花のように揺れて
いちや(りいちゃん)
一章 中学卒業
三月半ば。
七海名は、幼少の頃から絵を描くことが好きだった。家にいても学校にいても、夢中で絵を描いて過ごしてきた。五歳の時に、保育園でクレヨンを握り、思いつくままに多彩な色を使い、海外旅行の際に観た「虹のかかった海」の絵を描き、保育士と同級生から褒められた経験が、絵を好きになったきっかけである。七海名は、家庭において褒められた経験がほとんど無かったことから、周囲の人間に褒められた時の嬉しさも一際大きかった。大きな虹のかかった海の絵の横に貼り付けられた、折紙製の金メダルの輝きを思い出し、当時から十年の時を経て、中学卒業を迎える七海名の胸にも、当時と同じ、純粋な嬉しさと、誇らしい気持ちが再び湧き上がってきた。その瞬間、白いネクタイをした教務の低い声が、耳に入った。
「卒業生、起立」
集中力が欠けていた七海名は、教務の声にびくりとし、周囲の卒業生に一瞬遅れて、立ち上がった。
昼前。卒業式を終え、三年B組の教室へ戻り、卒業アルバムを受け取り、担任教師の話を聞き終えると、卒業式の余韻に浸るクラスメイトを横目に、すぐに美術室まで向かった。美術室の前の廊下から、透明の窓ガラス越しに美術室を覗くと、卒業生に与えられた薔薇の造花を胸に着けた、比奈子と愛莉の姿が視界に入った。銀縁眼鏡を掛けた、小柄な比奈子が、廊下に現れた七海名に気が付くと、にこりと笑い、整った白い歯を見せ、手招きをした。その様子を見た愛莉も、七海名に気が付き、焦茶色の長髪をふわりを揺らしながら、落ち着いた雰囲気で手を振り、引き戸を開け、七海名を招き入れた。
石油ストーブの匂いがほんのりと漂う、暖かい美術室。三人は、木製の大きな工作台を囲んで座っている。比奈子がいつもの自然な笑顔で七海名に話しかけた。
「七海名は、この前も言ってた通り、高校に行っても美術部に入らないの?」
「うん。あれからも調べてみたんだけど、日女野の美術部って『美術部に所属していました!』って言うために入部してるだけの人が多いみたいなんだよねえ。やたら部員も多いみたいで。そういう環境では、描きたくないよ。これからは、家で趣味として描くことにするよ」
やや吐き捨てるように、七海名が答えると、
「この部活が、居心地良すぎたよね」
愛莉が、七海名と比奈子の考えていることを代弁するように、かつ静かに話した。この三人が集まると、比奈子が話し手、愛莉が聞き手になることが多く、七海名の立ち位置は、その中間にあった。それを表現するかのように、学校や街中で三人で歩く際も、七海名は比奈子と愛莉に挟まれ、真ん中を歩くことが多かった。三人がしばらく談笑していると、見回りに来た教員が美術室に入って来て、そろそろ帰宅するよう伝えた。教員が去った後、比奈子が美術室の時計を一瞬、確認して、
「じゃあ、卒業したら三人とも離れちゃうけど、グループチャットでまた話そ!」
言うと、七海名と愛莉は、少し寂しさの混じった笑顔で頷いた。三人は同時に立ち上がり、愛莉は慣れた手つきで石油ストーブの火を落とし、比奈子は蛍光灯のスイッチを切り、七海名は三人に忘れ物の有無を確認し、美術室に別れを告げた。
人の姿がまばらな、正門前の駐車場。三人は帰宅の瞬間を迎え、一言二言、別れの挨拶を交わした。
「んじゃ、また。どっかで」
