二章 日女野女子高校入学

 西室市にしのむろし広岡山ひろおかやま。高級住宅に囲まれ、窮屈そうに校舎を構える日女野ひめの女子高校の体育館で、入学式が行われていた。サックスブルーが特徴的な、真新しいセーラー服を着た七海名は、静まり返った百六十名の入学生の一人に混じり、気配を消し、口を一文字に閉じ、個を潜ませ、日女野女子高校の雰囲気に早くも馴染んでいた。新入生歓迎の意を表するという名目で上級生が歌う校歌は、七海名の耳には残らず、体育館に移動してくる際も、桜の木や新緑など、これまでであれば、その鮮やかな色に関心を抱いていたものが視界に入っていたが、それらに気付くことすら無いほどに、七海名は、あらゆることに無関心になっていた。先月は卒業生として送り出されていた自分が、今は入学生として立場を変えていることに、忙しないものも感じた。式の内容は、七海名の胸にほとんど残らないまま、予定していた全てのプログラムを終え、参加者の拍手と共に、一年一組から順番に退場していった。一組は英語科で、七海名のいる普通科に比べ、入学に要する偏差値も高く、やや優遇されている雰囲気が流れ、入学生の顔つきも普通科の生徒と比べると、幾分明るさが残っている。

 日女野女子高校の一階。七海名は入学式を終え、一年三組の教室にいた。はじめ、教室に戻ってきた際、中学時代の癖で、思わず窓際の席に座りそうになったが、はっとして、入学式前に配られた座席表を取り出し、知らない女子の名前が四十名ほど並べられている中から、唯一の見慣れた名前、「津戸 七海名」の名前と、その座席の位置を確認し、教卓前の自席に座った。三組の教室は静まり返っており、教室内はおろか廊下からも、十五歳前後の女子特有の、遠慮の無い、甲高い笑い声は聞こえない。中学時代は、教室にいれば誰かしらの会話が耳に入ってきたため、七海名自身は会話に参加せずとも頭の中で勝手に相づちを打つという遊びが出来たが、誰も喋らないこの教室では、そのような遊びも出来ない。ノートを取り出して、頭に浮かんだものを落書きする気力も、今は湧かない。あまりの退屈さに、ため息と共に頬杖をつきそうになったが、周囲を見回すと、七海名以外の女子生徒は全員、入学式の時のような、かしこまった座り方をしており、自らも姿勢を正した。

 しばらくすると、痩せた中年女性の担任教諭が入って来て、教室内の女子生徒の方向へは視線をやらず、教卓の前に立ち、わざとらしく頭を下げた。

「えー。入学式の前に自己紹介はいたしましたので、省略させていただきます。あらためまして、皆さま、入学おめでとうございます。当校、日女野女子の生徒は原則、親族以外の男性と一緒に歩いてはいけません。染髪やアクセサリーは停学処分となります。クラス替えも席替えも行いません。変わらぬ仲間と親睦を深めていただきたいと思います」

 担任教諭は、七海名の予想通り、そして前評判通りの校則を、事務的に口にした。七海名はもはや聞く耳も持たず、今日は帰宅したらなにをしようか考え始めた。

 午後。七海名達は、配布された教科書に所属クラスと名前を書き、日女野女子の歴史の説明を受け、親の署名が書き加えられた同意書を提出し、学校案内の書類を受け取るなど、形式的、または事務的な行為を済ませた。午後三時を過ぎた頃、やっと、帰宅が許される時間となり、担任教諭が去ると、四十名の女子生徒が窮屈そうに集まる教室には、一仕事を終えたような安堵した雰囲気が流れた。七海名も、ふうと息を吐き、中学時代から使っているナイロン製の黒いペンケースを通学鞄に仕舞ったところで、七海名の左隣に座っていた女子生徒が、見計らっていたかのように話しかけた。

「お疲れさまっ」

「お。お疲れさま」

 七海名は、既に帰宅することに意識が向いていたため、話しかけられたことに少し驚きながらも、返事をし、話題を振った。

「頬杖つこうと思ったら、みんな入学式の時みたいな座り方してたから、出来なかったよ。あれ、びっくりしちゃったなあ」

「ね。私なんか、寝ようと思ったよ。けど、みんなしっかり座ってるんだもん。とりあえず、みんなの真似してただけだよ!」

 女子生徒は、七海名に同意するように言うと、二人に笑顔がこぼれた。七海名にとって、日女野女子において初めて見せた笑顔だった。女子生徒は、女子同士の会話らしく、七海名が笑い終えることを確認してから真顔に戻り、

