5-06

 体操服姿のゆきのが、一心不乱に走っている。


 素人目に見てもフォームががたがただ。それでも、腕を一生懸命に振って、タイムを出そうという走りをしていた。速く、速く、前へ、前へ、精一杯の力を振り絞って。


 併走していた誰かは、決勝線五メートルくらい手前でもう力を緩めてしまったが、ゆきのはその生徒をはるかに引き離し、決勝線を全力で走り抜け、十メートルくらい過ぎたところで、ようやく足を止めていた。


 しばらく膝に手を置いて、肩で息をしていたが、すぐに顔を上げて、あたしが校門で見ていることに気づく。すると、今度はフォームなんて気にせずに、ぱたぱたと音が出そうな走りで駈けてきた。


 「見てくれましたか?!」


 顔を紅潮させ、額から汗をきらきらと流して、鉄格子の向こうから、ゆきのは言った。それからまた膝に手をついて、肩で息を始めた。


 「私、生まれて初めてなんですよぉ。体育の授業受けるのも、全速力で走るのも……」


 言葉を伝えようとして、荒い息を繰り返しながらも顔を上げて格子越しにあたしを見据える。汗の滴が、真新しい体操服の綿生地が、そしてメガネのレンズとその奥の純粋な瞳が、太陽の光を反射している。


 「速く走るには、腕、振るんですよね。それだけ知ってたから、とにかく振って、めいっぱい振って、そしたらけっこういいタイムだったらしくて、先生が、フォームを直せば陸上部でも選手になれるかもって、……どうしましょう?」


 ……あたしは、言葉を失っていた。ゆきのがあたしを呼び出したのは、このためだったんだ。


 気持ちはわかった。痛いほどわかった。ともに喜んでほしいのだ。一六の今まで、全力で走ったことのなかった彼女は、自分が自分の脚で思いのままに走る姿を、そうすることで思いがひとつひとつかなっていく一瞬を、誰かに見てもらいたくてたまらなかったのだ。だから、あたしを呼んだ。


 あたしの表情はぴくりとも動かなかった。


 喜びが、感動が、共有を求めてあたしに入り込もうとする。あたしは感情のゲートを閉じてすべてを遮った。遮断されたゲートから、恐怖にも近い感情だけが忍び入ってくる。ありえない───こんなの、ありえない!


 あたしはこの瞬間に理解した。あたしと彼女の違い。波長が合わない理由。それは同時に、シトリンとゆきのの波長が合う理由。


 彼女は宝物なんかじゃない。虚像だ。フィクションなのだ。フィクションは美しく見えるに決まってる。


 「生まれつき病気」なんて、あたしからすりゃ最高にドラマチックな人生だ。うらやましいとさえ思う。


 彼女が生前どんなに苦痛を受け辛酸を舐めてきたか、あたしにはなんとなくわかる。その「なんとなく」というあいまいな理解が、憧憬や強烈な嫉妬を呼び起こしている。すべて等価な苦痛を味わったとすれば、あたしはきっと彼女の人生をドラマチックだなんて思わないだろう。何も知らなかったとすれば、何も知らないままに彼女とつきあうことができるだろう。


 でも、彼女は「なんとなく」な距離にいて、あたしには理解できない、あたしにとっては物語から抜け出してきたような行動を繰り返す。そうなんだ。ゆきのはフィクションだ。生身があって、毎日会話をしていても、フィクションと呼ぶべき存在がいるんだ。つまりあたしはずっとテディベアとお話ししていて、その答えに一喜一憂していたってことなんだ。あたしはそこから卒業しなきゃいけない。


 今すぐゆきのを拒否せよ、自分の中に作り上げられた彼女の虚像を打ち毀せ、脳の裏っかわがそう叫んだ。そうしなければあたしは、微笑みに満ちた優しいフィクションから逃れられなくなる!


 「ごめん」あたしは言った。「あたしは、全然、うれしくない」


 ゆきのは、はっと顔を上げた。


 「そんなの、押しつけられても、困るんだよ」


 ゆきのは、とても悲しそうな顔をした。「私は───」


 「あたしはもう、おまえの未来に関わりたくない」


 「……ごめんなさい」ゆきのは小さな声で言った。「でも、私、ただ知ってもらいたかっただけなんです」


 「わかってる。でも、それを知ってもあたしには役に立たない」


 「それは……」彼女は言葉を飲み込んだ。「なんで……なんでそんなこと、言うんですか……」


 お互いうつむいて、しばらく沈黙があった。やがてゆきのがぽつりと言った。


 「みずきさんは……そんなに、学校が楽しくなかったんですか」


 「楽しくなかった」


 「私が……私が学校に行くことが、そんなに気に入らないですか」


 「おまえとあたしは違う。全然違う。他人を巻き込むなと言ってるんだ」


 「私の喜びを───体が思うように動くこの喜びを、私は、ひとに伝えてはいけないのですか」


 「そうだ。それは、おまえの中にだけ、とどめておけばいい」


 ゆきのは口をつぐんだ。


 あたしも、ぐっと下唇を噛んだ。


 ゆきのは正しいのだ。間違いなく。優しくて、ポジティブで、すばらしい未来に満ちて、そんな彼女が正しいに決まっているんだ。


 けれど、彼女がいくら正しくても、それは空手形なのだ。あたしに何の保証も与えない。それをあたしが事実と見なす必要はない。あたしはあたしの道を行けばいい。自分自身で、決断をするんだ。それが正しい答えになるんだ。それを正しい答えにするんだ。


