千世子さん
「ああ、自己紹介がまだであったな。私はこの合宿所の管理人で千世子と申す。」
「千世子さん?」
名字を名乗らないのが引っかかったが、さしあたっての最優先事項はサインした書面の内容だ。
「これって何て書いてあるんですか?」
「ああ、さっきは脅かしたが特に意味はない。どの道こんな紙切れ一枚で何かできるわけではないがな。」
うまくはぐらされた気がする。軽く書いてある文言は教えてくれたが意味合いはまるで不明だ。法的拘束力はなさそうだが、何かありそうなのは間違いない。
千世子さんの笑顔がそれを物語っている。
「まあ、ゆっくり晩飯にでもしないか?玄関に出前が来ておるので迎えに行ってくれ。」
「わかりました。」
そそくさと出前を取りに立ち上がったが、そのことに驚いた。
千世子さん言われたことに対し、体が即座に反応してしまう。
推察するに、あの書面が怪しいと気づく。
「上天ぷらきしめん2丁、まいど。2,600円になります。」
支払いを済ませ、台所から木製の四角いお盆をだし、きしめんを運ぶ。
どんぶりとは別に重箱があり、どうやら薬味や天ぷらはその中らしい。
「はい、おまちどうさま。」
コタツの上に重箱とどんぶりを並べた。後は小さい瓢箪ががあり、どうやら一味が入っているようだ。
「うむ、良い香りだ。」
どんぶりを覆っている蓋を開けると一気に出汁の香りが広がる。
ただ、きしめん以外に具が何も入ってなく、きょとんとする。
それではと、重箱を開ける。
まず、上の重には天ぷらが並んでいた。
続けて中の重には鶏の煮物と薬味の小皿が並ぶ。
下の重には何があるのだろうと思ったら、一面に削り節が敷き詰められていた。
「おお、これだ、これ。さあ頂くとしよう。」
千世子さんはほかの重には目もくれず、削り節を自分のどんぶりに半分注ぐ。
「ほれ。」
残りを入れろと言わんばかりに重を私に手渡した。
見よう見まねで注ぐ。
「うわあ、すごい!」
薄い削り節がどんぶりの上で踊る様も良いけど、それ以上にかぐわしい削り節の香りが立ちこめる。
思わずゴクリとのどが鳴ってしまった。
「いただきます。」
何も足さずに一口食べてみる。
薬味が別盛りの理由がわかった。うまいとしか言えない。
目の前の千世子さんがどうだと言わんばかりにこちらを見つめている。
「うまいじゃろ?」
「ええ、とっても。」
千世子さんはうれしそうにしながら、鶏の煮物とネギ、一味をどんぶりに加えていた。
なるほどそういった食べ方をするのかと感心しながらまねをしてみる。
見た目が普通のきしめんになり、これも美味しい。
特に鶏肉がふっくらと煮込まれており、噛むときゅって音がする。
同時に口の中にうまみが広がる。
最後に天ぷらを乗せて頂いたが、ごま油を使用しているらしく、その風味が加わり、また別の味に変わる。
これはすごいと感じたが、何か忘れている気がする。
「落ち着いたか?」
目の前に、暖かいお茶が差し出された。
夢中で食べていたのか、千世子さんがお茶を入れているのに気づかなかったらしい。
「あ、頂きます。」
お茶を飲みながら、ゆっくり話を切り出す。
「ところで、この後、私はどうしたらいいんでしょうか?」
勘違いでなければ、親切で今日の宿を提供してくれたわけではなさそうだ。
千世子さんの意図を素直に聞きたかった。
「急くことはない。とりあえず私と同居してもらう。必要な事はおいおい話すからの。」
話している感じではすぐにどうこうするわけではなさそうだ。
「とりあえず、食器を洗ってくれるかの。洗い終わったら玄関先においてくれ。」
「わかりました。」
「ああ、茶碗と急須は別だぞ?」
満面の笑みをたたえながら千世子さんは立ち上がり、台所へ食器を運び込む。
まあ、行き先がなくて困っていたのは事実だし、しばらくここに身を置くのも悪くない気分だった。
「じゃあ、とりあえず洗いものしますね。」
自分も立ち上がり、千世子さんの隣に向かった。
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