蛍火と新床
鏡の中から出てきた、どろどろとした粘度のある液体のようなバケモノがあたしを追ってくるから、どこへ逃げるかじっくり考えてる余裕もなかった。
あたしはお風呂場からいちばん近くにあった階段を裸のまま駆け上がっていく。この階段も何度も曲がりくねって枝分かれしていた。どこへ進むのが正解なのかわからないまま、ほとんど視界の利かない中必死に足を動かす。
そしてやっと階段を抜けてどこかの廊下に出てきたかと思ったときだった。急ぎ足だったあたしはなにか弾力のあるやわらかいものに思いきりぶつかって、体を押し返された。その場に尻もちをつくと、やわらかい『なにか』はあたしに言ってきた。
『おや人の子じゃないか。道理で美味そうな匂いがするわけだ』
目を凝らすと、そこにはあたしと同じく裸の女の人が立っていた。ただしその下半身は、魚のように鱗が光り、蛇のようにぬめった長い体がとぐろを巻いていた。神さまなのか妖怪なのかわからないけれど、人間ではないことだけは確かだ。
『娘、ちょいと顔をみせてみろ』
蛇女はにゅっと体を伸ばしてあたしの顔を覗き込んでくると、うれしそうに言った。
『ほお。これはこれはなんと清らかな上物。ヌシ様のお帰りをお待ちしているところにこんな人の子が転がり込んでくるとは。……見れば見るほど旨そうな娘よ。ここでこっそり食ろうてもバレはしまい』
蛇女は上機嫌にニタニタ笑う。それからあたしを頭から丸ごと飲み込もうとするかのように、尋常じゃないくらい口を大きく開けた。蛇女の口内からは腐ったようなたまらない異臭がして、鋭い山形の歯がぎっしり並んでいるのも見える。その歯に噛み砕かれるのかと思うと、恐怖のあまり逃げようにも足が震えすぎて力が入らない。
(もうだめだ………ッ)
そう諦めかかったとき。いきなりあたしの右手の中が火傷しそうなほどにカッと熱くなって、目も開けていられなくなるくらい強い光が弾けた。
『ぐぎゃあああぁぁぁッ』
閃光弾のようなその光が弱まった頃に目を開けると、蛇女は床に体を投げ出して口から泡を吹いてぴくぴくと痙攣していた。何が起こったのかさっぱりわからないけど、逃げるなら今しかなかった。蛇女の脇を急いで通り抜けて、あたしは階段を駆け上がる。するとまた分かれ道にさしかかる。
(またこの先、あんな変なのに遭遇したらどうしよう……!!)
そう思うと、おそろしさでどこへ進むのかなかなか選べなくなる。するとそんなあたしの目の前を、なにかがすっと飛んで横切った。生き物のようにちらちら動いているそれは、ちいさなちいさな光。でも同じ発光体でもさっき脱衣所で見た青白い人魂とは全然違う。
あたしにまとわりつくように周囲を飛んでいるちいさなそれは、まるで蛍のようにかわいらしくて、ちいさくてまるいやさしい光だ。それは何度かあたしの眼前でくるくる旋回すると、あたしに「ついておいで」とでもいうかのように分かれ道のひとつにすっと飛んでいった。
ただの直感でしかなかったけど、その蛍のような光は悪いものだとは思えなかった。だからあたしはその蛍火を追って歩き出した。蛍火に誘導されるまま、曲がりくねった階段を上り、最後に渡り廊下を通って行くと、あたしはようやくこの『お邸』の最上階らしき、ちゃんと明かりが灯った場所にたどり着いた。
蛍火は、流水と花鳥の描かれた立派な襖(ふすま)の部屋の前で旋回して、あたしを待っていてくれた。まるで「中に入って」と言われている気がして、おそるおそる襖を開けると、細い隙間から部屋の照明の光が漏れてくる。その明るさにほっとしていると、蛍火が部屋の中へと入っていってしまう。
「ま、待って!」
蛍火を追いかけてあたしも襖の中へ足を踏み入れると、そこは15畳ほどのがらんとした部屋になっていた。天井には見慣れた現代風のドーム型の照明がついている。そのことに安心して部屋の中を眺めまわしていると、あたしは壁に掛かっているものに気付いて驚きの声を上げてしまった。
「……あれ。もしかして、うちの学校の制服?」
なぜかあたしが通っている高校の、男子の制服がハンガーに掛かって下がっていた。その下には通学鞄まで置いてある。
「なんでこんなところに、こんなものあるんだろ………」
疑問に思っていると、また蛍火があたしの傍に寄ってきて、あたしの目の前をくるくる回って飛んでいく。この部屋の奥にはさらに襖があって、蛍火は「ここも開けて」といわんばかりに襖の前で旋回する。制服のことは気になりつつも、蛍火に誘われてあたしは奥の襖を開いた。襖の先にあったのは、さらに広い部屋だった。
どうやらそこは寝室らしく、優美な竜が描かれた立派な屏風と、その手前に一組のお布団が敷かれていた。厚みのあるお布団は見るからにふかふかで、金糸の模様の入ったとても豪華なものだった。枕も仲よくふたつ並んでいて、そのどちらにも海来神社の神紋である『竜の尾と波』のマークが入っていた。
「……もしかしてここが、『和合の儀』をする場所なの……?」
そんなことを思ってると、あたしは急にくしゃみをして肌寒さを思い出す。そして必死に逃げている間は忘れていたけれど、自分が今一糸もまとわぬ真っ裸だということをようやく思い出して今更ながらものすごく恥ずかしくなってきた。こんな姿でひとさまの家を歩き回るなんて、いくらバケモノに襲われそうになったからといって正気の沙汰じゃない。
「ど、どうしよう……」
とりあえずなにか着られるものがないか探してみたけれど、さっきの制服以外みつからない。冷え切った体のつらさと裸のままでいるはずかしさに耐え切れず、制服のシャツだけでも借りようかなとだいぶ迷ったけど、誰のものかも分からないから気が引けて、結局あたしは素っ裸のままそっとお布団の中に入った。
「どうしても寒いんで、ちょっとだけお借りします……」
誰にともなくそんなふうに断って寝そべると、自分の体をやさしく受け止めてくれるお布団の感触があまりに心地よくてすぐに瞼が重くなってきてしまう。
「………だめだめ。寝ちゃだめだよ………」
これから彼が来るのを待って『和合の儀』をしなくちゃいけないのに。今日一日の疲れが一気に押し寄せてきて、あたしは突然おそってきた眠気に抗えなくなる。
「儀式がはじまったら、起こしてもらえるよね………」
なんの根拠もないけれど、なぜかこの場所は安全なのだという、不思議な確信みたいなものがあった。だからバケモノから追われる恐怖や今日の『花嫁役』の重圧から解放されたあたしは、とうとう眠りに落ちてしまった。
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