第一話:黒衣の尼僧(3)

 鐘山環は、目を覚ました。

 立ち上がろうとするも、思うままにその身は動かなかった。

 混乱を起こす間もなく、自らの手足がくくりつけられていることに気がついた。


 ……そもそも己の身体は、横になっていないことを知り、彼の意識は完全に覚醒した。


 磔。

 それが、己の現状を物語っていた。

 今まで自分たちにかしづいてきた父の家臣達は、新たな主を仰いでいる。

 その叔父の視線が、じっとこちらに注いでいる。

 そこに喜びも、後ろめたさもなく、ただ路傍の虫を見る目だった。


 男の傍らで、銀髪の娘、鐘山銀夜が書を開いて、滔々と読み上げた。

「この者の父、鐘山宗流はもっぱら暗愚にして、先々代の悪習ばかりを継ぎ、朝廷をないがしろにすること明白。それに義憤を抱きし我が父の妙策によりこれを討ちしも、その息子は今こうして健在。その悪習の命脈、断つべし」


 異口同音。

 皆が「断つべし」と繰り返した。


「ちょっ……待」

 制止の声を遮るように、ギラリと槍先が二本、己の喉下へと押し当てられる。

 冷たい槍先がかすかに肌をかすめ、熱い血潮がそこを伝った。


「よってこの者を、磔刑に処す」


 そして処刑人は二人同時に、その槍を両側から突き立てた。

 ためらいも、儀式的な過程もなかった。

 痛みはなく、虚無感だけが残った。


「千秋万歳」

 と、野太い声で叔父宗善は言った。

「千秋万歳」

 と、合わせて一同が唱える。


 薄れ行く意識、遠のく声。


 ――それも、良いのかもしれない。


 今際に、ふと思った。


 ――それで皆が喜ぶのであれば……死ぬの、も……


~~~


「……っ!」

 今度こそ、環は悪夢から目を覚ました。

 手にはムシロのささくれた感触。背には硬い布団の感触。

 じわじわと現実を取り戻していく視界の片隅に、黒い塊のようなものが見えた。

 それがあの、黒衣の女であるということは、彼女が発した「あ」という声で知れた。


「お目覚めでしたか、殿」


 女、勝川舞鶴は、環のことをそう呼んだ。

 慣れない呼称に戸惑う環は、視線を泳がせ周囲を見渡した。

 どこかのあばら屋だった。

 銛や投網が壁に立て掛けられている。そのわずかな吹きさらしの隙間から、磯の香りが運ばれてくる。つまり自分は匿われていて、ここはどこかの漁師町で……そして、まだ生きている。

 この、謎の女に救われて。


 女は少年に歩み寄る。

 その袖口を環にそっと寄せて、

「大丈夫ですか? ずいぶんうなされていたご様子ですが」

 と汗と涙を丹念にぬぐい取る。

 屈んで近づく、顔と、女性らしさを体現した身体つき。それを包んで浮かび上がらせる、上品なツヤを持つ黒衣、焚き込めた香が、海の臭いを突き抜けて鼻孔をくすぐった。

 ビクリと、大きく揺れる肩が、彼自身の狼狽を教えてくれる。


「あ、あぁ……」

 その首肯を見て安堵したか、音もなく身を引いて、黒衣の女は満足げに、艶然と笑んだ。

「それは何よりです。……ささ、こちらを」

 薄緑の液体が注がれた飯盛り茶碗を差し出す。

 訝しげにそれを見つめる環に、

「毒ではありませんよ。薬酒です」

 と舞鶴は無言の疑問に答える。確かに、魅力的な発酵臭は、酒類のものだ。

 何日眠っていたかはしれないが、体中の水分は汗と涙で抜けていて、喉も渇いていた。

「ささ、ぐぐっと」

 手をかざして飲酒を勧める美女を。環は完全に信頼したわけではなかった。

 が、命をとろうと言うのであれば、あのまま放置すれば済んだ話だ。それに、今は身体が目の前のものを望んでいた。


 杯を手に取る。

 そのまま一気に呷る。


「……ぐ……え……っ!」


 瞬間、喉が拒絶反応を起こした。


「……はっ! ……がはぁ……っ!」


 たまらず吐き出し、倒れ、えづき、床と布団の上を往来し、のたうち回る。

