第二話:異形の才花(2)
「…………ふぅ」
一刻半後、
町中の市をぶらつきながら、環は深々とため息をついた。
その数歩後をぴったりと、ずっとニコニコしたまま舞鶴はついてくる。
はや夜の闇の深い時節だというのに、まるで昼間のように各国の珍品がやりとりが行われ、銭が回る。
環自身、格子窓より娼婦の小袖に袂を引かれること数度、鼻を伸ばしかければ、
「にこにこ」
「……口で言うなよ」
満面の笑みの黒衣の尼僧が傍に控えていれば、萎えるというものだ。
「……だぁあ! なんなんだよ!」
「殿のお守りは家臣の努めですので」
「お守り、お守りって言ったか!? 余計なお世話なんだよっ!」
「それと舞鶴には、一つお聞きしたいことがあります」
――本題はそっちだろう。
その回りくどさにうんざりしながら、アゴでしゃくって問いを促す。
「……何故、流天組の主導権を委ねたのですか? その気になれば、奪えたはずであるのに」
市の声が遠くなった気がした。
嫌そうに顔をしかめた環は、前髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。
深々とため息をつきながら「仕方ないだろ」と己を納得させるように言った。
「だって相手は幡豆由基だぞ? 弓の腕においてはあの佐咲らにも引けをとらない剛の者、さっき見たとおり、頭も切れるし、実はあれでも神家だから教養もある。今さら俺が取って替わる! なんて言ったら、眉間に矢が突き立つぞ」
「しかし殿は……あの一瞬、確かに他の者を呑んでいました。あの、酒場での啖呵にて」
舞鶴は細めた眼の奥、長い睫の下、ほんのわずかな陰を潜ませて言った。
「もう一度お尋ねします。何故、その器量がありながら人の上に立とうとしないのですか?」
「……それってアレか? 『実は本気出せば俺はすごいんだけどぉ、ふだんはめんどくさいからやらないんですぅ』って、怠け者の常套文句か? ……冗談じゃない。俺はせいぜいこの程度の小器さ。人から嘲られて、見下されて、ヘコヘコしながらそれに甘んじて、ただ流されるだけの、な」
おどけて見せても、舞鶴はニコニコ笑っているだけで、特別感想を漏らすことはなかった。
つまらない、と思いつつ、フンと鼻で嗤って、環はきびすを返す。
~~~
それぞれの通りの交差点にあたる広場に出た。
露店が立ち並び、トウガラシや油、瓜や大根を売り、行商人が陶器や薬効定かならぬ怪しげな薬を売る。
その中に、ぽつねんと浮かび上がる小さな人影があった。
広げられたムシロの上には布きれや小皿や、あるいはかんざしが並べられている。
だが、客がそこに立ち寄らないのは、そこ店主の若さゆえだろう。
歳は十二、三と見た。
表情はぼんやりとしているが、眼光はそれに反して強く、顔立ちも悪くない。
粗末な衣にくるまれた肌は、日に焼けているが黒絹のようになめらかで、体はやせ細っている。
丁寧に結い上げられた豊かな黒髪は、通行人の目には入らないのか。
もう二、三年もすれば、イヤでも人の目を惹き付けることは明らかだった。
「よぉ」
なんとなく興味が沸いて、環は少女に気軽に声をかけた。
じっと見上げる瞳は大きく、吸い込まれるようだった。
「お店ごっこか」
「ごっこじゃない。あたいのお店」
拗ねたように抱えた膝に口元を埋める少女に、環は苦笑してみせた。
「しかし商売っ気がないようにも見えるが……盗品か?」
「違う。拾った」
「拾った?」
「合戦場とか、盗賊の逃げた後とか」
「あぁ」
と、環は納得した。
つまり、合戦の後、死体や敗残兵が散らかしたもの、あるいは盗賊が手当たり次第かっぱらったおこぼれ、それらを少女は拾っているのだ。
孤児か、あるいは貧困な両親に生まれたゆえか。
無論、環にはそれを咎める気はなかった。
所有者のなくなったそれが、生者が生きるために使われたとしても、なんら問題はないだろうと考えているからだ。
「買うの? 買わないの?」
正体不明の馴れ馴れしい客に、少女はうさんくさげに不審の目を向けた。
歯切れ良く、心地良い声の響きが、環の耳には気持ちが良かった。
「じゃあ買おうか。……そこの帽子」
