宿屋

「ふう」


 改めて周りの様子を確認する。

 ちょっと移動しただけだが、人影がなく寂しい感じになっている。

 何が近所にあるのかと改めて見渡す。

 目立つ物としてマンションがあった。

 結構立派に見えるマンションだけど何かが変だ。

 よくよく見てると電気が一つも点いていない。

 工事中か新築なのか、周りが暗くなっていているにも関わらず、黒いシルエットが浮かび上がっていた。


「住むならあそこがいいなあ。」


 新築ならちょうどいいとかと浅はかな考えに、自分でもびっくりした。今日の宿を探さないといけないのに。


「あいわかった。住むと良い。」


 突然背後から声がした。びっくりして振り返ると着物の少女がいてさらにびっくりした。

 いつの間にとか思ったが、ぼんやりしていただけかもしれない。


「あ、すまぬ。驚かせたようだな。困っておったようなので声をかけさせてもらった。」


 とりあえず、軽く混乱したが、救いの申し出に逆らう理由もない。

 違和感を覚えながらもここは素直に甘えた方が良さそうだ。

 少女の身の丈は140~150cmくらい?

 見た目は中学生ぐらいだが、雰囲気はかなり年上に感じる。

 長い髪を後ろで綺麗にまとめていて、上品な感じの美人だ。物腰も気品を感じる。


「立ち話もなんだ、茶を出すから座りながら話をしないか?」


 少女がすたすたとマンションの方へ歩き出したので、ついて行く。

 近づくと想像以上に立派なマンションだった。10階以上はある。

 エントランスには灯りがあり、中に入ると1階の管理人室みたいなところに案内された。

 部屋の中に入ると意外に広い。20畳ぐらいはありそうだ。キッチンとダイニングもある。

 調度品は簡素なキッチンテーブルと椅子があるのみなので余計に広く感じる。

 奥には襖で仕切られた畳の間があり、コタツと火鉢があった。


「あったかーい。」


 目の前にコタツがあったので思わず入ってしまった。ちょっとはしたない気がしたけど誘惑に勝てなかった。

 そんなに歩き回っていた訳ではないけど、体が冷えていたのを実感する。この暖かさがありがたい。

 幸い、少女はそんな事には気を留めず、急須を手に取り、火鉢に掛けられていた鉄瓶からお湯を注いだ。

 手を伸ばすとき着物の袖を左手で軽く押さえ、白くて透明感のある腕が伸びる。

 しばらくしたら、伏せられた茶碗を起こし、急須からお湯を注いだ。

 空になった急須に茶葉を入れ、茶碗のお湯を急須に戻した。

 そのちょっとした仕草がとても優雅で見入ってしまった。

 しばらくすると目の前にお茶が差し出された。


「あ、すいません。ありがとうございます。」


 緊張がほぐれて、口が軽くなったのか、お茶をゆっくり飲みながら、ここに来るまでのいきさつを話した。


「大変だったようだな。まあ、ゆっくりしてくれ。」


 聞くところによると、ここは4月オープン予定で入居者はまだいないそうだ。

 学生向けには立派すぎるが、シェアハウスとかもあるのかなと期待する。

 まだ準備中だが、今回は事情を考慮してくれるらしい。ちなみに男子禁制とのこと。


「ちょっと面倒だが、書面を作らぬといかんのでな、待っておれ。」


 経机から墨汁と硯が出てきたが、なぜかそれが自然な事のように感じた。

 暖かいコタツとお茶ですっかり緊張がほぐれて眠くなってきた。

 目の前ですらすらと筆が走る。でも達筆すぎてよめない。すごく美しい文字が並んでいるとしかわからない。


「ここに名前を書いてくれ。」


 差し出された書状の横を指さし、差し出された。

 ぼんやりしながら、促されるまま名前を書いた。


指宿いぶすき なおっと、よし。」


 その瞬間、少女がほほえんだ気がした。心の中で「しまった!」と叫んでいる私がいたが、たぶん手遅れなんだろう。


「ちなみ、これってなんの書類ですか?」


 自分の顔が引きつっているのがわかる。


「たいした物ではない。一応のお約束だ。」


「よく小説や漫画で出てくる、サインするとやばい類いのやつですか?」


「御明察。」


 少女がゆっくり茶を啜った。

 今日はとことんついてないらしい。厄日だ。

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