女狐男狐
「なにも『一緒にお風呂に入って』って頼んでるわけじゃないんだし、そんなに怒ることないじゃん……っ」
自室で替えの下着とかパジャマとかお風呂の支度をしつつ聞こえよがしに文句を言ってやる。でもあたしの部屋の前に立っている日高くんはまだ怒りが冷めやらないという様子でむすっと黙り込んでいた。
「ちょっとお風呂についてきてほしいっていうか、ただ脱衣所で待っててもらいたいだけなのに」
「………つまり早乙女は公認で、俺に覗きをしろと言いたいのか?」
日高くんは廊下と部屋とを仕切る襖一枚越しに、ツンツンした声で返してくる。
「は……?のぞき……??」
「だって見てくれっていわんばかりの状況だろ、それ」
「もお何言ってるのっ、違いますっ!!」
「我が儘言えっていったのは確かに俺だが。面目ないがさすがにそれはお断りだ」
「違うってば。ちょっと話聞いてよっ」
日高くんは潔癖なのか硬派なのか、自分が女子のお風呂に付き添うなんてとんでもないことだと思っているらしい。あたしの感覚としては、ちょっと脱衣所に待機しててもらうだけでふたりでお湯に入るわけじゃないんだし、ただ一緒に銭湯に通うようなものだと思っているんだけど。
「ひとりで湯船に入るのはちょっと怖いけど、さすがにあたしもお風呂場の中まで日高くんにずっと見守っててほしいだなんて言わないよ??そこまで図々しくも恥知らずでもありませんから!ただ脱衣所で待っててもらって、その間にさっきの読書の続きでもしてもらえればなって思ってるんですっ」
あたしの必死の説得に日高くんはなぜかわざとらしくはあ、と重いため息をつく。
「……素で言ってるんだとしたら手に負えない。もういっそ腹黒悪女じゃなければ許せないレベルだな」
「へ?」
「早乙女に生殺しって言葉の意味を教えられるとは思わなかった。………その状況じゃどんなひどい目に遭わされたとしても文句言えないって分かってるのか?」
意味はよくわからないけど、どうも日高くんはあたしのことを責めているようだ。あたしはまたすこしむっとしつつ、両腕にお風呂の支度を抱えて立ち上がった。
「お待たせしました。日高くん、お願いだからお風呂ついて来てくださいね?」
襖を開けるとあたしは逃がすかとばかりに廊下に立っていた日高くんの服を掴んでお願いする。すると日高くんはまたため息をついてあたしの顔をじっと見てくる。その目付きがひどく鋭い。
「本当、女子って意味分からない。全然本性見切れない」
そう言ってあたしの目を上から覗き込んでくる。こうして間近にいると日高くんが印象よりも結構背が高いのがわかる。
「俺の目にはどう見ても悪い女になんて見えないけど、それも計算の内だったりするのか?」
「…………ちょっと、日高くんっ。顔、近いよ……っ」
日高くんがだんだん前屈みになって顔と顔の距離が徐々に詰まっていくのが恥ずかしい。あたしは慌てて一歩下がるけど、背中に襖が当たった。これ以上は下がれないのに日高くんはますます距離を縮めてくる。今の日高くんのポーズだけ見れば、女子は誰もがこのままキスされちゃう姿勢だと思うはずだ。日高くんからこんな仕打ちを受けるのはこれで何回目だろ。……ほんとに思わせぶりな困ったひとだ。
「もうっ……日高くんってば近すぎッ!!」
日高くんを叱咤する自分の声を聞いた瞬間、あたしはどうしようもなくうろたえた。
(やだ、なに今のあたしの声………っ)
あたしは日高くんの態度に困惑しているはずなのに、でも今の声のどこかに照れや甘さが滲んでいるようないないような。そんなふうに聞こえてあたしはますます恥ずかしくなる。
(シチュエーションに流されてるだけなんだろうけどさ。……でも『神婚』って、なんかちょっと疑似恋愛してる気分になりそうかも……)
ただのクラスメイトのままだったら、日高くんとあたしがこんな近い距離にいることはありえなかった。一緒にご飯を食べることも、一緒に登下校をすることも、趣味の話を聞くことも。女の子同士ならともかく、男子相手じゃ親密になった相手とじゃなきゃ絶対にしないようなことを、今日あたしはたくさん経験してしまっている。
あたしも人並みに恋愛とかカレシに憧れを抱いているから、たとえ『ごっこ』とか『フリ』だとしても男子から迫られているようなシチュエーションにはドキドキしてしまうし、日高くんと心理的にも物理的にも距離の取り方が分からなくて『夫婦役』っていう状況にちょっとクラクラしてしまう。
(『神婚』であたしと日高くんが夫婦のフリをするのって、まさかキスとかも込みのフリなのかな……?)