最後に七海名が笑顔で告げると、比奈子と愛莉は、別々の方向に歩いて行った。比奈子は、母親が運転する国産高級車の助手席に乗り、比奈子が掛けている銀縁眼鏡と似た眼鏡をかけた比奈子の母親が、七海名と愛莉にそれぞれ会釈をし、エンジンを起動させ、徐行運転をしながら校門を出発し、北方向へ走って行った。愛莉も、母親が運転してきた四ドアセダンの欧州車に乗った。愛莉の母親が七海名に向かって会釈をした後、愛莉は七海名に向かって、右手を上品に振りながら、南の方向に車を走らせて行った。人がいなくなった正門前の駐車場に、一人残された七海名は、広岡山中学校の古びた校舎を一度だけ見返し、正門を出て、そのまま真っ直ぐ東方向に向かい、地域住民の手によって綺麗に清掃された歩道を歩きだした。裕福な家庭の集まる、西室市広岡山地区。三人の生まれた家庭も例外ではなく、名だたる大企業の役員を親に持つ、いわゆるお嬢さまであった。広岡山地区に住む子供のうち、市立の中学校に進学する人間は少数派だった。難解な入学試験を経て、神ノ辺市、西室市など、各地にある私立の中高一貫校に入学していく、小学校の同級生の背中を見ながら、自らは受験勉強も無く、多少の不安、罪悪感、疎外感を抱えながら、中学校の入学式を迎えた。そして中学一年の春、美術室で初めて出会った三人は、広岡山に生まれながら市立中学に入学した者同士、そして、絵、アニメ、漫画という、それぞれが自らの中で大切にしてきたものを共有出来る人間と出会えたことに、救われたような喜びと、大きな仲間意識を抱いた。また、三人は、自らの家庭の事情、また自身が置かれた環境をよく知り得ていた。互いの家庭事情に対しても同様で、友人、あるいは仲間として、深入りしてもよい事情、してはいけない事情、また、それらの話題を出すべき機会、出すべきではない機会も、それぞれの家族以上に知り得ていた。運動部員にとって、特に重要な問題が身体的能力や技術力だとすれば、美術部員、ひいては芸術活動に携わる者にとっては、技術以前に、自身の体調、精神状態との向き合い方、不調の乗り越え方が、特に重要な問題となる。例えば、試験勉強、受験勉強であれば、適宜休憩をとり、心身を休めながら効率性も意識し、勉強にあたる。しかし、美術部での活動においては、構想を練り、筆を握り、キャンバスに向かうことで、「作業モード」の自分を引き出す。その際は、寝食を忘れることなど、まったく珍しくなく、他人の目には異様に映るほどの集中力を発揮する。この時の七海名達は、自らに限界が近づいていることに気付くことが出来なくなる。いざ限界を超え、体調に異変が現れてから、やっと自らの疲労に気が付く。特に、重要な行事である夏のコンクールの期限の際は、「期限」の二文字が常に頭にちらつき、制作活動、学校での勉強、親と関わることなど、提出期限と無関係に発生するストレスの処理、そして休憩を「しなければならない」という強迫観念にとりつかれ、授業に集中する余裕も無いほどに追い詰められる。期限の直前に限って、体調を崩すことも珍しくない。しかし、自らが好きな「絵」というものから逃げることだけは出来ないという、心の根底にある強い思いが、七海名、比奈子、愛莉という人間の、アイデンティティを成していた。そのように悩める三人の姿は、同級生のうち、多くを占める運動部員から見たら
「そんなに疲れたなら、寝て休めばいいじゃないか」
などと一蹴されてしまうもので、実際にそう思われていること、また言われていることも、三人は知り得ていた。しかし、休みたくても休めない、もしくは休みたくないという事情、葛藤。不調期がいつ現れるか、自分にもわからないという不安。これらは、三人からは切っても切り離せないものであると同時に、実際に絵を描く者にしか共有が出来ない悩みで、その葛藤を乗り越えるためには、支え合う仲間の存在が必要不可欠なため、良き理解者が身近にいるということは、なにものにも代え難い安心感と仲間意識を生んでいた。そのような苦しい時間を経て描かれた絵、それらを印刷した文化祭のポスターを見た同級生からは、「綺麗」「凄い」という言葉を向けられることが多いが、三人は、そのような褒め言葉を聞かされても純粋に喜ぶことが出来ず、完成品が人目についている期間は、あえて同級生達の前から、姿を消していた。