初恋の彼 【~祝宴の儀~】


(もうっ、やっぱただの紙切れなんじゃんっ!!)


 『祝宴の儀』が行われている宴会場で、あたしはお煮しめのお芋をもぐもぐ食べながら隣の空っぽの新郎の席を睨みつける。

 梅さんたちや響ちゃんの話からするとあたし同様今日の儀式のために海来様役に選ばれた男の人がいるみたいなのに、金屏風の前の豪華なお座布団の上に乗っているのは生身の人間なんかじゃなく、またもや『遠海勢玉来日高比古』と書かれたただの人形ひとがたの半紙だけだったのだ。


(あたしの目にだけ見えないってわけ?……まさかね。そんなわけあるはずないよね……)


 なんだかモヤモヤした気分のまま、お膳に用意されたお赤飯やお吸いものやおひたしをつぎつぎに口へ運ぶ。今日は朝から何も食べていなかったので、さすがに腹ペコだった。しかも梅さんたちが腕によりをかけてこしらえたお料理はどれも見た目も味も絶品で、あまりのおいしさにあたしは淑やかぶるのをやめてばくばく食べていた。

 こんな食い意地の張った花嫁さんなんてほんとはお行儀悪いのかもしれないけど、どうせ今この宴会場にいるのはあたしだけなのだから遠慮なんてなかった。



 『祝宴の儀』が披かれたのは神社の本殿ではなく、これからあたしが数か月の間寝泊りするお家の客間だった。その家は神社の敷地内にあって『おやしき』と呼ばれていた。

 『お邸』は海来神社の鎮守の森の奥にひっそりとある参道から、海岸沿いに向かってしばらく歩いた先にあった。てっきりこじんまりしたお家なのかと思っていたのに、海沿いの断崖にせり出すように建っていたのは、とても大きくて立派な、豪邸と呼んでもいいくらいのお屋敷だった。繊細にして重厚な木造の三階建ての建物で、まるで格式のある老舗の高級旅館のような佇まい。

 ちいさな子供の頃から何度も海来神社には来ていたけれど、陸地側から見えない場所に、こんなりっぱなお屋敷があるなんて知らなかった。


 響ちゃんに案内されてしばらく歩いてここまで来たとき、あたしはまるで異世界にたどり着いたかのようにひたすら驚いて『お邸』を見上げた。そして家の中に通されてまた驚いた。目にうつくしい和家具や美術品で飾られた室内は、外観にも負けないくらい豪華だったのだ。


 『祝宴の儀』が執り行われたのは『お邸』の二階にある客間で、それこそ旅館の大宴会場のような広さの部屋だった。そこには『祝宴の儀』に来た下さった神さまたちのために、お膳が100個くらいずらりと並べられていた。でももちろん神さまたちがいらっしゃってるになってるだけで、この客間にはあたし以外誰もいない。


 お膳のご馳走を食べているときは夢中になっていても、すべて食べ終えてしまうと、しんと静まり返ったこの部屋にひとりでいることが急に心細くなってきてしまう。はじめてきた場所で、おおきな部屋でひとりぼっちで、お供えのお膳が並んでいるのに誰もいないのは、改めて見るとなんだか不気味だった。


(もう食べ終わったけど、まだここにいなきゃいけないのかな?……いつまでここで座ってればいいんだろ)


 やることもなくて、意識は窓の外から聞こえてくる波の音に傾いていく。このお邸は断崖の上にあるせいか、聞こえてくる波音は浜辺とは違って激しく叩き付けてくるような力強い音だ。さっきちょこっとだけ廊下の窓から下を覗いてみたけれど、そこにあったのは水底が見えないくらい深く、次々に波が打ち寄せては砕ける荒々しくもうつくしい海の景色。

 “異界”っていうのはきっとあんな波間の奥、決して人の手の届かない場所ににあるんだろうなと思わされた。


(もうすぐ今日の儀式は終わるけど。……あの男の子、来てくれなかったな……)


 落ち込んだあたしは無意識に帯のあたりを触っていた。指でたどると、すぐにちいさなふくらみに当たる。おばあちゃんの作ってくれた匂い袋だ。

 今日一日、お衣裳を着替えるたびにこっそり帯の中にねじ込んでおいたのだ。帯の中に指を入れて匂い袋をさぐってみると、そこにはちゃんと丸いものが入っている感触がする。いつもお守り代わりに持ち歩いている、あの男の子がくれた蒼真珠だ。