「それにしても。噂には聞いてたけど、校則がここまで厳しいだなんて……」

「ねー。ほんと最悪」

 女子生徒は、日女野女子の校則に異様さを感じる人間が、自分以外にもいることを、念のため確認するような会話を一言二言、交わしたあと、携帯電話を取り出し、画面を見た。

「じゃあ、親の迎えが来たっぽいから、そろそろ行くね! また、よろしくね」

「はいよ。んじゃ」

 女子生徒は荷物をまとめ、足早に廊下へ出て行った。七海名も、あらためて帰宅しようと、自席の通学鞄を手に取ろうとした時、自席の右隣の席に座っている、別の女子生徒が目に留まった。その女子生徒は、他の生徒よりも背筋をまっすぐに伸ばし、肩にかかるかかからないか程度に伸びた、艶のある黒髪を微かに揺らしながら、午後に配られた書類を一つずつ丁寧に確認し、通学鞄に入れ、帰りの支度をしていた。七海名は、先ほどまで話していた女子生徒との会話の勢いのまま、その生徒に話しかけた。

「ねえ、あなたも親に入れられたクチでしょ?」

 七海名に話しかけられた女子生徒は、静かに立ち上がり、七海名に目を合わせ、

「はじめまして。私は、自ら日女野を志望し、入学いたしました」

 軽く一礼をしながら、初対面の挨拶をした。それは、慣れた自然な動きであったが、七海名にとっては仰々しく、わざとらしいものに感じた。

「これは。失礼しました。はじめまして。あの。自分で志望したとか嘘でしょ。嘘ですよね?」

「本当ですよ」

 七海名の苛立ちが、ほんの少し混じった質問に、女子生徒は、にこりと微笑んで答えた。七海名は少し呆気にとられ、次の言葉に困った。

「ああ。わかった。本当は、うちの英語科志望だったんでしょ。でも、英語科は難しいから、落ちちゃって……。普通科の留学枠を狙って来たんだ」

「留学ですか?いいえ、違いますよ」

 女子生徒は、くっきりとした二重瞼の、すぐ下にある、大きな瞳を七海名の目に向けている。七海名には、女子生徒の考えていることが掴めず、

「じゃあ本当に、こんな日女野の普通科に、志望して入ったの?」

「はい」

「し、信じられない。この高校って、私達の親世代からしたら、お嬢さま高校だとか言われてるけど。単なる古い、お堅いだけの女子校だよ。校則も異様に厳しいし」

「私は、あまり気にいたしません……」

 七海名は、女子生徒の目を、少し怪訝そうに見つめた。彼女は、一体なにを考えているのだろうか。言っていることは、どこまで本当なのだろうか。七海名の目に映るその同級生は、中学時代にもいた、同級生と関わろうとせず、ひたすら教師に媚を売るタイプの人間に感じた。

「そっか。んじゃ、また」

 七海名は、どうやら自分とは違うタイプの人間である女子生徒を置き去るように、最低限必要な別れの言葉を口にし、軽く会釈をした。そして、通学鞄を手に取り、廊下へ出て、昇降口に向かった。多くの生徒は既に帰宅したため、靴の数がまばらな下駄箱の前に立つ。中段に「津戸」の名字が印刷されたシールを見つけ、高校の入学祝いとして、母から買って貰った、茶色の真新しいローファーを取り出し、踵の部分に硬さを感じながら、履いた。正門を出て、南へ身体を向けたところで、携帯用の音楽プレーヤーを取り出し、イヤホンを耳に入れかけたところで、手が止まった。

「まさかとは思うけど、『登下校中は音楽聴いちゃ駄目』とかいう校則、無いよね」

今日、配られたばかりの生徒手帳を開き、校則を確認しようとしたが、裏表紙の自分の不愉快な顔が目に映ったところで、ここ一カ月弱、七海名の心を支配している苛立ちに加え、好きな音楽を聴くという、七海名にとって日常的な動作の是非まで確認しなければならないことに、虚しさと、更なる苛立ちを感じた。

「あーもう。馬鹿らしい。さっさと帰ろう」

 イヤホンを通学鞄に仕舞い、自宅へ向かった。日女野女子と七海名の自宅は、徒歩で十五分ほどの位置にある。通学は中学時代と変わらず、時間を要さない。時折、自動車が車道を通りかかるが、歩行者は七海名以外にはいない。広岡山の静かな歩道を、足早に進み、あっという間に自宅の玄関前に着いた。そのまま玄関ドアを開けようとすると、鍵が閉められており、開かなかった。

