2話 廃ビルにて、想うこと─透

「よし、これでもう大丈夫かな?それにしても今日は一段と暑い………死ぬにはちょうど良いかな」


 そう呟いた彼″とおる″は病衣を着ている。病衣とは自分は患者だと、医者が見た瞬間に分かるために着る物。しかし、透がいる場所は病院ではない。抜け出してきたのだ。

 そして、ここは廃ビルの八階。地上からとても離れている。違う世界に彷徨いこんだ感覚に襲われる。たった一人で違う世界にいる。嬉しさと半分、哀しさを感じていた。

 割れている窓から見える空。そこでは、太陽が全てを照らすかのように輝いていた。黄金色。色に例えるとそれだった。

 太陽は外を照らしていた。歩いている人は気の毒だと思えるほどにだ。しかし、その光はここまでは来ない。ビルの中はそんな外とは違って薄暗くなっていた。透にとっては、これくらいがちょうど良かった。

 時折吹くぬるい風は入ってくる。夏を感じさせてくれる風だ。涼しいとは感じられなく、暑いとは感じられる。

 ビルは薄暗く、少しでも暴れると壊れてしまいそうだった。辺りにはガラス片や、もう文字が読み取れない紙が散乱している。そんな光景は、このビルが使われなくなって、どれくらい経っているのか物語っていた。

 不思議に不気味とは思っていなかった。透はそれがまるで、自分自身のようだと思えていた。

 壊れているビル。それは殺風景だった。滅んだ世界のようだった。

 壊れている透。それは狂っていた。滅んでいく世界のようだった。

 まるで鏡写し。このビルと透は双子だったと言われても納得できる。


「これはここに置いといて。……そういえば、風で飛ばないように重りでも乗せておかないと。えっと、あの木は汚いし、あの石は重そうだし…もうこれでいいか」


 先程まで書いていた紙を、脱いである靴の下に置く。下敷きになっている紙には″遺書″と大きく書いてある。

 遺書。死ぬ前に書き遺す文章。その人が世界に残す最後の証。残る人に対して贈る最後のメッセージ。

 本当はこんな物は死ぬまでに書く予定はなかった。ただ、書かないで死ぬと、生きていた証を世界に残せないから書くことにした。

 もう気づいた人は多いだろう。透は今から自殺をしようとしているのだ。別に、イジメや虐待をされていた訳ではない。この世界と、さよならをしたいからでもない。

 白明病はくめいびょう。日本で年間約五百人が発症。七年前に発見され、海外での発症事例はない。日本での発症事例しかない。

 そして、治療法は一切不明。研究者達もお手上げだった。そんな白明病でも分かっていることは1つだけある。

 どのように死ぬかだけだ。

 最初は脚が重く感じるようになり、動かなくなる。次に視覚や聴覚、感覚が失われる。そして体に白い痣ができる。それから7時間以内に臓器が活動しなくなる。そして死ぬ。

 ただ、人間はそれだけしか知らない。

 神様がしたイタズラ。よくドラマや小説に使われているこの表現が正しく思う。それくらい、人間にはどうしようもなかった。人間にはどうしようもできなかった。

 発症したら死ぬまで、怯えながら生きるしかない。苦しみながら生きるしかなかった。一生懸命生きることしかできなかった。

 透は白明病だと判明した時、驚きはしたが、そこまで怯えなかった。怖がらなかった。これが自分の運命だと思うと、そんなことを頭が考えなかった。

 運ばれていく命の終着点が皆よりも少し早いだけ。透にとって白明病は、それくらいでしかなかった。

 しかし、思うことはあった。

 ただ透は、病気で死にたくなかった。

 透はただ、病院で死にたくなかった。

 死ぬなら、自分の手で死にたい。

 死ぬなら、知らない場所で死にたい。

 そう思っていると、一つの方法が思いついた。自殺だ。自分で自分のことを殺す。それだと、病気で死ぬことはない。自分の手で死ねるのだ。

 ただ凶器なんて持っていない。だからビルまで来た。飛び降りるために。


「………この世界に…さよならを告げよう。この残酷な世界に…」


 飛び降りるために、壊れかけの窓に足をかける。ガチャと音がし、細かい砂の欠片が下に落ちていく。

 その欠片を目で追いかけると同時に下を見る。すると、人間が小さく見えた。まるで子供の頃に見てた蟻のように、偶然触った草の裏側にいたアブラムシのように。

 人間の多さが気持ち悪かった。あれほどたくさんいるのにゾッとした。

 不思議に恐くは感じない。むしろ、達成感に駆られる。これはきっと、ここまで生きてたことに対しての達成感だ。


(やっと生きることを終われるんだ……さよなら)


 透はそう思っていた。楽になれる喜びと、生きていた達成感。

 さぁ、終わりにしよう。

 さぁ、さよならをしよう。

 この、なにもない世界に。

 飛び降りるために片足を出す。重心が前になり、前のめりになる。身体が落ちると認識した瞬間。

 ──ガタッ。

 後ろで大きな物音がした。木片を踏んだ時に出るような音だった。この空間で響いていた。

 透はゆっくりと前のめりの身体を戻す。そして、後ろを向く。するとそこには、長い髪の毛をかすかに揺らして彼女がいた。

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