同級生達の目から見える絵は、華やかな「結果」のみであって、作者である三人の目には、その結果を出すために、精神状態との戦いや苦悩、筆を走らせ方との悩みの果てに出来た、重い「過程の塊」であって、自分達の作品を見た同級生が感嘆する姿を、直視することは出来なかった。七海名が二年生の時には、担当していた文化祭のポスターを描き終える直前、徹夜と、部活時間の延長も続いた日の夕方、ふと一息を入れようと、美術室からお手洗いに向かう途中の廊下で、突然視界が狭くなり、めまいがし、歩けなくなり、倒れたことがあった。心配してやって来た比奈子と愛莉に見つかり、保健室に運ばれ、目を覚ました七海名の視界に入った比奈子と愛莉は、声を重ねて
「よかった」
と言い、同時に笑顔を見せた後、役割分担があるとはいえ、七海名にだけ負担を掛け過ぎてたのではないかと、それぞれ自らを責めるように、涙を流した。三人は、喧嘩どころか、険悪な雰囲気が流れたことも無いほど、お互いを理解し、我慢強く、そして感情を露わにすることが無かったため、三人のうちの誰かの涙を見る機会は、あの時が最初で最後だった。七海名にとって、自らの限界に気付かずに作業を進めることは常で、めまいがすることも、これまでに幾度とあったが、廊下で倒れたこと、そして大切な仲間を泣かせてしまった自分が、なにより情けなく感じ、
「心配かけてごめんね。ありがとね」
と、泣きながら、謝罪と、感謝の言葉を口にした。あの時の経験は七海名にとって、辛く、苦い思い出として、胸に残っている。その後、心配した母親に連れられ、近所の病院に行った際、医師からストレス性のものである旨を聞かされ、定期的に通院するよう言われたが、七海名は
「絵を描いてる以上、ストレスなんてどうにもならないし、ストレスを抱えてでも描きたいんだから、病院に行く必要は無い」
との考えに至り、結局、通院はしなかった。ただし、再び倒れることの無いよう、それまで考えたことも無かった休息というものを、意識してとるようにし、市販の薬を常備することで、自己解決した過去がある。実際、医者に通うよりも、比奈子と愛莉とで話していた方が、七海名にとっても、また比奈子と愛莉にとっても、どんな治療、どんな薬よりも効果的であった。広岡山中学校の美術部での三年間は、このような理想的な環境と人間関係が成立していたことから、先ほどの
「この部活が、居心地良すぎたよね」
という愛莉の言葉は、三人の環境を的確に表現していた。七海名は、その環境にはもう戻れない事実を噛みしめながら歩を進め、今後、大好きな絵とは、自室で趣味として向き合うことになる事実を考えた。
「もし、また不調が来たら、私はどうしたらいいのかなあ」
これまでも、事情によって比奈子や愛莉に会えない時、話せない時はあった。その場合は、時間に空白を作らず、外出する、映画を観る、音楽をひたすら聴くなど、無理やりにでも予定で埋め、集中力を分散させる対処法をとっていたため、今後はその方法に頼るようになるだろう。
「そもそも、不調期が来るほど集中して描くことなんて、無くなるのかもしれないな」
今の七海名を、最も寂しい思いにさせる結論が思い浮かんだところで、自宅が視界に入った。
「まあ、しょうがないよね。卒業しちゃったんだもんね」
七海名は広岡山にある私立の
三月末、平日。広岡山の閑静な住宅街にある洋館では、「津戸」の表札が、暖かい日の光を反射し、光っていた。神ノ辺市の中心街で新品の色鉛筆を購入し、私鉄電車とバスを乗り継いで帰宅した七海名は、いつものように、やや重さを感じながら玄関を開けると、七海名の帰宅に気が付いた母親が既に玄関ホールで待っており、父親似の七海名の目元に視線をやった。