「あれ。お母さんは、留守か」

 通学鞄に入れられた、革製の三つ折りキーケースを手に取り、鍵を開けた。

 自室。七海名は、脱ぎ慣れていない日女野女子の制服を早々に脱ぎ、クローゼットに仕舞い、襟の付いた部屋着に着替え、一息ついた。学習机の前に座り、目を閉じ、家の中、そして庭先からも物音がしないことを確認すると、立ち上がり、自室のドアを、半開きにした。

「よし」

 勉強机の上に置かれた携帯電話を手に取り、ベッドに潜り、横向きに寝転がった。着慣れた部屋着と掛け布団とが擦り合わされ、心地良さと安心感を生む。今、仮に目を閉じたら、そのまま寝てしまいそうであったが、今の七海名には、睡眠欲よりも満たしたい欲があった。左の手のひらに収まった携帯電話のロックを解除し、画像フォルダに保存されている、年齢制限のかけられた同人誌の画像を開く。七海名のお気に入りの同人誌は数多くあるが、その中身は、七海名の性的興奮を刺激する作品と、刺激しない作品に分けられる。前者に分類される画像に、七海名の指が触れた。小学生の頃、夕方に放映されていたアニメに登場する、男性キャラクター同士が交わる画像を見ると、七海名の目が見開かれ、右手の人差し指を下着の中へ入れた。しばらくすると、ベッドの中が湿っぽくなり、吐息が温かみを帯び、目の前の携帯電話の画面を曇らせる。そして、身体の中心に熱のようなものが生まれたことを感じた瞬間、左手に持った携帯電話を枕元に置き、漏れ出そうな声を抑えるために、左手の薬指を曲げ、軽く噛んだ直後、身体の中心が二度、三度、大きく揺れ動いた。七海名は、目をぎゅっと閉じ、細い足がびくりと反応し、胎児のような恰好になった。そのまま、しばらく動かず、呼吸が荒くなっていたことに気が付き、自らの呼吸と心臓の鼓動を平静に戻すよう意識しながら、余韻に浸った後、洗面所に向かった。鏡には、髪の毛が乱れ、やや虚ろな表情をした七海名が映っていた。手を入念に洗い、前髪を真ん中分けに整え、再び自室に戻り、ドアを閉めた。そのまま真っ直ぐベッドに向かい、布団の中に潜り、仰向けの格好で、天井を見つめた。

「高校生かあ。雑誌とか読んでると、初体験って、高校生の時が一番多いみたいだけど。日女野にいる人間は、どうなんだろ。現実の恋愛は、よくわからないからなあ。私と比奈子と愛莉だったら、誰が早いかな。私も比奈子も、結構ガードが堅い。そもそも、比奈子の家は、両親がそういうことに関して、厳しいし。愛莉は、私達より理解し合えて、対面してて絵よりも楽しいと思える男と出会わない限り、付き合わないって言ってたな」

 七海名が見つめる、自室の白い天井に、比奈子と愛莉の顔が、ぼんやりと浮かんだ。少し懐かしさを覚えたが、最後に会ったのは中学の卒業式。一カ月も経っていなかった。広岡山中学時代を過ごした美術室の、木製の作業机、絵具、画用紙、キャンバス等が混じり合った、独特の懐かしい匂いを思い出したところで、頭に眠気が漂い、瞼を重くさせた。

