4-10

 「前とは違うんだよ! ナメてんじゃねぇぞ!」


 あたしは狭い路地を突進して殴りかかった。この狭い空間なら、直進の動きをかわすことは容易でない。ちょっと動くだけでロウシールドに守られたビルの外壁に激突してしまうからだ。だがシトリンは、一歩ぽぅんと後方へ跳ぶと、いくつか積まれたビールケースの上に飛び乗り、このときを待っていたとばかりに叫んだ。


 「Brilliant Citrine Power!」


 シトリンの体の周囲を光の繭が包んだ。防性粒子の繭に阻まれてあたしは突進を止め、薄暗い場所で放たれたまぶしい光に顔を覆った。細目を開けると、制服姿が、オレンジ色の髪の―――フライングローズでの姿に変わっていくのが見えた。


 変身直後、繭が消えた瞬間に殴りかかってみたが、読まれていた。シトリンは空中へとぉんと高く跳ね、あたしの一撃をすかした。あたしもジャンプして後を追う。あちこち出っ張っている空調の室外機を足場にして続けざまに跳ね、広々とした空中へ飛び出した。


 駅近くの大通り沿いには、同じような高さのビルが幾棟も並び建っていて、まるで歯が生えそろっているようだった。抜けや欠けもあって、お世辞にも歯並びがよいとはいえない。人口や通行量の増加だけをファクターに無秩序に成長してきた街なのだ。ずらりと並ぶクリーム色の貯水槽を眼下に見る頃、スラスタが勢いよく蒼炎を吐き出し、あたしたちを宙にとどめる。


 空中戦……か。それも、雨の中で。


 稲妻が閃いている。雨の降る勢いが増している。あたしたちの身体を雨粒が叩き・・・・・・・・・・・・・・滴となってしたたり落ちた・・・・・・・・・・・・。この時期には珍しいが、夕立だ、すぐやむだろう───そういえば、雨天時の戦闘は気をつけるようにサンフラワーがレクチャーで言っていた記憶がある。……なんだっけ。くそ、あたしってばなんてデキの悪い生徒なんだろ!


 ともかく、シトリンが相手なら、クライミングしなければ。今朝戦ったコピーでさえ互角だったんだ、本家本元に、このまま挑むのは無謀すぎる。あたしは叫んだ───「Climbing, Red Vine!」


 ……何も起きなかった。なぜだ?


 「なんのマネ?」シトリンが突っ込んできた。間合いに入った瞬間、ダッシュの勢いを乗せた拳が繰り出される。あたしは慌てて前で腕をクロスさせ、シトリンが繰り出すパンチを防いだ。少し後方へ弾き飛ばされたが、スラスタが反動を受け止めてくれた。


 弾き飛ばされた場所は駐輪場の上空に近かった───ちらと下を見やる。係員がうろうろしている! ロウシールドの制限を受けて、スプラウト化できていないんだ!


 上空からではゴマ粒みたいにしか見えなくて、何をしているのかはわからないが、目立たない奥まったところに止めたのに、急の雨で何かばたばたしているらしかった。すると、あいつがどくまでクライミングできない! 今のあたしに顔色があったなら、滝のように血の気の引く音がしただろう。


 「全然たいしたことないのよ、あんたたちなんて!」青ざめたあたしとは対照的に、シトリンは毒を含む言葉をすらすら並べて、余裕の表情だ。殴り合いとだべりは結局彼女の中で等価で、相変わらずクレープの品評を聞いてるみたいだった。「クリスタル様は手を出しちゃダメって言うけど、別にモノひとつ壊したってどーってことないでしょ、ねぇ?」


 シトリンは再び直線的に突っ込んできた。パンチをどうにか受け止めると、あたしはまた後方に弾かれる。スラスタの逆噴射を利用して距離を詰め、逆にこちらから殴り返してみたが、同じようにシトリンに受け止められた。少しずつ軸をずらしながら、殴りかかっては雨の滴を撒き散らして弾かれることを、互いに何度か繰り返す。


 数回渡り合っただけで、力の差が歴然としていることに愕然とさせられた。戦闘行為というものを把握するのに手一杯だったフライングローズの一戦とは全然違って、動きのひとつひとつがきちんと見えたから、なおさら理解できた。


 シトリンの一挙手一投足、スラスタの蒼炎のゆらめきまで、それは戦闘用にチューニングされたものだった。特にスピード、あるいは反射神経というべき能力に絶対的な差があった。


 あたしの攻撃を、シトリンは難なく、まるで香港映画のカンフーみたいに軽々受け止める。ひとつひとつの反応が機敏で、致命傷を避けるのが精一杯のあたしをはるかに上回っていた。いや、もしかしたら、クライミング状態でさえ上回っているかもしれない……。シトリンのすべてを知ったわけじゃないのに、それでも上だと感じるなら、本当はもっと差があるに違いなかった。


 「あんたがわたしに勝つなんて、」殴ると同時に叩きつけられる言葉が、心理的な格差もどんどん広げていく。「永遠に不可能なんだってば!」勝てない……このままじゃ、やられる!