「おかえりなさい」
「はい。ただいま」
七海名は、母の変わらぬ表情を確認し、口角を上げて微笑んだ。そして、画材メーカーの名が印刷された紙袋が母親の視界に入るように、右手から左手に持ち替え、静かに階段を登り、自室に向かった。
自室の十二畳の洋室は、色鉛筆、画用紙の匂いが漂い、背の高い本棚には、今まで使用してきた多くのスケッチブックやクロッキーブックが整理整頓されている。学習机の隅に置かれた、二四〇色の色鉛筆が納められたケースを開き、そのうち、掴めないほど短くなったレモン色の色鉛筆を握り、目を閉じると、これまでにこの色鉛筆を走らせることで色を着けてきた、数々の絵を思い浮かべた。幼少の頃から行っている、七海名なりの画材に対する供養だった。再び目を開けると、紙袋から新品の色鉛筆を取り出し、入れ替えた。そして、ノートを開き、鉛筆で描かれた、好きなアニメのキャラクターの模写を見つめた。二ヶ月前に描いたものであるが、キャラクターの顔のバランスの悪さが目についた。
「またか。右目と左目のバランスが悪いなあ。髪の毛を描くのは得意なんだけどなあ……」
小さく、ため息をついた。なにかを描くにあたり、苦手な個所は、描いた人間にも、見た人間にも、目についてしまう。描き終えた瞬間は、達成感が強く、そのまま満足してしまうことが多いが、しばらくの時間が経って、あらためて眺める自作の絵は、粗さが目につき、恥ずかしく思えた。
その日の夜。父親から、夕食は不要である旨の連絡があったため、リビングで母と二人で夕食を済ませ、風呂から上がり、自室に戻ってきた七海名は、部屋の外から聞こえてくる物音を意識した。先ほど閉めたばかりの、自室の入口のドアを再び半開きにし、聞き耳を立てる。父親は帰宅していないこと、母親が一階で家事をしていることを確認すると、七海名はドアを閉め、学習机の前に座り、鍵の掛かった引き出しを開け、一冊の薄い本を取り出した。
「今日は、これにしよっと」
年齢制限の掛けられたその本は、二年前、中心街に出かけた際、同人グッズの専門店で購入した、好きなアニメの同人誌だった。比奈子に似た銀縁眼鏡を掛けた、長い黒髪の女性店員は、七海名の細い手から差し出された同人誌の表紙と、七海名の泳いだ目と顔を見た後に、黙ってレジを通した。以来、七海名は、その女性店員がレジに立っている機会を狙って、多数の同人誌を購入している。七海名も比奈子も愛莉も、キャラクターが男性同士、女性同士で結ばれる話が好きだった。二年前、初めて同人誌の存在を知るまでの七海名にとって、絵と言えば、描く・観る・参考にするもの、アニメや漫画と言えば、観て楽しみ、その世界観や登場キャラクターに感情移入をし、憧れを持つものだったが、そのキャラクター達が同性同士で結ばれ、交わる姿を見たことで、初めは多少の心理的ショックを受けた。しかし、同時に、知らない世界の扉を開けた感覚を得た感動と、好奇心も生んだ。七海名の同人誌に対する熱の入れようは、比奈子よりも愛莉よりも強く、どの同人サークルの、どの作品は、このような絵のタッチ、嗜好、雰囲気、世界観であり、作者の日記はこのような内容が書かれている、という情報に詳しく、二人をよく感心させていた。今、七海名が手に取った同人誌は、既に何度も読み返し、ページをめくる際に親指が当たる位置だけが、僅かにくぼんでいるようにも見える。ゆっくりと読み始め、中盤の、登場人物である男性キャラクター同士が交わっている光景が目に入った。
「そうそう。まず、お互いに秘めていた思いがあって、相手にその気持ちを打ち明けて。精神的な繋がりが生まれる。次に肉体的な繋がりを求める。その過程がひとつの物語。ああもう。なんて素敵なんだ」