「私もいつか、誰かとするのかなあ……」

 そのまま目を閉じ、眠りについた。

 四月末の、暖かい木曜日。オリエンテーションを終え、本格的に授業が始まり、規則性と不規則性の入り混じった、高校生らしい、退屈な日常が始まっていた。放課後、七海名は正門を出て、慣れた足取りで帰り道を歩いていると、突然、頭に重みがのしかかった。不調期の始めに現れる頭痛だった。美術部で活動していた時は、心身に疲労が溜まってくると、特に嫌な出来事やきっかけが無くても、突然、このように不調期が訪れていた。始めは頭痛が走り、やがて胃が痛くなり、視界が狭くなる。二、三日後に来るであろう最悪期は、筆を握っても、手が震え、絵を描いている状態ではなくなり、自分という人間の根幹を成すものを失った恐怖感すら覚える。これまで、不調期を迎えた際の七海名は、無理にでも予定を入れ、比奈子と愛莉と話すことで誤魔化しながら、回復を待っていた。しかし、日女野女子に入学してからは、速写を含めて一枚も絵を描いておらず、ストレスを抱えている自覚も無かったにも関わらず、このような症状が現れたことで、七海名の心に、これまで抱いた経験の無い不安感が生まれた。その新たな不安は、透明の水に垂らされた黒い絵具のように、侵食するように広がり始め、間もなく、恐怖感に近い感情を生んだ。そして、足に重みも現れたことで、このまま真っ直ぐに帰宅することは諦め、十数メートル先に見えた公園の敷地にゆっくりと入り、古びた木製のベンチに座った。知らぬ間に、しがみつくように強く掴んでいた通学鞄をベンチに置き、その鞄から、常備している頭痛薬を二粒、取り出し、ふうと息を整え、口に含んだ。そして、なんとか立ち上がり、ベンチの前にある水道の蛇口をひねると、西室市の位置から六十キロ離れた場所にある、西畿地方の水がめを成す、美しい湖から運ばれてきた新鮮な水が流れ出す。七海名は、その冷たい水と共に頭痛薬を呑み、再びベンチに座った。住宅に挟まれた、百坪程度の公園では、七海名以外の人間は誰もおらず、雀が三匹、砂場で可愛らしく砂浴びをしている。公園内も周辺も静かで、広岡山らしい雰囲気を感じる。七海名の祖父母の家と、津戸家の墓は、この西室市からも見上げられる山を越えた場所にある街、神ノ辺市北区にある。七海名にとって、故郷と呼ぶには、神ノ辺市北区の、森に囲まれた、広大な敷地の中にある、祖父母の和風住宅の方がしっくりと来る。両親と三人で暮らす、広岡山の洋館とその敷地は、七海名が生まれる前に父が購入したものであり、何代も遡った時代から広岡山に住んでいる住人から見たら、自分達は余所者ではないかという疎外感が、七海名の心の中には、僅かにあった。その広岡山にある、午後四時を周った公園。七海名の左肩を射す西日は、昼間の日光に比べると、やや暖かみを失っているが、人間の身体には自然な安らぎを芽生えさせる、心地良い光だった。薬を呑んだばかりの七海名も、頭痛がやや和らぎ、目を閉じると、一瞬の無を感じ、しばしの眠りについた。

 次の日。四時限目終了後。昨日から続いている頭痛を理由に、体育を見学し、三組の教室に戻った。すると、入学式の日に一度だけ会話を交わした女子生徒が、七海名の席の右隣に、背筋を伸ばして座っていた。彼女は、大手書店名が印刷された紙製のブックカバーに覆われた、新書サイズの本を読んでいた。体育を見学していたのは、自分だけのはずだが、この女子生徒はなぜ、見学していた自分よりも先に教室にいて、涼しい顔をして、本を読んでいるのか。七海名は疑問に思った。三組の教室には、七海名と、入学式の日に一度だけ会話をした、大人しい女子生徒の、二人しかいない。七海名は、教室の入り口に立ち尽くしながら、気まずい雰囲気を感じたが、教室に入った以上、向かう場所は一つしか無く、そのまま自席に座った。顔は黒板を向いているが、視線は、右隣に座っている女子生徒の方にやった。彼女は、先ほどと全く姿勢を変えず、両手で本を持ち、黒目で活字を追っている様子だった。話しかける訳にもいかず、また、話しかける理由も無く、手持ち無沙汰になった。そして、ふと、入学式の日に配られた、三組の座席表を机から取り出した。数分経つと、他の生徒がちらほらと教室に戻り始め、昼休みが始まった。八割方の生徒が教室に戻ってきた時、七海名の右隣に座る女子生徒は、読んでいた本にしおりを挟んでから、パタンと閉じ、通学鞄に仕舞い、教室を出て行った。

頼野よりの 織和香おりわか……さん」

 先ほど、座席表を見ることで名前を初めて知った、頼野 織和香という名前の女子生徒。考えてみれば、入学式の日に、七海名の方から話しかけ、彼女に対して「教師に媚を売る種類の人間だろう」と、勝手極まりない印象を抱いたきり、一切の関わりが無かった。あれから三週間程度が経った今日。彼女、織和香という名の女子生徒の様子は、少しも変わっていない。むしろ、彼女が誰かに話しかけている姿すら、見たことが無い。七海名は、通学鞄から、弁当箱と、紅茶が入れられたマグボトルを取り出し、昼食をとり始めた。織和香も、自席まで戻って来て、七海名と同じように、通学鞄から弁当箱を取り出した。三組の教室の、前側の引き戸近くにある二つの席には、七海名と織和香が並んで座り、それぞれ独りで昼食をとっている。七海名は、それまで気にも留めていなかった織和香の姿を見つめ、口の動きを止め、やや真剣な表情になった。