 苦痛は言葉にならず、治まることのない手足の痙攣が代弁をする。


 ――毒!


 ……ではなかった。

 むしろ、少量しか肉体に取り入れなかったにもかかわらず、すっと身体に溜まった淀みのようなものが、除かれる心地だった。

 だが、何故そんなものを拒んでしまったかと言えば、


「まっず! まっず! 何コレ超まずい!」


 それに、尽きる。

 良薬口に苦し、とはどこぞの誰かの格言だったか。出所不明の神話であったか。

 だがこの味は、そんな名言を吹き飛ばす、ケタ外れのものだった。


「アシタバを漬け込んだ、秘伝の薬酒です。アシタバは『明日葉』とも申しまして、今日摘んでも明日には葉が生えるほどに、生命力が強い薬草。疲労を取り、気血を整えますが……どうやらお口に合わぬご様子で」


 舞鶴がその薬効の解説をしたが、悶える環の耳には、ほとんど入らなかった。

「み、水……水をくれ!」

 ふぅとため息をつくと、薬酒の処方者は転がる空の杯に、鉄瓶から薄茶色の液体を注いだ。

 環は反射的に起き上がると、それを手に取り、再び口に含む。

 ……だが彼は、その中身が何であるかをまず問うべきだった。

 期待していた麦茶の類ではなく、


「ぶはっ!」


 先ほどの劇物を遙かに上回る苦さが、彼の全身を駆け巡った。


「おごぉぉぉぉ! ぐぇえぇぇぇ……!」


「まぁ。山芋酒もお気に召さないと? 滋養強壮あとは精力増強の効力があるというのに……ぽっ」

 何を考えたか、いかにもわざとらしく赤らめた頬に、舞鶴は両手を添える。

 いい加減、この女の正体を悟りかけた環だったが、それでも現在進行形の苦痛から逃れるべく、「助けてくれ」と、救いを求めて手を差し出した。


「仕方ありませんね。では、そんな子ども舌な殿には、コレ、蜜柑を煮詰めた果実酒を……」


 中身が何であるか、教えられれば怖くはない。


「ぐえーっ!」


 ……そう、信じた環は自分の愚かさをなんべんも呪った。


「……まぁ、他にも山ウド、松の実、竹の葉、シソ、菊花、シイタケ、あとはなんかそのへんのを適当にザラッと入れましたけど」

「殺す気かッッッ!」


 失敬な、と依然として謎の女は、さながら童女のように口を尖らせた。

「むしろ舞鶴は殿を想い、身を捨ててまでお救いしたというのに」

「さっきまでその『殿』で遊んでただろうがッ! っていうかなんだあんたは!? 舞鶴と言ったが、鐘山の家臣か!? それとも順門府のいずれかの土豪か!? 国衆か!? あるいは僧兵か!? 他国の手引きか!? なんで俺に荷担する!? 主君と仰ぐ? じいさまと親父殿の死の際にいたあんたは、どうして歳をとらない!?」


 一気にまくしたてる環とは対照的に、まぁまぁと、おっとりと、盛り上がった胸の前で手を重ね、舞鶴は目を細めた。


「それだけお元気になれば、大丈夫ですね。舞鶴の薬酒もお役に立てたようで何よりです」

「答えろ!」


 彼女の遁辞にはぐらかされることなく、環はまっすぐ問いをぶつけた。

 まるで少女のようなその生物は、目を細めたまま紅を引いた口元を引き締め、裾を払ってすっくと立ち上がった。

 たったそれだけで、美しさは質を変えて、ぞっとするようなものへと変わる。


「申し遅れました。わたしは介勝山かいしょうざんの住人にして、そこにある古寺の主をしております、勝川舞鶴と申します」


「介勝山……?」

 その名は知っている。板形城の北にそびえる大山で、気温の高い西国の中で、唯一雪の積もる名峰として知られる。

 そこに立ち入ることは余人はおろか、支配者たる鐘山一族の中でも現当主しか踏み入ることの許されない土地であった。

 ……何故入山が禁じられているか、環は疑問を抱いたこともなく、ただ漠然とそういう規則なのだと受け入れてきたが。