竿だけに立て掛けられた鍔つきの丸帽子が、少女への憐憫を抜きにして環の感性の琴線にひっかかった。
赤い布地に、薄く格子状の模様が入っている。
帽子のでっぱりの付け根に黒い帯。
少女に断って手にとってみると、これまた奇妙に柔らかい手触りだった。
――襲われた商人の、都からの仕入れの品か。
この辺りの流行ではまず見たことのない意匠である。
あるいは時折海に流れ着くという、未知の品か。
どんな出自にせよ、彼が一目惚れしたのは事実だった。
「うん。気に入った。これくれ」
「銀五粒」
「はいはい」
その程度は安いものだ、と懐から銭を相応の金銭を支払う。
この交換により、所有権は誰ぞと知らない人物から、この色黒の少女に、少女から、環へと推移していった。
いそいそと、彼は頭にかぶってみる。
「……へへっ、どうだ?」
くるりと回ってみせても、少女は無関心そうに、じっと唇を引き結んだまま、対価となる銀貨を手元のビクの中へと放り入れた。
「……あのなぁ。そういうときは、世辞でも言っておくんだ」
「そうなの?」
邪気もなく目を丸くする少女の前に座り込み、彼はコクコクと、何度も頷いて見せた。
「商売の基本だな。お前、名前は?」
「
「鈴鹿。いい名だ」
「おだてたって、まけないよ」
「別にいいって。……ま、ともかくだ。こいつは商売のみならず、人との付き合い方の基本だ。人は歓ばせれば気前が良くなる。おだてるんじゃなく、媚びるんじゃなく、相手が必要な時、必要なもの、必要な言葉によって応える。そうすれば人は動く。例えその見返りが、利や理に合わないことでも、な」
未だ合点がいかない、と少女、鈴鹿は首を傾げる。
秘めたる鬱屈ゆえか、ちょっとした気の緩みか、環は口を滑らせた。
「例えば……俺の友人に幡豆由基というのがいる。育ちの良いせいか賢く、誇り高く、反骨精神旺盛で、特に自分の領域に踏み込まれると強い反発を覚える。だが、決して度量が狭いわけじゃない。むしろ目下に対しては面倒見がよく、懐が深い。……だったら、いっそ目下になれば良い」
自分があの場で流天組の主導権を握ろうとしていたら、賢い友人は自らの既得権益が侵されることを悟るだろう。
――今は仲間内で争っている場合じゃない。
「安いもんだ。ガキ大将の座と五、六の家来であいつの戦力が買えるなら」
ふとこぼれた己の言葉に、環は苦いものを感じた。
ごまかすように手をやった頭に帽子があって、目深にかぶり直した。
「どうにも波乱の世におもむろに放り出されたせいか、性格も口も悪くなって困る」
苦笑交じりにそう言って、不思議そうに覗き込む少女の頭を撫でる。
まるでネコのように、彼女がくすぐったげに目を細めた時、流天組の一人、色市始がその広場にやってきた。
無人の台座にのぼる。
この見慣れぬ若者が、オホン! とわざとらしく咳払いしたので、民衆の耳目は東部の道にいる彼へと向けられる。
「えー、皆! 聞いてもらいたい! 我は順門は城西の住人、色市家庶子の始だ! 既に聞き及んでいるとは思うが、先日鐘山の殿様が非業の死を遂げ、その黒幕である弟の宗善が城を奪い、嫡子環殿を逐った! かような非道の御仁に、国を委ねてよいものだろうか!? 秘事ゆえ多くは言えんが、現在、環の若殿は我々が保護させてもらっている! そこで諸君らの義心に期待する! すなわち食料、武具を貸してもらいたい! あるいは我こそはと思う者は義戦に参戦されたい! さすれば我らは大敵を討ち、皆の義援に必ず報いるべし! 詳細は北の通りの高札にある! ぜひともご覧いただきたい!」
「……何やってんだ、あれは」
突然始まった胞輩の演説会に、当事者でありながら何故か蚊帳の外の環は、呆れつつ遠巻きに眺めていた。
「お聞きのとおり、皆から有志で食料や資材、人員を集めようとしているようですね。向こうに高札も立てられてましたし、おそらくはここで挙兵する腹かと」
「だぁっ!?」
気づけば隣に、黒衣の美女が座っている。
驚く環をよそに「あ、これくださいな」などと、鈴鹿の品を漁っている。
「資材、人材って……あんたが俺を救った時の兵はどうしたんだよ? あの時は鉄砲が鳴り響いて……」