「もしかして、この子って、演技とかじゃ無くて、本当に、上品で素直な子なのかな。そうだとしたら、私。失礼な態度とっちゃったな……」

 七海名より遅く昼食をとり始めた織和香は、七海名よりも早く食べ終わり、小さな弁当箱を片付け、教室の外へ出て行った。間もなく、七海名も昼食を終え、座席表を再び取り出した。

「織和香……さん」

 七海名は、人物の名前を憶えることが苦手であったため、念のため、織和香の名前の読みと、漢字を、一度確認した。そして、なにをするわけでもなく立ち上がると、教室の窓から見渡せる中庭に、織和香の姿を見つけた。織和香は、花壇の前で中腰になり、丸く大きな眼を輝かせ、微笑み、花に向けてなにか言葉をかけているようだった。七海名は、その姿を数秒、見つめたあと、なにかを思い立ったかのように、やや急ぎ足で廊下へ出て、昇降口を通り、中庭へ向かった。芝生で覆われた中庭に出ると、百メートルほど離れた位置に、上品に立っている織和香の姿があった。その姿を見た七海名は、ふうと口から息を吐き、窓ガラスに映った自分を見て、ショートカットの黒髪に乱れが無いことを確認してから、ゆっくりと織和香に近づき、偶然を装って話しかけた。

「お、おお。同じクラスの子。織和香さんだよね」

「こんにちは」

 織和香は、七海名に気が付くと、特に驚く様子も無く、一礼をした。入学式の日に七海名が見た動作と、同じものだった。七海名は、織和香の上品かつ丁寧なこの振る舞いに対して、「仰々しい」などと感じた自分が、恥ずかしく思えた。

「こんちは。入学した時、一回だけ話したんだけど、私のこと憶えてる?」

「はい、もちろんです」

「よかった。私の名前は七海名。世界の海を飛び回るような人間に育って欲しくて、この名前をつけたらしいけど。まだ三つしか行ってないよ。未成年が勝手に世界の海を飛び回れる訳が無いから、そこは親任せなのに。三つって。勝手に名前負けさせられてるよ。笑えるよ」

 織和香が自分を憶えていたことを嬉しく思い、少し口が軽くなった。

「七海名さん。あらためて、よろしくお願いいたします」

 話すことを職業にしている人間のような、聞き取りやすく、心地よい声が、七海名の両耳に入っていく。

「そんなに、かしこまらなくていいよ。呼び捨てして」

「お気遣いいただき、ありがとうございます。ですが、このままで失礼します」

 七海名にとって、同級生からさん付けで呼ばれることは初めてだったため、少し戸惑ったが、無理強いはせず、

「そっか。私は、織和香のことは呼び捨てさせてもらうよ。長い時間そこにいたけど、なにをしてたの?」

 織和香が恐らく花を見ていたことは見当がついていたが、確かめるように質問した。すると、織和香は視線を左に移し、身体を花壇の方を向け、七海名もつられるように花壇の方を見た。

「お花を見ていたのです。とても可愛らしくて、つい目に止めてしまいました」

 瞳にこりと笑顔を見せた。

「花をずっと見てたんだ?」

 予想していた答えが返ってきたが、実際に織和香の口から聞くと、思わず、驚いた顔をした。七海名の表情を見た織和香は、ほんの少し不安そうな顔になった。

「はい。……変でしょうか」

「ううん。変じゃないよ。ただ……」

 つい「ただ」と言ってしまったが、その後に続ける言葉を考えておらず、目を泳がせた。頭の中にあることを筆で表現することは得意だが、言葉にすることは苦手な七海名は、実質的に初対面の織和香を目の前に、どんなことを言うべきか、一瞬、頭の中で言葉を探し、

「この高校って、前にも言った通り、そこそこ裕福で厳格な家に生まれて、親に強制的に入学させられた子が多いんだよ。校則が厳しいだけの普通科に、自分から希望して入ってきた織和香は、珍しいなあと思って」