(あの男の子に会ったのは夢だったのかもしれないって何度も思いそうになったけど……でも夢じゃなかった証にこの『蒼真珠』がある限り、あれは現実にあったことだったって思える。いつかあの子にまた会えるって信じていたいんだよね……)


 今日がその日になるって予感めいたものを感じていただけに、何も起こらないまま今日一日が終わってしまうことにがっかりしていた。


(あれからあたし、他に好きなひとは出来ないし……このままじゃ永遠に会えない相手のことを思い続けることになっちゃうのかな……)


 そんなことを思いながらお膳に乗っていたちいさな杯を手に取って、喉の渇きを覚えていたからいっきに杯の中身を飲み干した。途端に独特な味に気が付いて焦った。


(やだこれ。……今飲んだの、お酒だったの!?)


 アルコール度数の高いものだったのか喉を下っていくときにカッと体が熱くなり、いきなりぐにゃりと視界が歪んだ。あっという間に気が遠くなり、そのまま数秒だったのか数分だったのか、あたしは意識を失った。


 つぎに気が付いたときには、妙に騒がしい話声とざわめきが聞こえてきた。



『ほんに可愛らしい花嫁じゃ』


 その声は耳ではなく頭の奥に響いてくるように聞こえた。


『たかだか杯の一杯でもう酔うておる。おぼこいのう』

『顔なんて真っ赤じゃ。幼子のようでなんと愛らしい。食ろうてやりたいぞ』


 あたしのすぐそばから声が聞こえていた。頭はくらくらするけれどどうにか目を開けてみると、あたしの視界にとんでもないものが飛び込んでくる。あたし以外誰もいなかったはずの客間は、いつのまにやらたくさんの人で埋め尽くされていた。みんなご馳走を食べ、酒を酌み交わし、ご機嫌に舞を舞ってるものまでいる。


 とても賑やかで、誰もがたのしそうな顔をしている。でも、何かがおかしい。


 いちばん手前に座っているのは、白髪交じりのとても立派な体格のおじさんだけど、その背中には烏のような黒い羽が生えている。その隣に座っている首の長いおねえさんははまるで時代劇にでも出てくる花魁みたいな派手な髪型をしている。それだけならともかく、体は人なのに顔は獣面だったり、逆に人面なのに体は大蛇のようであったり。『祝宴の儀』を行っている客間に集っているのは、どう見ても人ではない、神さまとも妖怪とも知れない異形のモノたちだったのだ。


『今度の花嫁御寮はまた随分若いこと。餅のような肌のなんときれいなことよ』

『まだ数えで16の未通子じゃと』

『道理でのう。穢れなぞ知らん顔をしとる。なんと愛らしゅうて美味そうな娘かえ。……海来はこんな嫁御を貰うとは、ほんに羨ましいことよ』


 あたしのすぐそばには、おかっぱ頭のちいさな女の子と、猛禽類のような鳥面に鋭い嘴の男の人、そしてタコのようなぐにゃぐにゃしたたくさんの足を生やしたおじいさんがいて、あたしの顔をちらちら見ながら話し込んでいた。


(ななななにこれっ…………あ、あたし酔ってるんだ。きっと酔っ払っちゃんだよ……っ!!)


 あたしはそう思うことにして、目を閉じてまぶたにぎゅっと力を込める。だけどそれから目を開けても、一度見えてしまったものは視界から消えてくれない。やっぱりそこには異形のモノたちがあふれているのだ。


(………やだ。まさかこれが、『祝宴の儀』に招かれた神さまたちなの……?)


 だとしたらなんで霊感のないあたしは、急に見えるようになってしまったのだろう。……もしかしたら酔ったことで、なにか普通とは違うスイッチが入ってしまったのだろうか。


(わかんないけど……こわいよ……っ)


 神さまたちはみんなただご機嫌に宴をたのしんでいる様子だけど、それでもあたしは生まれてこの方お化けとか幽霊とか妖怪とか、その手のモノは見えたことがないのだ。ただの平凡な高校生でしかないあたしには、日常を超越しまくったこの状況はおそろしすぎた。