そんなことを考えて自分で自分をさらに恥ずかしさで追い詰めて顔を熱くさせていると、日高くんは唐突にあたしからすっと退いた。ほっとするより、なんだか拍子抜けだ。別にキスを期待してたわけじゃないんだけど……なんかなんともいえない気持ちだ。
「早乙女、風呂はどっちに入りたいんだ?一階の内風呂?それとも三階の露天?」
何事もなかったような顔して日高くんは聞いてくるから、その澄ました顔にムカっとしてくる。今日は日高くんとちょっと仲良くなれたような気がしてうれしかったけど、それ撤回。この人要注意人物だ。心、もてあそばれないように気をつけなくちゃ。
「一階の方が手狭な分、怖くないと思うから内風呂でいいか?」
言われて瞬間的に脳裏に昨晩のことが思い浮かんで、全身にぶわっと鳥肌が立つ。
「絶対イヤッ!!あたし、昨日そこですっごい怖い目に遭ったんだもん……っ。一階のお風呂だけは絶対イヤッ」
「………昨日は風呂場にまで何か神々が入り込んでいたのか?」
「そうだよっ、お風呂から出たら脱衣所の電気消えて、青白い人魂がたくさん浮かんでっ、それで鏡からどろっどろの影が出てきて!!」
「ちょっと待て早乙女。今『青白い人魂』って言ったか?もしかして狐火を見たのか?」
日高くんは急に怖い顔になる。
「う、うん……?」
「まったく。あいつらには一度釘を刺しておかないとな」
そう言うと、日高くんは大股で隣の自分の部屋に入っていく。
「
日高くんは誰もいない部屋に向かって、大きな声で怒鳴る。
「ちょっと、日高くん、どうしたの?」
日高くんは、なぜか壁際に下がっている制服の学ランを睨みつけながら鋭い声で言った。
「おまえたち、今すぐ出てこいッ」
その瞬間、誰も触っていないのに学ランの胸ポケットがモゾモゾと動き出す。
「きゃあっ、な、何っ!?」
そこには確か日高くんが万年筆を二本挿していたはずだ。高校生にしては渋い持ち物だったから記憶に残っていた。あたしが思わず日高くんの腕に飛びつくのと同時に、肉眼でははっきりと視認できないスピードで霧のような
『お呼びでしょうか、我が主さま』
『ご下名賜り幸いにございます』
現れたのはちいさなちいさな二匹の狐。ハムスターくらいの大きさだけど、体はまるで狩猟犬のように腹も脚も引き締まっていて、顎は尖り、釣り目で目付きは鋭い。いくら手乗りサイズでも可愛いだなんてとても言えないような狐たちだ。
「右狐、左狐。おまえたちは俺に言わねばならないことがあるんじゃないのか」
『はてさて』
『何のことやら』
怖い顔する日高くんに怯える様子もなく、ちいさな狐たちは惚ける。
「………ねえ、日高くん」
この狐たちはいったい何者なの?と視線で問うと、日高くんは狐たちに向かって「人の
「ユウキさんっ……!!」
『これはこれは花嫁御寮。あたくしの名を覚えていてくださったとは恐悦至極にございます』
ユウキさんは口先では慇懃なこといいつつ、釣り気味のその目はあたしを小馬鹿にするように細めていた。
「右狐ッ。おまえ昨日、早乙女のことを手酷く脅かしたようだな」
『さてさて何のことやら』
ユウキさんは着物の
「きゃあぁぁッ!!人魂ぁッ!!」
「ッ……早乙女大丈夫だから。これこそただのコケ脅しだから、狐になんて化かされたりするなって!右狐もいい加減にしろ、早乙女が怖がっているだろッ」
『この程度のものを見て震えあがるようでは、とても貝楼閣の女主人など務まりませんでしょうに』
『それに若も怯えた花嫁御寮に抱きつかれ、我らの目にはとてもうれしげに見えますが』
「………うるさい、黙れッ」
日高くんが厳しい口調で一喝すると、二人はその場に膝をついて日高くんに深々と頭を下げた。
「早乙女、ほんとに怖がらなくていいから。こいつらは一応、俺の使役だ。女の方が右狐、男の方が左狐。使役って分かるか?」
「ええっと。日高くんの命令をきいてくれる、使い魔みたいなもの?」
