恥ずかしさでこの場にのたうちまわりたくなる。


「早乙女さん?大丈夫?また吐きたくなった?」

「う………いえ、大丈夫です……」

「それにしても早乙女さん、体調不良長いよね。やっぱ検査しちゃいなって。……もしも陽性だったとしても、あの皆礼くんだったらきっと早乙女さんの味方でいてくれるよ。もちろん先生もついているしね」

「だ、か、らっ!!ないですからっ。あたしはまだ経験したことないんですっ」


 処女なんだから妊娠検査なんてするまでもないと主張を続けると、先生はあたしをトイレに追いやりながらやれやれと肩を竦める。


「先生が前の学校にいたときもさ、間違った避妊の仕方を鵜呑みにして、まだカレシもカノジョも二年生になったばかりなのに望まない妊娠しちゃったカップルがいたんだよね。ほんとに仲のいい二人だったのに、双方のご両親と学校の先生たちも巻き込んで、産むの産まないの慰謝料だの退学だの、そりゃあすごい修羅場になってね。……あのとき先生は、泣いてるあの子たちにどうしてあげることも出来なかったんだよ」


 先生は手を差し伸べられなかった当時の後悔を噛み締めているのか、なにか苦いものを無理やり飲み込んだような顔をする。


「……先っちょだけで奥まで入れてなきゃまだエッチしたことにはならないだとか、外に出せば大丈夫だとか、危険日以外は避妊しなくてもオッケーだとか、それって全部デタラメなんだからね?

 あとね、過信してる人多いけど、たとえコンドーム使ったって100パー避妊出来るわけじゃないんだよ?正しく装着出来てなきゃ避妊の効果なんてあってないようなものだし、アレってただ適当に被せとけばいいってわけじゃないって知ってた?そのあたりのこと、早乙女さんはちゃんとカレシくんとは勉強済みなの?」


 先生の話の内容のあまりのキワどさに抗議したくなったけど、先生の顔を見たら文句の言葉はひとつも出てこなかった。先生はあくまでも養護教諭として、性のことを真面目にあたしに諭そうとしていた。その真剣な目に「あなたの体を守るためなんだよ」と言われている気がして、持たされた検査薬を手にしたままあたしは大人しくトイレに入っていった。





「ごめんごめん。でも早乙女さんさ、私が娘ら妊娠してたときとあんまり様子が似てたからさ」


 トイレから出て使用済みの妊娠検査薬を先生に見せると、先生はすごく申し訳なさそうな顔してあたしに謝ってきた。なんでも先生は娘さんを授かったとき常に吐き気をもよおすひどいつわりに悩まされ、そのせいでほとんど何も食べられなくなって体重が一ヶ月で六キロ以上も減り入院までしたらしいのだ。


「いえ。たしかに先生のお話聞けば聞くほど、今のあたしの症状とすごいそっくりですもんね。先生が勘違いするのも無理ないですよ」

「早乙女さんまだ生理来てないっていうし、先生はこりゃ間違いないって思っちゃったんだよ」


 そう言いながら先生がスティック状の検査薬を蛍光灯の明かりにかざしてじっと見つめる。それから「うーん。やっぱ真っ白だ。うっすらな線すら出てない。疑う余地もなく、どう見てもこれ陰性だわ」と唸った。絶対に陽性反応が出るわけがなく、検査薬を一個無駄にしてしまったわけなんだけど、とりあえずこれで妊娠の可能性がないことを先生に納得してもらえたのでほっとした。でも安堵するあたしの顔を見て、先生はこそっと言ってくる。


「………検査薬、箱にもう一本あったでしょ?保健室にこっそり置いておくからさ、もしあともう一週間しても生理こないで吐き気とかだるさとか治まらなかったら、もう一回調べてみるんだよ?」


 ここで同意しておかないと先生が納得してくれないと思ったから、あたしは浅く頷いておく。


「そうだ、もうすぐお昼になるけど早乙女さん今日は何か食べられそう?」

「………無理っぽいです。また水分だけ摂っておきます」

「そっか。でもほんとにどうしちゃったんだろね?……先生もお医者さんじゃないからはっきりとしたこと言えないけど、妊娠でも病気でもないなら、あとはストレスが原因とかかな?」


 そういわれても、連日吐き倒すほど強烈なストレスなんて身に覚えがない。


「早乙女さん、たしか東京の世田谷区からこっち越して来たんだよね?この辺はさ、虫やたらデカいし、家にゴキブリにネズミ、イタチ、ヘビ、わりとふつうに出るし。不便で都内にあるような小洒落たカフェもなくてデートする場所にも困るし。……正直田舎暮らしはキツかったりする?」