「珍しい?」

 織和香は、不安そうな表情を変えなかった。その顔を見た七海名は、入学式の日に失礼な態度をとったことに対する罪悪感が浮かび、どうにかして織和香を元の表情に戻したいと考え、苦し紛れに話題を変えようとし、

「うん、かなり珍しいと思うよ。なんで、わざわざ日女野なんか志望したの?」

「どうしても、女子校に行きたかったのです。七海名さんは、ご両親に勧められて入学されたということでしたね」

 織和香の表情が元に戻り、七海名は少し安心した。同時に、自分が父親から日女野への入学を強いられたことを、織和香に言った記憶は無いため、一瞬、不思議に思ったが、入学式の日に、「あなた『も』親に入れられたクチでしょ?」と言ったことを思い出した。

「両親というか、父親かな。母親は、私になにか言ってくることは無いんだけど、父親は、ちょっとうるさくて。お金持ちぶってるけど、私からしたらそんなに裕福には感じないんだよね。うちより、田舎のじいちゃんの家の方が大きいし。父親は、頭が古い人間だから、日女野のことを未だに、お嬢さま学校だなんて勘違いしてるんだよ。印象で語ってばかりで、実情を知らない人だからね」

 つい一方的な愚痴を口にしていることに気が付き、話題を変えた。

「織和香のお父さんは、どこに勤めているの?」

「経営者をしております。神灘かみなだ繊維という会社です」

 神灘繊維は、「カミナダ」というブランドを扱う衣料メーカーだった。七海名も、神ノ辺市の中心街にある老舗百貨店の婦人服売り場で見かけたことがあり、その鮮やかな光沢に目がいったが、コンサバ系に分類されるデザインで、大学生や会社員といった、大人の女性が着るイメージが強く、七海名自身とは無縁のブランドだと捉えていた。

「へえ。カミナダね。あそこの服は好きだよ。大人っぽ過ぎて、私には似合わないけど」

「ありがとうございます。カミナダの服が、七海名さんに似合わないなどということは、ないと思いますよ。七海名さんには、例えば明るい青色が主体のものが似合うと思います」

 織和香は、七海名の身体は見ず、七海名の目だけを見つめて、言った。人からここまで目を見つめられながら会話することは、七海名にとって初めての経験であるせいか、七海名の少し顔が赤らんだ。

「ありがと。夏服を買う時は、百貨店でカミナダのお店に行ってみるよ。お父さんの会社のことを自分のことのように思えるなんて、織和香はお父さんとお母さんと仲良いんだ?」

「いいえ。恥ずかしいお話ですが、あまり……」

 七海名としては、織和香の口からは「はい。そうですね」と、笑顔が返って来るものかと思ったが、意外な答えが返ってきた。親との関係。家庭事情。それは、比奈子と愛莉と過ごす中学三年間の中で、何度も話し合ってきたことで、織和香とその親との仲が、あまり良くないということであれば、少なくとも現時点では、これ以上深入りすべきではないと、半ば反射的に判断した。

「そっか……。でも、私達の歳で、親と仲の良い子なんて。それこそ、珍しいと思うよ。お互い、色々あるだろうね。あまり重く考えない方がいいかもね」

「ありがとうございます」

「いーえ。でも、私に気遣いは要らないからね。私にタブーな話題は無いから。なんでも聞いて」

 織和香と会話する機会がまた欲しいと思い、「なんでも聞いて」と付け加えた。

「ありがとうございます」

「んじゃまた」

 七海名は、織和香の元を離れ、細長く広がる花壇に沿って歩き出すと、両手のひらに汗が滲んでいることを感じ、そこで初めて、自分が緊張していたことに気が付いた。なぜ、同級生の女子と話すだけで緊張していたのか。織和香に対して、罪悪感があったからだろうか。自分が、会話を苦手とする人間だからだろうか。などと、緊張していた理由を考えながら歩き、中庭と昇降口との境界線を跨ごうとした時、七海名の足が止まった。そのまま振り返ると、織和香が、先ほどと変わらぬ位置で、両手を軽く前に組み、花壇の方を向いていた。その織和香の姿は、中庭の自然芝と、晴れた四月の青空を背景に、一人の可憐な少女が中心に立っている、一枚の絵のようだった。その瞬間、七海名の視界では、カメラのシャッターが押されたように、一瞬だけ時間が止まり、鮮やかな多くの色が咲き乱れているような感覚を得た。それは、幼少期に金賞を貰った時に得た感覚、美術部で活動している際に何度も抱いた感覚と、同じものだった。

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