胸が躍った直後、身体の一点が熱くなり、右手の人差し指がぴくりと動いたところで、窓の外から聞き慣れた自動車のバック音が聞こえた。
「はあ……今日は、読むだけか。金曜日はいつも帰りが遅いのになあ」
眉間をぴくりと動かし、同人誌を再び引き出しに仕舞い、鍵を掛けた。
自室を出て、階段を下りると、玄関ホールに母親が立っていた。七海名は、母親の隣の半歩後ろに立った。玄関ドアは二重鍵が取り付けられているが、父親の帰宅に気付いた母親の手によって、既に開けられていた。玄関ドアの曇りガラスの向こうに、見慣れた父親の影が映り、ドアが開けられ、七海名の父親が帰宅し、二人に視線をやった。
「戻ったよ」
「おかえりなさい」
母親は、一週間の仕事を終えた夫への労いを込めて、迎えの挨拶をした。それは、十八年前に結婚した当時と変わらぬ、津戸家に嫁いだ者として染み付いた日常的な会話のひとつだった。
「おかえりなさい」
母親よりも敢えて小さく、低い声で、迎えを言葉を口にした。そして、視線は、父親の目ではなく、ネクタイの結び目あたりに向けられていた。
洋風のアンティーク家具で揃えられたリビングでは、風呂を済ませた父親が、ダイニングチェアに深々と座り、夜のニュース番組を観ながらくつろいでおり、七海名は、出入口に一番近い場所に置かれたダイニングチェアに、卒業式の日と同じように足を揃え、両手を膝の上に乗せ、浅く腰かけて、所在なさげに、壁に掛けられた洋画を見つめていた。間もなく、キッチンから食器プレートを持った母親が現れ、弱めに冷やされたグラスを父親の目の前に置き、ビールを注ぎ、次いで、七海名の前に、温かい紅茶の入ったティーカップを置いた。七海名は母親に目を合わせ、
「ありがとう。いただきます」
と微笑んだ。母親もダイニングチェアに座り、家族三人が同じリビングに揃ったところで、父親が早々にビールを口にした。
「今週は会議が多かったね。六月末には株主総会があるから、毎年、この時期は大変だよ」
父親は普段通り、週の出来事を簡単に報告した。
「今週も、お疲れさまでした」
母親は、父親の方を向き、軽く会釈をしながら言った。
「お疲れさま。毎年、この時期は大変だね」
適当に、父親の言葉の最後の部分だけを取ってつけた。そして、父親の目の前に置かれたグラスに注がれたビールを見つめ、昼間に購入したレモン色の色鉛筆を思い出した。同じく黄色系統の色であるが、色鉛筆の方が明らかに綺麗に見える。色が醸し出す雰囲気、印象というのは、色を着けた者、手に取った者、見る者によって変わることを、あらためて感じた。
二十二時前。両親は寝室に入り、七海名も自室に戻っていた。昼間は中心街を歩き回っていたこともあり、疲れを感じ、ため息をつきながら、ベッドに倒れるようにうつぶせになった。
「父親も変わらないな。また今年も、株主総会の資料を持ってきて、取締役のところに自分の名前があることを自慢されるのか。あれ、恥ずかしいから、やめて欲しいよ。社員何万人だっけ。そのトップに自分がいるんだぞって話もされるんだろうな。私にとってはどうでもいいことだよ」
幼い時から、母親や祖父母のことは好きだったが、父親のことは好きではなかった。父親は、大手通信会社の役員を務めている。今でこそ大手企業の役員であることに鼻を鳴らしているが、その実は、大学を卒業する際に就職口が無く、自らの父、七海名の祖父のつてを頼ったことで、勤め始めた経緯がある。父親は口が達者で外面が良く、酒の席も上手にこなし、新しい発想や工夫を凝らすよりも、既存のマニュアルに頼る文書主義的な人間であり、大手のインフラストラクチャー企業に特有の、強固で保守的な体質に守られ、昇進を重ねて来た。