『おや。嫁御が我らを見ておるぞ』

『なにやら怯えた顔をしておるが……もしやこちらが見えておるのかのう』


 傍にいた三人の神さまたちがあたしの方へ寄ってくる。タコ足の神さまはねっとりした液を滴らせながらその足の一本をあたしの方へとにゅるにゅる伸ばしてくる。


(ひっ………)


 事前に宮司さんから『祝宴の儀の最中は決してお声を出されませんように』と何度も何度も言い含められていたのでかろうじて悲鳴を出さずに堪えたけど、間近で見るとぬちゃぬちゃしたタコ足はかなりグロテスクで、それがあたしの頬に触れそうになったときたまらず声を出してしまいそうになった。


(こわいよ、こわいよっ……!触らないでっ…お願いたすけて…!)


 帯越しに、その奥にしまってある蒼真珠に触れたときだった。


「これは私のものゆえ。お手に触れるのはご容赦願いたい」


 いきなり隣から声が聞こえてきたからあたしは反射的にそちらを向くと、さっきまでただの紙切れしか置いてなかったはずの新郎の席に誰かが座っていて、あたしは今度こそ驚きで声を上げそうになる。するとそれを見越したように「静かに」と囁かれた。


「もう少しの間だから、言葉を慎んでおきなさい」


 小声でそう言うと、その人はあたしを見てにっこり笑ってくれた。それは胸が苦しくなるほどなつかしい笑顔だ。


(……もしかして、あのときの、男の子………?)


 いつの間にかそこには蒼い衣裳を着た、濡れたような黒髪の、とんでもなくきれいな顔をした男のひとが座っていた。その顔から目を離せずにいると、彼はあたしを落ち着かせるようにもう一度にこりと笑ってくれる。その瞬間、心臓がぎゅっと掴まれたように痛んだ。


(この顔。このやさしい笑い方。……間違いない。あのときの男の子だ……)


 彼はあの日浜辺で会ったときの面影を残しつつも、だいぶ変わっていた。声は相変わらずきれいだけど、いくらか低くなっていて、凛とした中にもしっとりとした甘い響きがあった。顔立ちも子供らしくふっくらしていた頬は引き締まり、左右対称のやさしげな形だった目は形はそのままなのにどことなく男らしく力強くなっていて。

 体つきも肩幅は広く、背だってたぶんあたしよりだいぶ高くなっていて、婚礼衣裳ごしに見るその体は男の子らしく角ばり、逞しくなっていた。


 以前会ったときは、顔立ちも体つきも男の子にも女の子にも見えるほど繊細でうつくしい子だったのに、今目の前にいるのは大人の男へと羽化する直前の、清廉で瑞々しい美貌の青年だ。あたしが想像していた以上にすてきな成長を遂げていた彼に見入っているうちに、胸がむずむずしてくる。


(このひとが、あたしがずっとずっと会いたかったひとだ)


 そう確信した途端に、あたしの涙腺は崩壊してぼろぼろ涙がこぼれ落ちてきた。


『おやまあ、嫁御が自分の婿殿を見て泣いておるぞ』

『……なんとしあわせそうな顔して泣く娘かえ。よほど海来の若いのと添い遂げるのが嬉しいようだ』

『こんなすこやかな娘に慕われるとは、実に妬ましいことじゃ。海来殿は果報者じゃのう』


 うらやましげな顔をする三人の神さまたちに絡まれると、彼は口元を綻ばせて答えた。


「ええ。これは自分には過ぎた嫁です」


 まるで自慢するような口ぶりだ。再会出来たうれしさと驚きでいっぱいになっていたあたしは、その言葉にいっきに恥ずかしくなってきてしまう。たとえ儀式なのだとしても、初恋の男の子にお嫁さん扱いしてもらえるなんて、うれしすぎて照れくさかった。


(……今日だけなのかな。この『祝宴の儀』が終わったら、もう会えないのかな。……お話したいこと、いっぱいいっぱいあるのに……)


 こんなにそばにいるのに。ずっと会いたかったひとなのに。名前を聞くことも、あたしのことを覚えててくれたかどうかを聞くことも、叶わないのだとしたら切なすぎる。また涙がこぼれてしまいそうになると、いきなり目元を拭われた。

 驚いて隣を見ると、彼は腕を伸ばして着物の袖であたしの涙を拭ってくれていた。それがうれしくてまた泣きそうになってしまうと、彼はあたしをじっと見た後、すこし声を張り上げて言った。