「そんなところだ。右狐と左狐はいわゆる
なんでも管狐というのは昔から日本にいる妖怪の一種で、『狐憑き』と呼ばれる特定の家系に代々取り憑いて富をもたらす一方で、人を呪い殺したり病気にしたりと恐ろしい力も持っているらしい。
日高くんのお家は『狐憑き』の家系だったわけではなく、日高くんのおじい様が学生時代たまたま旅行先で家系に憑いた管狐を持て余し困っていた家族に遭遇し、「見慣れなくて面白いから是非僕の使役にしてみたい」と言って引き取ってきてしまったらしい。
以来『憑き物』だった右狐と左狐は皆礼家の『使役』に格上げされ、海来神の眷属になったそうだ。使役になる際はおじい様と『人の生命に害を及ぼすようなことは決してしてはならない』と契約したため、人を祟ることもなくなったという。
ちなみに『
「なんか日高くんのおじい様って、すごい豪胆な人だったんだね」
「ああ。ここ百年くらいの海来の中でも特に飛び抜けた『神力』の持ち主だったらしい。あまりの力の強さに俺の父親も力を引き継ぎきれなかったほどなんだ。
この狐たちのこと以外にも、祖母を口説くために西洋旅行に行ったときには女の子が好きそうな可愛い妖精を日本に連れて帰ってきてしまったり、他の土地の神々と酒を酌み交わしてみたいって言って酒樽抱えて出て行ってそのまま数ヶ月帰って来なかったり。とにかく武勇伝には事欠かない人だったから、興味があったら今度早乙女にも聞かせるよ」
「うん、面白そう。聞いてみたいな」
『おやまあ。若と花嫁御寮は随分と打ち解けたご様子。これぞまさしく新婚の睦まじさ!』
『ホホホ、やはり男女が同じ床に入れば一晩で親密さも増すものなのでしょうねぇ!』
あたしと日高くんの会話を聞いて、狐たちは冷やかしの言葉を浴びせてくる。
「ああ、もうおまえたち、戻れ。それとこれから早乙女に対して立場を弁えなかったら、こちらにも考えがある。使役を外されたくなかったらよくよく心に留めておけ」
『承知致しました、日高比古。貪欲な我らを十二分に養ってくださる豪儀な方は、皆礼家の方々以外おりませぬ』
『先々代の
狐たちはそう言うと、ちいさな狐の姿に戻って再び日高くんの制服のポケットに帰って行った。
「日高くん。もしかしてあの二本の万年筆って……」
「あれはもとは祖父の持ち物でね。中身のコンバーターを抜いてあるからペンとしては使えないけど、狐たちが棲むのには丁度いい管状になっているんだ。……さて、話はこのあたりにしてそろそろ行くか」
一瞬なんのことだろうと考えて、すぐにお風呂のことだと思い出す。ついてきてくれるのはとてもありがたいけれど、なんで急にこんな態度を軟化してくれたんだろうって疑問に思っていると。
「はじめは右狐に早乙女の世話を任せようかと思っていたけど、昨晩の風呂場の人魂だとか鏡の中の影だとか、それが全部右狐のせいだったと知った以上、早乙女は右狐のこと信用出来ないのだろう?」
たしかに昨晩のアレは狐に化かされただけだったと言われても笑いごとでは済ませられないし、いくら日高くんの使役でもあんな怖い目に遭わせてきた狐さんなんて今は信用できないどころか傍にいるのもイヤなくらいだ。
「だったらもうこの家には俺以外いないんだし、しょうがないから俺が風呂について行くしかないんだろう?」
「ありがとうっ!!日高く、」
「感謝なんてしない方がいい。……狐に化かされるより、もっと怖い目に遭うことになるかもしれないんだから」
そう言って日高くんは唇を歪めて冷たくほほえむ。でもあたしは日高くんのその表情を怖いと感じるのではなく、別のことを考えてしまっていた。
(………わぁ。オトコノコに意地悪そうな顔されると、なんでこんなヘンな気分になっちゃうんだろ……?)
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