 ……さぁ。これで、ひとつの迷いが消えた。答えは自ずと定まった。クリスタルの提示した、変革の未来へと向かうんだ。


 それは、ゆきのよりもよほどフィクションじみた、途方もない未来。ロウシールドを失い、異星人が攻めてくる未来。けれど、ローズフォースであるあたしに直接つながっている。


 人類すべてが影響を受ける。だけどあたしは、それを背負うんだ。現実を背負い、その巨大な未来へ苦難の中を歩み出す。たとえそれが、もう一度死ぬかのような、自殺じみた暴挙であったとしても。いいや暴挙なんかじゃない。あたしは地球上で最強の存在、ローズフォースなのだから。


 行こう。あたしが未来を変えるために。あたしの未来を変えるために。


 ……ゆきのは、眼に涙をいっぱいにためていた。


 鉄格子のこちらと向こうは、遠く隔てられていた。


 「ゆきの、集合よ」


 ゆきのの後ろから同じ体操服姿が駈けてきて声をかけた。……広島もえぎ、シトリンだった。ゆきのの細い肩に手を置いて、集合地点へと導いていった。───シトリンは一瞬だけあたしを見返った。侮蔑と怒りのまなざしが投げかけられた。友に苦痛を与える者は許さない、その目はそう訴えていた。


 あたしも鉄格子から離れた。バイクに跨ると、その日一日中、クリスタルを探して街をさまよった。


 だけど、クリスタルに会うことはできなかった。気づくとクリスタルのいなさそうな場所を選んで走っているのだった。携帯電話を何度も手に取った。けれど、彼の電話番号を押すことはどうしてもできなかった。


 ……あたし、まだ、何かが足りない。たった今した決断が恐ろしい。思慮もなく軽々と受け止めようとしている自分と、重すぎることに耐えられない自分がいて、起こすべき行動を挟みつけて止めている。


 ゆきのを排除して、あたしに出来たのは結局、「独りで決めることを決めた」だけだった。自分の精神があまりに弱く、虚ろであることに、あたしはあらためて気づいた。


 この決断は、そんな自分を変えるためでもあるんだ。あたしは歯を食いしばって耐え、つぶれそうになる自分を必死に支えようとしていた。




 代償は大きかった。


 あたしとゆきのはそれっきり、お互いに挨拶以上の言葉をかわさなくなった───否、かわせなくなった。どんな言葉も、ふたりの間に穿たれた溝の底に落ちていくような気がした。ゆきのからの言葉をあたしは無視し、ゆきのもやがて自分からコミュニケーションを取ることをやめてしまった。冷蔵庫のメモボードからも言葉が消え、やがてお互い、ただ口をつぐむばかりになった。


 正直、顔を合わせたくなかった。顔を合わせると、やっと振り切ったものにまた捕まってしまう気がした。


 とはいえ、帰る場所はあのペントハウスしかない。クリスタルのもとへ行くにしても、めぐみやさおりまで無視して話を進められない。


 だけど、あたしは何も話す気がしなかった。思考を言葉に変えることさえ憶劫だった。しばらく頭を冷やそう、と思った。


 ───最初の日の夕食は、それはもう静かなものだった。リビングの空気は鉛のように重く肩にのしかかり、ゆきのがよそう白飯の盛りさえ醜く見えた。料理がそれぞれ熱を持って湯気を立てていることさえも、不快感を喚起して味を損なった。あんなまずい飯は初めてだった。


 「どったの、あんたら?」


 さおりが言った。こんなに空気が重けりゃ、どんな鈍感でもわかる。


 しぃっとめぐみが唇に指を当て───それからそっと耳打ちする。聞こえないけれど、ケンカしてるみたいなの、とでも言ったのだろう。しばらく、めぐみとさおりはひそひそ話で言葉をかわし続けた。といっても、ふたりとも今朝校門で何が起きたか知らないのだから、何か結論が出るわけではない。


 「ふぅん」やがて、さおりはあたしたちにこう宣言した。「ま、いーけどね。あたしカンケーないから好きにやって。終わったら忘れたげるから」


 その日の食卓での会話は、それで完全に終わった。後はみな黙々と食べ続けた。食べ終えて食器を流しに放り込むと、あたしはすぐに自室へ引っ込もうとした───すると、めぐみが追いかけてきて、閉めようとした引き戸を手で押さえた。「ねぇ、……テレビ、……いっしょに見ないの?」


 「今日はいいよ」あたしは首を横に振った。「気分じゃないんだ」


 めぐみは、心配しているというよりも不安気な面持ちだった。「あのさ、ね、仲直りしようよ」


 あたしはもう一度首を横に振った。


 「いいんだ、気にしないでくれ」


 気にするなという方がムリだろう、めぐみは何か言葉を継ぎ足そうとしたが、ちゃぶ台でお茶をすすっていたさおりが、珍しく声を荒げてそれを止めた。


 「いいってんだから、ほっとき!」

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