 あたしは即座に首を左右に振る。もともとこっちはお父さんの実家があった慣れ親しんだ土地だし、あたしも越して来るのをたのしみにしていた。「豊海村は海も空気もきれいで昔も今もとてもだいすき」だというと、先生は腑に落ちない顔をしつつもさらに聞いてくる。


「今は全然食べられないみたいだけど、本当はごはんもおやつも食べるの大好きだって言ってたよね?無理なダイエットで拒食症になったわけでもないんでしょ?あとは家庭の問題?……でも早乙女さんちって家族仲いいみたいだしねぇ」


 なんでそんなこと先生が知っているんだろと思っていると。


「この前高槻島でやってた早乙女さんのお母さんの個展でさ、受付にいたやさしそうな男の人がお父さんなんでしょ?」

「あ、はい。……先生、わざわざあんな遠くまで見に行ってくれたんですか?」

「うん、実はさ、先生のお姑さんが茶道やってて、茶碗とか花器とか見るの好きでね。そのお付き合いで行ったんだけど早乙女綾子さんの作品、よかったよ。でもご本人は作品以上にキャラが最高だったね。……その明るくて社交的なお母さんと、物静かで知的なお父さん。いかにも仲がよさそうでステキなご夫婦だよね」


 先生に言われた途端、初対面の来場者さんと陶芸作品のことだけじゃなくて世間話までしてすぐに打ち解けて盛り上がってしまうお母さんと、それを窘めるお父さんといういつもの光景が目に浮かんできてしまい、ちょっとはずかしくなってきてしまう。


「……ステキってわけでもないけど、両親の仲はいいです。あたしも自分のウチ、好きだし……」

「だよね。問題なんてなさそうな、いかにもいい家庭築いてるご夫婦って感じだった。………あとストレスっていえば成績関係?でも早乙女さんべつに成績も悪くないみたいだし、まだ一年生で連日吐き散らすほど進路を悩む時期じゃないしねぇ。となると、やっぱアレかな。恋愛方面で深ぁーい悩みがあるとか?」


 先生は好奇心満々って感じじゃなくてあくまでさらっと聞いてくる。


「傍目で見てるとさ、皆礼くんはちょっと過保護すぎるけどカノジョ思いのいいカレシに見えるんだけどね。でも実は何かカレシのことで困ってたり悩んでることがあったりする?」


 頭に浮かんできたのはどれも悩みともいえない些細なことなんだけど、日高くんのことを思い出したあたしは、なんだか胸がモヤモヤしてくる。


「あんな無害そうな顔して、皆礼くん実は超束縛魔だとか、ヤキモチ焼きがひどすぎるとか、なんでも自分の言いなりにさせようとしてくるとか、そんな困ったくんな一面があったりしない?」

「………そんな。日高くんはそんなひどいことするような人なんかじゃありません」

「でもさ、最近はそうとは気付かずにカレシからデートDV受けてるような子も多いみたいだよ。叩いたり殴ったりする以外でも、言葉のDVっていうの?それで心ボロボロにされることもあるんだ。心を痛めつけられると不眠や鬱やいろんな不調が体に現れるし、それに」

「先生っ……!!いくら心配してくれてるんだとしても、それ以上日高くん疑うようなこと言ったら怒りますよ!?」


 あたしは顔をぐっと先生の眼前に突き出して言う。


「日高くんは、ほんとにすごくやさしい人です!……あたし、両親以外であんなに親身になって心配してくれて気遣ってくれる人、他に知りません。ほんとに。ほんとにやさしい、いい人なんですっ!!」

「そっか。………ならよかった。『カレシじゃないです』とか言いつつ、やっぱ早乙女さんも彼のこと大事に思ってるんじゃない。なんて言うんだっけ、そういうの。ツンデレ?」


 どうやら先生に揶揄われていただけみたいだと気付いて、あたしはぶわっとはずかしくなってくる。


「もう、先生っ」

「あはは、ごめんごめん。……正直言うとね、最初はなんで早乙女さんみたいなコが、よりにもよってあんな地味でぱっとしない男子選んじゃうかな、もったいなーいって思ってたんだけどねぇ。でもいいよね、彼。最近なんか雰囲気変わったしさ。………お、噂をすればあれカレシくんじゃない?」