「この身は不死ではありませんが、不老の体質を帯びておりますので、この外見を保っております。それゆえ、人はわたしのことをこう呼びます」


 十年前より変わらず娘の姿を保つ黒衣の魔性。

 老化も成長もしない魑魅魍魎の存在を、人はどう呼称するのか……?


「そう……美しすぎる黒衣の宰相!」


「………………」


「もしくは……可愛すぎる尼僧!」


「………………」


 恥ずかしげもなく自称する『美しすぎる黒衣の宰相』兼『可愛すぎる尼僧』は、沈黙を守る環の反応を引き出すかのように、手を頭に当て腰に当て、あるいは長い黒髪をなびかせ、得意げな顔を作る。

 その絶対的な自信に満ちた表情からは、どこからともなく「どやぁ……」という音が聞こえてきそうだった。


 どう答えたら良いか。

 それが見いだせないまま、彼の口からは自然と言葉がこぼれていた。

「……あんたが、何者かなんて今の話聞いてもピンとこないし、正直あんまり知りたくもないけど、あんたがどんな人間かは、分かった気がする」


 そして思った。


 ――黒い尼僧が仕えるんだが、もう俺はダメかもしれない。


「……ともかくっ!」

 と、環はようやく己を取り戻した。

 これ以上主導権を握られてなるものかと、躍起になって声と力を振り絞り、足に力を入れて身体を支えた。


「世話になった。だけどこれ以上の援助は要らない。あんたがどういう理由で俺を助けたかは知らないが、叔父御……新しい順門府の当主様は宗教とか慣習だとか、そういう不確かなものが嫌いなお人だ。こんなところを見られたら、あんたの寺とやらも即刻潰される。だから……ここからは一人で良い」

 返答は待たず、彼は布団の枕元にあった朱色の長羽織を打ちかけた。

 戸口に帳のようにかかった麻布を手で払いのけて、外に出る。


 瞬間、目映い光が、先ほどまで意識の闇の底にいた環の眼を鋭く突いた。

 それは太陽の輝きではない。目の前の集落が放つ、家々の灯りだった。

 規模はそれほどでもない。環のいる浜から、この町の全容は見て取れた。

 所々で飯を炊く煙があがる。喧噪や雑音が数町離れたこの外れにまで聞こえてくる。遠目からでも、今この夕暮れ時を昼に戻さんばかりの賑わいが、そこにはあった。


「ここがどこか、おわかりで?」


 先の突っぱね方などまるで気にした様子もなく、勝川舞鶴は環の耳元で囁くように尋ねた。

「……大渡瀬おおわたせ。板方城東の港町だ」

 ということは、未だ順門府領内。しかも国境からはまだ遠い位置だ。

 ……ふるさとであり、敵地の真っ直中。

 かつて王同士が争っていた時代、ここから水運で様々な国と交流していたという。

 こんな小さな場所に、いろんなものが入り込んでくる。

 こんな小さな場所なのに、いろんなものを容れてくれる。

 技術も、品も、人も。

 ……清濁混じり合った形で。


 農耕、操船、軍学、輸入品、献上品、流浪の民や他国の使節……亡命者、荒くれ船乗り、流れ者、遊女、あるいは戦場からかっぱらった戦利品。他国の機密。

 そして城を追い落とされた、貴種のご落胤。

 銭や娯楽になるものは、必ずここを通るとさえ言われている。


 競うように建てられた家屋の構造の無秩序さが、その悪性を証明しているかのようだった。


「……たく、こんな時間にガンガン、ガンガンと……」


 そう悪態をつく環の口の端には自然、笑みがこぼれていた。


 ――久々に、生きてるって感じがする。


 軽い感動さえ覚えていた彼の横で、にこにこ、楽しそうに黒衣の尼僧は控えている。


「やはり、先代、先々代の血ですねぇ」

「……は?」

「お二人も、人間の不条理、非合理、情欲を愛でる性質の方でした」

 まるで己が人間でないかのような、超越的な物言いで、この不老の悪女は声を弾ませた。

「……冗談じゃない」

 環はブスっとして言い返した。