「あぁ、それ。ただのおふざけ、ですよ」
と、彼女が黒い袂から取り出したのは、筒のようなものの集合体だった。そこから導火線が数本伸びていて、顔を寄せるとかすかに火薬の臭いがした。
「これに火をつけると、中の火薬が破裂して音を出すんです。実際私の一党の戦力は二十人、それと鉄砲が五挺。いかに私が可愛すぎる伝説の名将! ……と言っても、今度まともにやりあえば、太刀打ちできません」
「…………」
言うべき言葉は特に見つからず、客の反応の薄い演説を、環は黙ってじっと見ていた。我こそはと名乗り出る投資家は、今もなお現れない。
「……もう少しやり方があるってもんだ。このままだと、何年経っても集まらないぞ」
「では、殿ならばどうします?」
若き主は舞鶴を見た。
美しい貝殻を目にした少女のように、何かを期待するかのように、彼女は輝く黒曜石の瞳を環に向けていた。
一瞬強く顔をしかめた環だったが、観念して、大きく息をつく。
それから、表情の乏しい鈴鹿という少女の方へと向き直り、
「なぁ鈴鹿。お駄賃やるから、ちょっとおつかい行ってきてくれないか?」
「良いよ。何買ってくれば良いの?」
「できるだけ大きい紙と、それから筆を」
不思議そうに小首を傾げる彼女たちに、環はそれ以上は説明せず、無言で首をすくめただけだった。
~~~
糊と米とで貼り合わせた広い紙面の上に、筆を走らせる。
描いているのは文字ではなく、絵図。
「上手いね」
と鈴鹿がイヤミもなく褒め称え、
「あぁ、昔絵を書いてたみたいですので。自分たちの象徴とか」
と舞鶴がイヤミたっぷりに尋ね、
「……次言ったら女でもぶん殴るからな」
と、環の眉間にシワが寄る。
その険しさが和らいだのは、環の全身ほどはある面積の紙を、その図で埋めた時だった。
「っし、できた」
と筆を下ろした時には、巨大な紙面に描かれたものは何かと、既に多くの民の興味を惹いていた。
対照的に、長時間、長広舌で語り続ける色市の周囲の人々は嘲笑、あるいは冷笑を浮かべて、彼ら六人衆の要求に応じることなく、
「……あちらさんそろそろ助け頃だな」
色市の表情には焦りと陰りが見える。誇りはすでに折れかけている。ここで救いの手を差し伸べたところで、平素のごとく、邪険に扱われたり、あるいは嫉妬を買うこともないだろう。
そう打算した環は、帽子を目深にかぶり直しながら、二人の女を振り返り、
「それ、持ってきてくれ」
と、簡単に命じた。
「承知しました。……鈴鹿殿、でしたか。さぁさぁ、お運びしましょうね」
「うん」
それは、奇妙な一団だった。
可憐な少女と妖艶な美女とが捧げるような慎重さで紙を運び、その前を赤色の長羽織と奇妙な帽子を身につけた、青眼の少年が立って歩く。
それに導かれるかのように、何が始まるのか半ば期待している十数人が、ぞろぞろと連れ立っている。
「……で、あるからして!」
もはや声が裏返ってかすれた色市始の肩を、背後に回った環がそっと押さえた。そして取って代わるかの如く彼の前に立つと、
「やっ」
と、ゆるやかな笑みと共に、軽く手を挙げた。
それだけで、彼が兵糧や武具の代わりに買っていた冷笑は、ピタリと止んだ。
台座の上に立つのではなく、どっかりと腰を下ろして人々に目線を揃える。
「俺が鐘山環だ。さっきから、俺の仲間が騒がせたようだが、商売の邪魔をして悪かった」
横槍を入れた少年の背後、見せ場をとられた色市が口を開きかけたが、それは舞鶴の肘に小突かれて妨げられた。
「まぁ、ベラベラと喋っていたが、要約するとこうだ。『俺たちは腹が減ってる。オマケに長話するもんだから喉も渇くし、追っ手が怖いから対抗するモノが要る。だから、助けてくれ』」
環は帽子をとった。短い黒髪をさらし、しずしずと下ろしていった。
気づけば彼らの前には数十人の人だかりがいて、自分たちの『元殿様のご子息』が頭を下げる、という珍妙なるも哀れな姿を、ざわめきと共に見物していた。
「もちろん、ただとは言わない。それぞれの相応の報酬を支払うつもりだ」
「つもりだ、とは……そこのお坊ちゃんみたいに証文でも書くんですかい?」
