6-11

 そして、入学式のあった四月五日から、二週間が過ぎた。最終日、四月一九日。


 サンフラワーに預けてあったレッドヴァインは、一夜で駐車場に戻っていた。あたしは街に飛び出すと、逃げるように東京中を疾走した。


 結局、めぐみとゆきのには、今回の件は言いそびれてしまった。サンフラワーにも言っていない。あたしはひとりでクリスタルに会うことに決めていた。


 みんなのおかげで、あたしの腹は、だいたい固まっていた。けれど、胸を張ってその言葉をクリスタルに伝える自信がなくて、あたしは落ち着かなかった。


 クリスタルは決してこの答えを歓迎しないだろう。敵に回す……かもしれない。敵に回したくはない。クリスタルが都合良く今日のことを忘れていてくれればいいと思い、出会わないに越したことはないと思っていた。


 まだ定まりきっていない心の奥底を、覗き込まれる感覚があった。途切れることのない東京の雑踏の中の方が安心できそうな気がした。明治神宮近くでバイクを目立たない場所に放り出し、あたしは歩いた。人の波に溺れそうになりながら、原宿、青山、渋谷と流れ続けた。


 あたしは逃げているだけなのだろうか。


 そうかもしれない。そうなんだろうな。でも、「目の前の現実」から逃げているのか? いや。意味のある逃亡だと信じたい。


 「よう」


 一度に渡る人数が百人はくだらない、いや千人いるかもしれない、混雑の激しいスクランブル交差点の横断歩道で信号待ちをしているときに、あたしは真横から呼び止められた。───クリスタルだった。


 歩行者用の信号がちょうど青に変わったときだった。あたしはその場に立ちすくんだ。動き始めた流れを止めた状態になって、あたしの後ろにいた者が迷惑そうな顔をしながら避けて通っていく。


 「……なんだよ」


 「なんだよはご挨拶だな。約束の日が来たぜ。答えを聞かせてもらおうか」


 クリスタルの目は自信と確信に満ちていた。あたしはそれに抗って睨みつけた。だけど、射抜かれてしまいそうだった。


 「答えは?」


 「───あたしには未来が必要なのだと思う。あんたのいう、変革の未来が」クリスタルの口元が満足げに緩みかけたのを見て、あたしは急いで付け足した。「だけどそれ以上に、あたしには時間が必要だ」クリスタルの表情が険しくなった。目が、侮蔑の色を含んだ。


 「正直、二週間あれば決められると思ってた。それが甘かったのは認める。でも、やっぱり時間が必要だ。あたしには、未来を語る前の、もっと根元的なことがやっとわかってきた気がするんだ。この感覚を、もう少し育てたい。


 あたしにとって未来とは、それが育った後のものだと思うんだ。そうしたら、世界を救うような途方もない話でも、受け止められそうな気がする。そのときまで待ってほしい」


 歩行者信号が点滅を始め、人の流れる速度が急に上がる。「ケンカならよそでやれよ」あたしの後ろを通り過ぎていった誰かが聞こえよがしに言った。


 「待てんよ。おまえの言う根元的な何とやらは、ただ人の目を気にしているだけだろう。それに対して開き直ることを、大仰にこと上げしたって無意味だ」クリスタルは言った。「必要なのは他人でも時間でもない。そういう迷いを打ち払う勇気と、その勇気を振り絞るためのきっかけだ。そして俺の話してきたことはまさしくそのきっかけだ。違うか?」


 信号は再び赤になり、信号待ちの人々は群集と呼べる数に膨らんでいく。


 あたしとクリスタルは、その群衆の中でにらみ合った。


 「あたしが欲しいのは今ここですぐに決める勇気じゃない。世界を変えることを高らかに謳い上げる勇気じゃない。一歩引いて、他人の言葉に耳を傾ける勇気なのだと思う。それではいけないのか」


 「ならばひとつ聞こう。おまえの言う勇気の果てに、俺が提示した未来が本当に受け入れられると思うか? ひとさま頼みの、自らの力を振り絞らない、だらだらした当たり障りのない勇気で、真にドラスティックな変革に耐えられるのか? いいや耐えられはすまい。そんなものは勇気じゃない。


 ……残念だ。交渉決裂だな」


 クリスタルがその言葉を発し終えた瞬間、クリスタルはあたしの目の前から消えた。と同時に、辺りはロウシールドに包まれた。───ワープ? こんなところで?!