インフラストラクチャー企業の体を表すように、野心は無く、家庭で威張り散らすことこそ無いが、新しく見聞を広めようとする意識に欠け、既存の知識と経験で物事を判断し、見栄や虚勢を張るところがあり、七海名と母親の考えや意見を聞くことなく、自らの古い経験談や憶測を語ることが目立った。七海名が日女野女子に入学することも、父親が決めたことであり、それは父親世代の中に根付いている「日女野女子高校すなわち名門女子校である」という、古い印象から来たものだった。七海名が住む西室市近辺には、女子校が数多く存在している。その中で日女野女子は、かつては名門校と呼ばれていたが、古くに定められた厳しい校則が、現代にそぐわないものとなった今も変わらず残り、女子中学生であれば、誰もが進学を敬遠する高校であった。中学三年の六月に、夜のリビングで、七海名の目を見ず、テレビを眺めたままの父親から、日女野女子に入学するよう指示された七海名は、さすがに怒りを覚え、目の前のテーブルを叩いて、ふざけるなと叫びたくなる衝動に駆られた。しかし、ただならぬ七海名の雰囲気に気が付いた母親が、七海名の表情を心配そうに覗いたことで、自分が怒り散らすことで親子関係を悪化させ、家庭の空気を壊し、母親を困らせることだけはしたくないと考え、結果的に日女野女子への進学を二つ返事で承諾する形となった。あれから一年近くが経った今、実際に日女野女子への入学が来月に迫っている。七海名はベッドから離れ、クローゼットを開けた。七海名の背丈に合わせて用意された、サックスブルーの真新しいセーラー服を見つめる。
「制服のデザインと色は、好きなんだけどなあ」
日女野女子指定の古びた洋服屋で、日女野女子の卒業生であろう初老の店主に、不貞腐れながら寸法を測られたことを思い出した。来月から、毎日のように袖を通すことになる制服。七海名にとって、日女野女子での高校三年間という時間が、まるで無実の罪に問われたような、無意味で、理不尽で、不合理な、長い期間に感じる。入学という言葉を聞いて、多くの人間が連想するであろう、桜のような華やかな色は、七海名の頭の中には浮かばず、白黒の、あるいは無色の、じんわりとした、染みのようなものが浮かんだ。そして、諦め、焦燥感、苛立ちと言った、良からぬ感情が心を満たした。
四月頭。翌日に控えた入学式の準備を済ませ、自室にいた七海名は、携帯音楽プレーヤーから伸びる、青色のイヤホンを耳に指し、お気に入りの音楽を聴きながら、十巻完結の漫画を読み終えようとしていた。
「いつ読んでも面白いね。私も、話を作れたらいいんだけどなあ。絵しか描けないからなあ」
漫画を読む人間として、また絵を描く人間として、自分も漫画を描いてみたいという願望は、幾度となく浮かぶものだった。しかし、七海名は、話を考えることが非常に苦手だった。話を頭の中に浮かべようとすると、文字の先に、風景や人物といった絵や色ばかりが浮かんでしまい、つい筆を手に取り、ノートもしくはクロッキーブックを開いてしまうのである。比奈子と愛莉も同様なようで、以前、どうにかして三人で漫画を描けないものか考え合ったことがあったが、三人とも話の構想が浮かばず、
「私達は、ひたすら描くことが専門だね」
という結論に達した。
「ふう」
立ち上がり、読み終えた最終巻を本棚に戻した。本棚に戻された漫画の表紙には、原作者と作画の欄に、それぞれ違う人間の名前が記載されていたが、そこには目がいかなかった。そして、部屋の隅に配置された化粧台に座り、三面鏡と向き合い、午前中、美容室で短く切ったばかりの前髪に触れた。
「既に終わっているであろう、私の高校生活。少しはマシになりますように」
げんを担ぐように、昨日までは左から右に流していた前髪のわけ目を、真ん中分けに変えた。
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