 そういって先生が窓の外に目を向ける。そこにはこの保健室がある『特別棟』と教室がある『普通棟』を繋ぐ廊下があって、往来する人の姿がここからだとよく見えた。


(ほんとだ、日高くんだ………)


 日高くんはその手にペットボトルを持っていた。たぶん最近あたしが気に入っている、グレープフルーツフレーバーの炭酸水だ。お砂糖とか甘味料が一切入っていないスッキリした飲み口で、食欲がないときでもそれなら唯一飲むことが出来た。


「なんでだろ。愛するカノジョの影響なのかな?イマイチくんだったはずの彼、日に日にいいオトコになっていくように見えるよね?」


 廊下を歩いてくる日高くんに視線を向けていると、まるで先生の言葉を裏付けるかのように、窓の向こうで日高くんとすれ違った女子の集団が名残惜しそうに振り返って日高くんを熱いまなざしで見つめていた。


 どういうわけなのか、あたしが体調を崩しはじめた頃から日に日に日高くんはかっこよくなっていた。もともと顔のパーツはそれぞれとてもきれいに整っているけど、そのわりに日高くんは不思議なくらい印象が地味すぎる人だった。

 でも制服の着方や髪型を変えたわけじゃないのに、日高くんの残念な印象は日を重ねるごとに変わっていき、見違えるほどのものすごい美男子になっていった。周囲の今まで日高くんに見向きもしなかった女の子たちまで、「皆礼くんってあんなイケメンだったっけ」「どうして今までノーマークだったんだろ」なんて騒ぎはじめた。


 響ちゃんが言うには、どうも日高くんの見た目の印象の変化は日高くんの身に神力が満ち始めていることと関係があるらしいのだ。


『和合の儀を無事に終えると、日増しに海来神の身に神力が満ちていくのよ』


 この前祈祷のお務めのために日高くんが学校を早退して、響ちゃんと久々にふたりきりで下校していると響ちゃんはあたしにおしえてくれた。


『早乙女さんの目には今までちゃんと見えていなかったのかもしれないけど、もともと日高は地味どころかあんな美しい顔立ちをしていたのよ。いえ、まだ早乙女さんには完璧には見えてないんでしょうね、海来神がどんなにきれいな顔をした、どんなに輝かしい存在なのか』


 どうやら霊感のある響ちゃんには、ずっと日高くんの『本当の姿』が見えていたらしい。本当の姿というのはあたしも何度か見たことがある、神力を使っているときのあのあまりにきれいすぎて人間離れした姿のことなんだろう。


『知っていた?日高は本来は人なんかが隣に並ぶことすら恐れ多くなるほどの美貌の持ち主よ。……日高の神力がもっと高まれば、早乙女さんみたいに力が備わっていない人にもそれを見て理解出来るはずよ』


 周囲の女の子たちから反感を買ってしまうほど美少女である響ちゃんにそこまで言わしめるほど、本来の日高くんの姿というのはあまりに圧倒的にきれいなのだ。今だって『かっこよくなった』って言われて十分女の子たちの目を惹いているのに、これからまだまだもっときれいにかっこよくなってしまうなんて、他の女の子たちがますます日高くんを放っておかなくなるだろう。


 前は同情的に「今時許嫁とかありえないし、あんな冴えないヤツにカレシ面されるなんて、早乙女さんカワイソー」とか陰で言ってたのに、今じゃやっかみ気味に「早乙女さんってどうやって皆礼くんの許嫁になれたの?」なんて探りを入れてくる子までいる。そんな日高くんに常に傍にいてもらって気遣われているあたしは女の子たちから羨ましがられることが多くなったけど、日高くんとあたしは本当の許婚でも恋人でもない古い神事のしきたりに縛られただけの関係だ。それを思うとあたしの胸の中はフクザツだった。


「失礼します」


 コンコンというノックの後で日高くんの声が聞こえてきた。先生は慌てて手にしていた使用済みの検査薬を隠しながら「はーい」と返事をする。


「1年2組、皆礼です」


 扉の向こうで日高くんが名乗る。よく通る、きれいな声だ。ちょっと前まではすこし眠たげに聞こえるほどやわらかな声だったのに、今の日高くんの声はきれいな容姿に見合った、とても凛としていて聞いているだけで耳が澄んでいくような清涼感のある声に変化しつつあった。クラスの女の子たちは「声もオトコマエだったんだ」とか「実はイケメンボイスだよね」なんて騒いでいて、あたしもその美声にいつもうっとりしてしまう。