「皆々様。の刻までにはまだ早いですが、我が花嫁はこれにて下がらせていただきます」


 たのしげに騒いでいた神さまたちは、一斉に彼の方を向いて不満げに言い出す。


『まだまだ良いではないか。夜はこれから。わしはまだ嫁御さまのこの可愛らしゅう顔を拝んでいたいのじゃ』

『そうじゃ。減るでもなしに、出し惜しみなぞするな、海来の若いの』

『こんな野菊のような楚々とした娘、なかなか拝めんからのお。今夜は酒がうまい、うまい』


 あたしをどうにかしてこの場に留めようとする異形の神さまたちに、けれど彼は言った。


「皆様方に愛でていただき光栄ですが……これはまだ私も指の一本も触れたことのない、それはそれは初心な娘でして。ゆえに床入りの支度に少々時間が掛かるのです。皆様方に祝していただいた今日という日に、無事に初夜を迎えたく思う、私の心を汲んでいただけたら幸いです」


 彼の言葉に、神さまたちはなにやら妖怪じみたニヤニヤした笑みを浮かべて、あたしと彼の顔を交互に見比べだす。


『そうじゃった。これは男を知らん生娘だったのう』

『まだ床の手順なぞ知らぬのなら、なるほど支度に手間取るのは当然のこと』

『ならば仕方あるまい。いかな我らとて、待ち焦がれた新手枕の邪魔だてをするなぞ、許されようもないことよ』


 まるで冷やかすような目で見てくる神さまたちの笑みを受け流して、彼は「事情を察していただき幸いです」と軽く頭を下げた。


『構うでない、海来の若いの。存分に励むがよい』

『ほほほ、ぬしに言われなくとも、かような白雪のごとき娘に色を教えるなぞ、海来でなくとも精が出るわ』

『ほんに羨ましいのう。こんな愛らしい花を久々にわしも手折ってみたいものよ』

「ご理解有難うございます。それでは失礼させていただきます。……ほら。皆々様に礼をして、最後にその顔を見てもらいなさい」


 彼に言われてあたしはゆっくりと頭をさげ、それから顔を上げた。すると宴会場の四方からねっとりとした視線を向けられる。体じゅうにねばりついてくるような無遠慮なその視線に、なんとなく生理的な嫌悪を感じてしまう。

 彼はまだこの部屋に残るらしく、あたしはこの視線の中、ひとりで退室しなければならないらしい。心細くてなかなか立ち上がることが出来ずにいると、彼が口を開いた。


「……右狐ユウキ


彼が名前を呼ぶと、和服姿の若いおねえさんがどこからともなくすっと彼の前に進み出てきた。


『お呼びでしょうか、わが主様』

「これを下がらせてくれ。……私ももうしばらくしたら向かうから。先に『和合の儀』の支度を進めておいてくれ」

『承知いたしました。……では花嫁御寮はこちらへ』


 そういってあたしの手を取って立ち上がらせてくれたユウキさんは、あたしより歳上で20代半ばくらいのおねえさんだった。腰まで届くほどの長い黒髪を後ろで一つに結っていて、襟を抜いた着物姿が妙にこなれていた。あらわになっているうなじも着物の上から見てもわかるほどグラマーで女らしい体つきも、やたらと色っぽいおねえさんだ。

 顔立ちはとてもきれいだけど、目がちょっと釣り目がちでどことなく冷たい印象だ。あたしを先導してくれる手も驚くほどに冷たく、生き物らしい温かさなんてまったく感じなかった。そのことにちょっとどきどきしながら歩きだすと、去り際に神さまたちがあたしに声を掛けてくる。


『花嫁御寮。今宵は海来の若いのに、とこでたんと可愛がってもらうがいい』

『海来よ。我らのようなものが人の子相手に無茶をすると、気がおかしくなって色狂いになるからのお。この娘を壊さぬよう手加減をしてやることだ』

『ほほほ、もししくじってこの娘が心をやったら、この嫁御はわしがもらいうけてもかまわんぞ。こんな愛らしい娘なら、生娘でなくともかまわんとも』


 神さまたちはまるであたしがおいしいご馳走か何かであるように、何度も舌舐めずりをしながら言ってくる。その名残惜しげなまなざしにぞっとして、あたしはユウキさんの後をついて早々に宴会場から退出した。






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