「確かにあの二人はとんだ放蕩者で、酔狂を好んだが、そんなのに振り回された俺はいたってマジメな人間だよ。むしろ、秩序や静謐を求める叔父御に近い性質を持っているんだがな!」

「その叔父上は、殿を殺そうとなさいましたが?」

「それは! ……なりゆき、だろ……っ」

 着物の袷をきゅっと掴む。心が軋むような音を立てている。その痛みから、環は唇を噛みしめることで耐えていた。

「俺がいると、せっかく立ち直りつつある順門の治世の邪魔になる! 国中の皆が、俺の死を望んでる! そうじゃないのか!?」

 舞鶴を突き放すように、環は腕で大きく横一文字を切った。

 しかしそこに手応えはなく、孫を見る老婆のように眼を細めた彼女の、若々しい顔の前を横切っただけだった。


「……かもしれないですねぇ」

 のんびりと、しかし残酷に、彼女は主の言葉を否定しなかった。

 ただし、その肯定の次に、「それでも」と付け加えた。

「舞鶴は、惜しいと思いました。……環殿には、鐘山宗善の命だけでなく、天下を獲るほどの力があるというのに」


 ――惜しい? 惜しいだって?

 自然、口元から笑みがこぼれた。

 だがそれは先ほどの同質のものではなく、女の吹飯物の意見に対する、そしておのれに対する嘲りのものだった。


「一国どころか一城の主でもなく、今この瞬間にも殺されるかもしれない、この俺がか?」

「……では、逆におたずねします。殿はこの先、どうされるおつもりで?」

 にわかに、現実に戻された気がした。

 その温度差が環の頭を冷やした。今まで耳に入らなかった潮騒の音が、よく聞こえてくるほどには、落ち着きを取り戻すことができた。


「それは……考えてなかった。けど、むざむざ死ぬつもりはない。ここから海を渡り、どこぞに草庵でも結んで、そこでひっそり暮らすさ。天下なんて道……」

「なるほど。それもまた良いかもしれませんね」

 そう言い切っても彼女の切れ長の瞳には、失望の色はなかった。

 むしろどこか楽しげに、そんな言葉を交わすことにさえ、娯楽を感じているような様子だった。


「ですが、貴方はきっと、道ならぬ道を選ぶ」

「なんで、そう言い切れる?」

「その、きゅっと握りしめた健気な手ゆえに」

 ふふっと、鼻にかかる艶笑と共に、黒衣の女は環の脇をすり抜けた。

 すれ違いざま、彼女の指摘した、袷を掴んだままの手に指を這わせながら。


 ――魔女め。


 環は苦々しさを隠さず表情に出し切り、心の底で毒づく。

 そうはなるものかという意地と、そうなるかもしれないという恐怖が、胸の内に生まれると同時にせめぎ合っていた。


「それに、叔父上の統治とは、果たして万民が望む形なのでしょうか? ……現にほら」


 舞鶴が袂を持ち上げ指で示した先で、白い砂埃が巻き上がっていた。

 海沿いに十騎前後、軽装の武士たちが駆けてくるのが分かった。

 追っ手かと身構える環だったが、土煙が薄れて晴れていき、その正体が分かるや構えを解き、憂いを払った。


 ――あれは!


 彼らの先駆けとなっているのは、幡豆はず由基ゆうき

 幼少の頃から長年連れ添う、竹馬の友。

 それ以降に続く連中も、酸いも甘きも共にしてきた、胞輩たちだ。


 ――あいつら、俺を心配してこんなところまで……っ


 感涙を目尻に浮かべながら、環自身も、その騎馬団に歩み寄った。

「ユキ!」

 声を張り上げる環は、つくづく思った。

 そうだ。これだったのだ。自分が本当に求めていた助けとは。


 ――こんな妖しげな女じゃない。気心の知れた親友こそ……俺は待っていたんだ!


 下馬した幡豆由基は、いつものように仏頂面だった。

 そして環の姿を認めるや、形の良い眉根を寄せて、




「お前バッカじゃねーの!?」




 ……開口一番、そう言い放った。

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