「先生、同じクラスの早乙女ののかの体調を見に来ました。入室してもいいですか?」


日高くんが扉越しに用件を述べると、竹田先生が「はいはい、入ってよろしい」と応じる。日高くんは入室してくるなり、立ちっぱなしだったあたしを見て表情を曇らせた。


「ののか、起きてて大丈夫なのか?」

「………うん。吐ききったら、なんか今は落ち着いたよ」


 あたしがそう言っても、日高くんは心配そうな顔をしたままだ。


(………きれいな顔)


 毎日毎日見ている顔だけど、目の前にいる日高くんについ見入ってしまう。きれいな目も、バランスよく輪郭に収まっている鼻も唇もどれも完璧なかたちをしている。

 あまり社交的でない日高くんはクラスメイトや周りで騒いでいる女の子たちにも興味がないらしい。だからあたしは贅沢なことにお邸にいるときはもちろん、他の生徒がたくさんいる学校でだって日高くんをほぼ独占させてもらってるような状態なのだ。


「また吐いてたのか?………やっぱり無理させるんじゃなかった。今日は休ませるべきだった」

「ううん、たぶん午後は授業、出られると思うよ?」

「じゃあなにか胃に受け付けそうなものはあるか?あるなら何か購買で買ってくるけど」

「ありがと。でも今はいいや。もうすこし、5限はじまるまで休んでたいかも」


 あたしがそういうと、日高くんはすぐさま「先生、ベッドお借りします」と言ってあたしをベッドに向かわせる。


「この炭酸水、ののか気に入ってたみたいだから枕元に置いておく。自由に飲んで」

「うん、わかった。ごめんね、いろいろしてもらっちゃって」


 日高くんは即座に「具合が悪い時くらい気にするなよ」と言ってくれる。


「俺に出来ることなんてたいしたことじゃないんだし」

「でもうれしいよ?感謝してます」

「………ああ。わかってる」


 そんなやりとりをしていると、すこし離れた場所からくすっという笑い声が聞こえてきた。竹田先生だ。先生はにやにやとなんだかうれしそうに笑いながらあたしたちを冷かしてくる。


「いやあ。相変わらずのラブラブっぷりだね、おふたりさん。40過ぎのオバサンにはその若さ目に毒だわぁ」


 あたしと日高くんは途端に決まりが悪くなってお互いに目を逸らし合う。竹田先生はまだ意味ありげに笑いながら日高くんに目を向けた。


「こんなに大事に大事にしてるカノジョを、皆礼くんが粗末に扱うわけないか」


 先生が独白のように言うと、日高くんが怪訝な顔をして先生を見る。


「いやね、避妊もしないでエッチ迫ったり、そういう早乙女さんが吐くまで思い悩んじゃう無知でキチクな所業を強いて彼女困らせてるんじゃないかって、私君のことちょっと疑っちゃってたのよ。ごめんね?」


 身に覚えのない嫌疑を掛けられていたと知ったせいか、謝られた日高くんはなんとも言い難そうな顔をする。


「あ、でもね。周りの大人に聞けないことで悩んだりしたら、二人ともいつでも相談にきてくれてかまわないからね?先生だって鬼じゃないんだから、仲のいいカップルにエッチをするなとか高校生にはまだ早いだとか、そんな現実味のない指導なんてしたりしないから。正しい知識で正しいセックスをして、皆礼くんも早乙女さんも、これからも正しい男女交際を楽しんでね」

「もう、先生ッ」


 あたしひとりのときならまだしも、日高くんと一緒にいるときにこんな話題を振られるのはさすがにこの場から消えてしまいたくなるくらい恥ずかしい。いや、恥ずかしいの通り越して怒りすら沸いてくる。


「だからあたしたち、ほんっとにそういうんじゃありませんからっ。それに仮にそういう感じの関係があるんだとしても、日高くんは真面目でちゃんとした人で、いきなり女子に赤ちゃん出来るようなことするとか、そんないい加減なことなんてぜえったいしませんから!!その手の心配はご無用ですっ」

「あれま、皆礼くんは随分信用されているんだね?カノジョの信頼裏切らないように、これからも好きな女の子の体はカレシの君がちゃんと気にかけてあげるんだよ?結局何かあったときにいちばんしんどい思いするのはいつだって女の子の方なんだからさ」


 先生は半分からかうような口調で言ってる。


「わかったから、もぉそんな話やめてくださいっ」


 これ以上おかしな話題を振られ続けるのがイヤで、あたしは必死になって先生の口を塞ごうとする。だから背後で日高くんがそのときどんな顔をしていたのかなんて、あたしには見えていなかった。






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