Procedure 5 ブレイズ

5-01

 あたしはようやく解放された。


 いろんなことを聞いた。脳みその中はまだごちゃごちゃしたままだった。ヴァインを使ったせいもあるのだろうが、疲れと負の感情が一緒くたになって、頭全体が不快に重い。冷たい手に押さえつけられてるみたいだ。


 マンションに戻ってくると、もう外は真っ暗だった。


 ゆきのは帰っているだろうか。この格好のあたしを見て何と言うだろうか。なんだか戻りづらくて、バイクを地下駐車場に入れた後、車体を背もたれにしてしばらくぼぉっとしていた。


 イブニングドレスの裾が油で黒く汚れている。アクセサリーは叩き返してきたが、さすがに裸で帰るわけにも行かず、結局ドレスはもらい受け、その格好でバイクを飛ばしてきた。……いくらだったんだろう、これ。


 駐車場は誰の出入りもなくただ静かだった。駐車されている台数も少なく、ただ閑散としていた。蜘蛛の巣のかかった薄汚れた蛍光灯は、切れかけていてぺかぺかと明滅している。


 ……ここいらで説明しておくと、このマンションはあまり人が住んでいない。


 ワンルーム主体で独身者が多く入れ替わりも速く、ほとんどの住人は隣の住人の顔を知らないようなところだ。ヒトにあらざるあたしたちがひっそり住むには都合よい。


 ペントハウスなんてものがある豪勢な造りはつまりバブルの遺産だ。本来ならオーナーが住むはずだったらしいが、そのオーナーもどこにいるやらいないやら、という状態で、ペントハウスは賃貸物件と化した。


 エントランスの壁材は煉瓦や大理石に見え、重厚感を漂わせているが、叩くとポコポコ軽い音がする。通路の天井や駐車場の柱にはあちこちひびがあり、地震が来たら崩れそうだ。部屋の内装もちゃちで何かにつけ使いづらい。そのくせ、立地や間取りから弾かれる相場からは相当高い家賃で据え置かれているらしい。巨大なお世話だとは承知するが、モトが取れているのか気になってしまう。


 つい最近までは、五階から上を景気のよかったどこかの会社が社宅代わりに借り上げていたらしい。だがその会社も左前となって契約は打ち切られ、しかしその後に入居者はろくすっぽ入らず、閑散としている。


 だから駐車場も然りだ。地下駐車場といえば豪勢に聞こえるが、駅が近いからそもそも車が不要なところへ、地下から表へ出る坂が信じがたく急、しかも面する道路は狭くて一方通行、よっぽど運転がうまくないと軽自動車でも入るのに難儀する造りで、宝の持ち腐れもいいところだ。バブル期の設計思想ってのは、これくらい腐っていて当たり前だったんだろうか。


 ……疲れているところに蛍光灯の点滅は、かえっていらいらした。いつまでも駐車場にいてもしょうがない、あたしはエレベーターに乗って、九階の自分の部屋に戻った。


 一階から知らない兄ちゃんが乗ってきて、汚れたドレスのあたしを不審そうにじろりと見て三階で下りた。二階分くらい階段で上がればいいのにさ。


 ひとりでいても狭苦しく感じる六人乗りのエレベーター。事実上の屋上である九階に上がってくる住人というのはゼロだ。浄水槽や空調設備の点検にやってくる人間がうろちょろすることはあるらしいが、その程度だ。管理会社があって、管理人が常駐しているというのが建前らしいが見たことがない。管理組合も機能してるのかどうだかあたしは知らない。見た目にわかる管理というべき管理は、一階に住む無口な爺さんがエントランスの掃除をしているくらいだ。


 あたしたちの部屋の名義上の所有者は、さっきクリスタルにも指摘されたとおり、ブルーローズなのだそうだ。聞いたときにはびっくりしたが、クリスタルが会社を乗っ取るくらいだから、ブルーローズもそれくらいの準備はしたのだろう。クリスタルに対抗するために用意された、ローズムーンベースと並ぶ一大拠点たる地球上の基地───それが、我らがペントハウスの本質だ。


 ふっと気になった───まさか「ブルーローズ」が名義なのではあるまいな? 彼女やサンフラワーは、地球人それも日本人としての戸籍を持っているはずだけれど、それならなんていう名前なんだろう。後でサンフラワーに訊いたら、ヒミツ、のひとことでごまかされた。




 ドアスコープを覗くと灯りがついていない。鍵を開けて(鍵は四人全員が持っている)中に入り、自分の部屋に滑り込むと、追いかけるようにゆきのの「ただいま戻りました」の声がした。間一髪、セーフ……あたしは後ろめたさを感じながら引き戸を閉めた。