悪相の男が一人、そこに異を挟んで前に出る。揶揄するような凶悪な笑みに、いやいやと環は首を振る。
「紙切れ一枚と米俵一俵じゃ釣り合いもしないだろ。大体、あんた方も薄々感づいてるだろうが、殿様とか天子様とかなんて信用しちゃいけない。宗善を見ろ。あいつは親類縁者まで殺しておきながら、それが正しいと説いて回ってる。朝廷を見ろ。帝は天下万民を想うとか言ってたらしいが、あいつの顔見たヤツ、この中にいるか? 俺だって、紙切れ一枚、口先三寸で米俵がもらえるなら、苦労しないさ」
道義的にあまりな言いように、不謹慎な笑いがところどころで起きた。
「だから俺はここにいる皆と取引したいんだ。今、この場でな」
環の後の家屋の塀に、例の大きな紙が貼られる。
そこに鮮やかに描かれた俵の絵と、刀の絵は、周囲のどよめきを呼んだ。
「米俵一俵、いの一番にくれたヤツに、この家宝の守刀をくれてやる!」
ゴトリ、と。
絢爛な装飾が施された朱鞘の短刀が、音を立てて環の足下に転がった。
「んなっ!」
まず反応を見せたのは、身近にいた始だった。
「気は確かか環!? それは、父祖伝来の王争期の品で、常ならば家一つ建つ値だ! それをたかが米と交換だと!?」
――良いぞ、こういう時に色市の饒舌は輝く。
「そうだ! 殿様の宝なんて、めったに手に入るもんじゃないぞっ! それが今ならたかが米と取り替えられるんだ! 売って換金するも良し、武具として使うも、家伝の誇りにするのも良い! 二番目、三番目に持参した人にも、量に応じ、こちらの持ち金が尽きるまでは相応の金額は支払う!」
環は帽子を目深にかぶり直した環は、自分でも、最高に意地の悪い笑みを浮かべていることを自覚していた。
「あとは、鐘山環の事業の第一歩を陰で支えたなんて名誉も、オマケでついてくる! こいつは良いぞ? 孫やガキ、女房への自慢になる。誰も殺さず、誰にも殺されず、鐘山の功臣になれるんだ! おい、そこのおっちゃん。見たところツラで損してるって感じだが、美談の一つさえあれば女もなびくだろ!」
「よ、余計なお世話じゃ!」
と、指さしされた男が、赤ら顔をさらに紅潮されると、どっと賑わいだ。
「さぁ、速い者勝ちだ! 買った、買った!」
鐘山環のその号令を合図に、常灯の町に、さらに活気の炎が宿る。
「よぅし、次は分厚い布、浅だろうが縮緬だろうがなんでも良い! まだ味噌、塩も受け付けてるぞ! あと馬草! 馬草が足りん」
「よう大将、魚は持ってくかい?」
「ったく、夕餉の材料買いにきたわけじゃないんだぞ! あっという間に腐っちまうって! 敵の前に自分の腹が下るなんて笑い事にもならない!」
「若殿さん、刀の代わりはいるかーぁ? 数打ちだけど」
「まぁ包丁がわりにはなるだろうな! 一つくれ! ……いやもう予算はない。すまん、そこの尼の乳揉ませてやるからそれでカンベンしてくれ」
「舞鶴はいやでーす。殿のお尻でも貸したらどうです?」
「……お前、主の貞操質に出すんじゃないよ」
「環、お皿、要る?」
「鈴鹿か、おいそこの黒いの、紅皿として買ってやれよ」
「あらそういうものは、殿方に買っていただけるものでしょう?」
「その通りだが、お前にはどうにもそんな気がおきなくてな」
……やりとりの度に、津々浦々の品は、節操なしに環の前に積まれていった。
環が要求したもの以外にも、民は自分で考えて商品を売りにくる。
それにてきぱきと対処しながら、時に道化となって笑いを誘い、時にその商談に応じたりした。
換金し、あるいは交換し、交換した品をまた交換し、彼のいる場所が一夜を経ずして、町の流通の中心になっていた。
馬のいななきが間近で聞こえ、「だぁっ」と環はのけぞった。
台座から転げ落ちて見れば背の低い老爺が、自らの身の丈の倍はある、鹿毛の馬を連れて前に出ていた。
農耕馬の筋肉や毛皮のツヤではない。紛れもなく、どこかの武家から連れ出されたものだった。歳もまだ若そうだ。
老爺の身なりも、馬丁や農夫のそれではなく、商家のご隠居や好事家のそれだった。
「どうぞ、若殿さま。この覚王かくおうを供にしてくだされ」
「馬、か……さすがにそれに釣り合う金品は……」