 馬鹿な! あたしとクリスタルがロウシールドに入ったということは、この雑踏の人々から見れば、あたしとクリスタルの姿が突然神隠しのように消えてしまったことになる。


 だが、横断歩道から見てあたしとクリスタルの真後ろにいた誰かは、メールを打つのに夢中だった。真横にいたのはカップルでおしゃべりに夢中だった。消えたことには気づいたようでなんだか不思議そうな顔をしたが、誰もその瞬間は見ていなかった。


 違和感が広がりかかったタイミングで、信号が青に変わった。横断歩道を渡ろうとする人の流れが、違和感をすべて洗い流す。


 まずい。この人の流れに、ロウシールド越しに接触してしまったら、棺に踏まれたとき、あるいはエレベーターからの人波に潰されたモーリオンのように、強制キャッシュで身動き取れなくなってしまう。


 「俺のワープは一瞬だからな。これくらいは朝飯前だ」耳元でささやき声がした。クリスタルは真後ろに現れていたのだ。後ろからあたしを羽交い締めにして、ふっと宙に浮かぶ。あたしは人の流れの真上に引きずり上げられた。「見るがいい。これが、おまえがアテにしようとしている、他人という存在の本質だ」


 横断歩道を行き来する人の流れ。互いに知らない人々が、無秩序に入り乱れて、それぞれの目的地へ、───ある者にははっきりとした、ある者にはあいまいな、ある者にはありもしない目的地へ、自ら歩んでいく。そこに、あたしたちがいた痕跡は残っていない。


 「人の意識とはこの程度に薄いものだ。おまえの決断、おまえの行動に誰も何も関心を持っていない。こんな奴らに崇拝されたって俺は満足できないんだ。


 自らの力で、自らの決断で、それがたとえ過ちであろうと雄々しく突き進む者の姿、そのポリシーや言葉だけが、この無気力で無関心な連中に変革をもたらす。そしてローズフォースにはその力が備わっている、俺は本気でそう思っていたんだ。だがおまえは結局、群衆の中のひとりになることを選んだわけだ」


 クリスタルは羽交い締めを解き、あたしをその群衆の中へ落とそうとした。「チクショ、このッ……Blooming up, Red Rose!」どうにか落下の前に変身を完了し、体勢を整える。


 あたしとクリスタルは、巨大なスクランブル交差点直上で対峙した。


 ……戦わなくちゃ、いけないのか。


 「クリスタル。あたしはまだあんたを敵に回したくない。あんたはいつか、あたしにとって必要な別の答えを用意してくれそうな気がするんだ。今がそのときじゃないだけだ。


 なのにあんたは、あたしがこうして迷うというだけで、あたしの敵になろうとする! なぜだ?! どうあってもあたしのこの迷いは時間の無駄だと切り捨てられるっていうのか?!」


 「その通りだ。迷ったときに、答えはすでに出ているはずだ。『望むことを望むままにする』それ以外の答えなどあるものか」


 あたしは首を横に振った。「自分が何を望んでいるのか、自分が何を望めばいいのか、根本の『自分』があやふやなんだ。それがあと少しで決められそうなんだ。


 あんたは輝く階段の先にいて、でもあたしにはその一段目を踏みしめることができないでいるんだよ」


 「ならば飛べ! おまえには翼がある! 飛ぼうと思えば飛べるんだ!」クリスタルは叫んだ。


 「いやだ!」あたしは怒鳴り返した。「あたしはその一段目を踏みしめたい。二段目も踏みしめたい。何が望みかと問われれば、それが望みだと言うしかない」


 クリスタルの瞳に映る感情が、侮蔑ではなくなった。明らかに、あたしを怪物のような奇異として見ていた。「───馬鹿な。ありえない」彼は小さくつぶやいた。


 クリスタルはほんの短い間考えて、小さく首を横に振った。それから、あたしの目を見据えて、こう言った。


 「───クラス7の体には永遠の時間があるとでも思っているか? そうかもしれない。だが、時間は止まってはくれない。永遠の時間があったところで、同じチャンスは二度とやってこない。


 おまえは哀しいループにはまっている。ぐずぐずして、チャンスをむざむざ逃がすことを何度も何度でも繰り返すループだ。……今すぐあの世に送ってやろう、そうすればおまえはそのループから解放される。哀れなおまえに対する、せめてもの慈悲だ! ……Brilliant Crystal Power!」

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