 いや、何でここで「セーフ」なんて思うんだ? むしろ見つかった方がいい。あのクリスタルの誘いについては、いずれみなに説明しなくてはいけないことなのだから。あのドレスをなぜ着ているのかなぜ持っているのか、誰かに気づかれて問いかけられる方が、今回のことを説明するいいきっかけになるはずだ。


 でもあたしは、ドレスをハンガーにかけてクローゼットに吊るすと、厚みのある生地の服の間に挟んで、気づかれにくいようにしまい込んだ。


 「みずきさーん、手伝っていただけますかー?」


 戸の向こうから聞こえてくる声が明るい。Tシャツとショートパンツだけ身につけて部屋を出ると、ゆきのは制服のままエプロンをつけていた。


 「……着替えてからにしろよ」


 「なんだかまだ脱ぎたくないんです。下ごしらえしてからにします」


 普段なら手伝いはめぐみが率先してやるのに、今日はまだ帰ってきていなかった。


 「めぐみは?」


 「あぁ、めぐみちゃんなら外でちょうど会ったので───おつかいを頼みました。お豆腐買うの、忘れちゃったものですから」


 ゆきのは終始機嫌がよかった。上機嫌を通り越して、無頓着だった。あたしの声に曇りがあるだろうことは察してくれそうにない。ゆきのってのは誰より気が利いて、声の調子で人の状態を推察できる人のはずなのに。───なんて手前勝手な思い込み。そんなの、ちゃんと言わなきゃ伝わらないに決まってる。でも、人の印象はそう簡単に変わるものじゃない。


 「みずきさん、置いてあるお買い物を冷蔵庫の中にしまっていただけますか。今夜使う分はもうこちらに出しておきましたから」


 しかたない。あたしは、配膳カウンターの上に置かれたポリ袋を手に取ると、キッチン隅の冷蔵庫の前にどっかと座り込んだ。


 ゆきのはそれはそれは楽しそうだった。包丁がまな板を叩く小気味よい音に、鼻歌が混ざっている。


 卵をドアポケットに並べ、ハムをチルド室に放り込む。野菜を次々野菜室に……って、芋とタマネギは入れちゃいけないんだったっけ?


 あたしがジャガイモを差し出してどこにしまうのか尋ねようとすると、ちょうどゆきのが鼻歌をやめてあたしを見下ろしていた。


 「おいもはそちらのキャビネットにお願いします」それから、朗らかな声で彼女は言った。「───私、びっくりしました」


 まなじりを下げて微笑むその視線を直視できなかった。「……何が?」すぐにガステーブル下の戸を開けたのは、ゆきのから目を背けるためだった。代わりにジャガイモの芽をにらんだ。


 「私、初めて会ったとき、みずきさんってなんて乱暴な口の利き方をするんだろうって、ちょっぴり怖かったんですよ」ゆきのは楽しそうに言う。


 「───それで?」


 「高校って、それが標準語なんですね!」楽しそうに!


 「やかましいわ!」萎えるやらあきれるやら腹立たしいやら、どうでもいい気分になってあたしはジャガイモを投げ込んだ。その気の抜けた反駁がゆきのの耳には心地よく聞こえるらしいのだ。「そう、打ち解けてくるとみんなそんなふうになっちゃうんですよ。私の口調って主任さん譲りだからずーっとこの調子でしょう、浮いちゃって浮いちゃって。もえぎさんもちょっと浮いたしゃべり方するから、だからぱしーんって波長が合ったのかもしれません」


 そうか。ゆきのはそういうふうに受け取ったんだな。


 「もえぎさんてね、育ちが外国で、それもずっと箱入り娘だったんですって、だから世間知らずなところ私と同じなんですよ。見るもの聞くことみんな初めてだって、楽しくてしょうがないって言ってました」


 そりゃあ、宇宙から来て三週間の精神体だからな。


 「不思議ですね」ゆきのは言った。「波長の合う人が一緒だと、なんだか一歩踏み出すことが怖いような初めてのことでも、怖くないんです。抵抗なくふっと入っていける感じがするんですよ」


 ウリとかクスリもそうやってふっと入っていってしまうんだろうな。彼女の言葉にはいくつもツッコミどころがあったが、あたしは何も言わなかった。……言えそうになかった。


 一緒に、抵抗なく、足を踏み出す───何だよ、それ? つまるところ、あたしとゆきのの波長は合っていないのだ。

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