「いえいえ、そのようなものは要りませぬ。知り合いから譲り受けたものの、この老体ではあぶみに足をかけることもできんで、若殿さまのお役に立てれば、この子も本望でしょう」
「……しかし爺さん……」
「それに良いものを見せていただいた。亡き宗円公、宗流公を思い出させる啖呵でしたぞ」
からからと、上品に老人は目を細めて笑った。顔にシワがやると、細かい傷がかいかに浮き彫りになって、この老人の壮絶な半生を想起させた。
「……どうやら断る流れじゃないようだな。わかった。ありがたく頂戴する」
帽子を握りしめるように掴み、環は深々と頭を下げた。
老人の姿が、人波に揉まれて完全に見えなくなるまで。
「……さて、これからよろしく頼む……覚王」
そして彼は愛馬となるであろうその名馬の額に触れようと手を伸ばし、
がぷり
噛まれた。
きれいに生えそろった歯が、環の頭部を挟み込んだ。
掴んだままの帽子が、脱力した手からはらりと滑り落ちた。
生々しい感触にまみれながら、彼は怒って良いのか、自らの情けなさを嘆いて良いのか、分からなかった。
だが、
「…………ぷっ」
と噴き出した黒衣の女神を皮切りに、爆笑に包まれた。
「……ま、足蹴にされなかったから主と認められた、ということにしておこう」
強引に顔を引き抜いた環は、涼しい顔をして強がった。
その声は、震えていた。
――あの爺さん、単純に暴れ馬の扱いに困って押しつけただけなんじゃないだろうな?
という恩人に対して半ば失礼な勘ぐりを向けつつ、環は鈴鹿の差し出した麻布で顔をぬぐった。
未だ引かない笑いの潮の中、唯一表情を曇らせる男に近づいた。
他でもなく、演説にしくじった色市始だった。
「……すまん」
と、己の非と、その失敗を挽回した環の力量を認め、胞輩は素直に頭を下げた。
「気にするな。相性の善し悪しもあるだろ」
と、落とした肩に手を置いて慰める。
――高僧や講談の英雄は、人間は利益や感情だけじゃないと言う。だけど、道理や道徳で腹は膨れない。
というのが、この青眼の少年の思考の根本にある。
「それで、殿は」
色市の背後には、いつの間にか舞鶴が、鈴鹿を伴って立っている。
「ここで挙兵すべきとお考えですか?」
――考えてたら、武具や人員も募集している。金も温存している。
こちらが損をしてまで食料や生活品を買ったのは、迅速に量を集めてここから離脱するためだ。
金を残したところで宗善の配下には賄賂も通じまい。
徒手空拳の者が短刀をにわかに手にしたところで、その刃が敵の心臓に届くことはない。
だがそんな考えを押し殺し、環はややしめった髪をくしゃくしゃと直しつつ、肩をすくめた。
「我らが頭領さまの考え次第だな。色市、喉も渇いてるところ悪いがユキに繋ぎをつけてくれ。『できる限り集めたが、これが限界でした』とな。……組で一番口と頭が回るお前の仕事ってことにしておけば、あいつも咎めないだろ」
「しかしこれはあんたの…………っ……承知した」
きびすを返し走り去っていく饒舌家の背に、環はかぶり物を拾って頭の上から抑え込む。
声なき言葉の続きを投げかける。
――それに、ユキもバカじゃない。兵が集まらなかったら、流石に凶行を断念するだろう。となれば……
「順門府を出てどこかの府公家を頼り、兵を借りる」
……続きを声にして軽やかに代弁したのは、他でもなく、黒衣の女だった。
「そしてそれこそが殿の本望、と考えましたので、既に我が手勢を心当たりのある各地へとに派遣しております。……あ、もちろん殿を警護するだけの余力は残してありますので、ご安心を」
「……ち」
にこにこと、ぬけぬけと。
こちらの意向を当てて先回りする女の気遣いに舌を巻く。反面、「お前がやれば良いのに」と、全部投げ出したくなる。
だが弟妹の死を聞いた時から、彼は決断していた。
自らの裁量で、宗善に、銀夜に、彼らを是とする重臣達に、
しかるべき報いをくれてやるのだ、と。
佐咲、渥美ら百騎の馬蹄が、荒々しく夜の町に踏み込んだのは、それからすぐのことだった。
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