 とにかくクライミングしなきゃダメだ、と思いつつ、ヴァインの状況を確認している余裕はなかった。一度失敗したクライミングが、この土壇場でもう一度失敗したら、もう後がないと思った。たとえ成功しても、それでもシトリンには勝てないんじゃないかって、体中に怖気が走るくらい、マイナスの思考ばかりが頭の中を駆けめぐった。


 シトリンはさらに実力差を見せつけてくる。なんとか反撃しようとしてあたしが殴りかかると、シトリンはあたしの移動軸からわずかに身をずらしながら後退してかわした。つまり軽くいなされたのだ。同時にシトリンは、手と手の間に、ビーチボールを抱えるように、攻性粒子を凝縮したオレンジ色に光る球を作り出した。


 そんな器用なことができるのか、と思うまもなく、───「シトリン・スター!」彼女の目前を空振りして通過する格好になったあたしの鼻面に、光球が叩きつけられた。視界すべてを、花火のような弾ける光が埋め尽くす。


 「くはっ……!」


 あたしは強烈なダメージを受けて弾き飛ばされた。どうにか体勢だけは立て直して身構えたが、脳内を駆けめぐる痛みはなかなか収まらなかった。


 シトリンは鼻で笑った。「相変わらず痛がるのね。バカみたい───わたしの能力はまだまだこんなものじゃないのよ。ねぇ、いいかげんあきらめたら?」


 まったく同感だった、ここはもう、逃げるしかないんじゃないかって、そうとしか思えなかった。……なのに、その瞬間に、ゆきのの顔が、あたしの脳裏に閃いた。くそ、戦闘の間は忘れていたかったのに、なんだってこんなときにさ! 退くに退けねぇじゃんか!


 あたしは歯を食いしばってシトリンを睨みつけた。その視線はさっきよりもよほどきついモノだったろう。シトリンは、少し意外そうな顔をした。


 「もう負けるのに、どうしてそんな顔するかな? わかんない、全然」シトリンは猛然とあたしに向かって突進してきた。「もう終わりにしたげる!」


 防ごうと身構えるあたし───ところがシトリンは、あたしの目の前で突然ワープし、姿を消した。気配が後方に現れるのを感じ、背後を取られまいと振り向くと、シトリンはすでに接近して殴る姿勢に入っていた。防ごうとして腕をクロスさせたが、シトリンはそれを察知してモーションを止め、スラスタの方向を微妙に変えて、クロスさせた拳と拳の隙間に手を入れ、両手であたしの頭をつかみながら、膝蹴りを顔面に入れてきた。


 まともに食らってのけぞる。だがシトリンの手は頭から離れず、その動きに合わせるようにあたしの上をとる。そして、体前屈の姿勢であたしの顔面を両足で踏みつけにした───その両手両足の位置に新たなシトリンスターが浮かび上がる。


 敵ながら鮮やかな、避けようもない連携攻撃───体をバネにした両足での蹴りと、スターの攻性粒子に反応する衝撃を同時に食らい、爆発的な威力であたしは垂直に叩き落とされた。


 「が……っ!」


 叩き落とされた場所は、九階建てと九階建ての間に建つ三階建て───歯並びに例えるなら欠けた歯のビルの屋上だった。


 いや、もっと正確にいえば、箱の底だった。両隣の九階建てはオフィスビルで、ともにフラットな外観のカーテンウォール構造。ガラスの壁にはひさしどころか出っ張りもなかった。大通りに面する側には消費者金融の巨大な立て看板が、その反対側にはオフィスビル用の立体駐車場があり、そうして四方すべてが塞がれていた。アンテナさえ立っていない屋上には、逃げる場所も隠れる場所もなかった。


 シトリンは、両隣のビルからの蛍光灯の灯りをほんのりと受けながら、唯一の開口部である真上に陣取っていた。ここから何の攻撃も受けずに逃れることはできそうにない。


 防性粒子の残りはぎりぎりだった。あのシトリン・スターをもう一発食らったら、終わりだ。


 あたしは大の字に横たわったまま、つんとすましているシトリンの姿を見上げるしかなかった。


 万事、休すか。


 「あんた、全然ダメ。生意気なくせに、てんで相手にならない。つまんないわ」


 シトリンが、ほんとにつまらなそうに言う。


 「……、る、せぇ」うるせぇと言いたくても言葉にならない。


 脳みその表層では無力感に苛まれていた。それでも、退けない、反抗だけはしていたい、と深層ががなり立てていた。負けたくないとか、あきらめないとかとは少し違って、無意識下の、忘れていたいという願いの奥底で、ゆきのにまつわるネガティブな憤りを力に変え、蓄える作業が未だに続いていた。しかしその力を、極限まで不利な現況で、どう吐き出していいのかがわからなかった。無力という名の力が湧き上がっているのだった。


 暗い空から、大粒の雨が降り続いている。大の字になったあたしの頬を雨粒が叩く。シトリンの姿さえかすんで見えるほどの、雨。……雨。あ……思い出した。雨についてのサンフラワーのレクチャーが何だったか。でも今さら……。


 曇る視界の中で、シトリンは勝利を確信していた。というよりは、笑うでもなく勝ち誇るでもなく、表情らしい表情を消して戦闘なんかなかったような顔をしていた。ゼッタイおいしいと噂のクレープがべっつにフツーで包み紙を投げ捨てる直前のような、退屈なぬるい目になって、あたしを見下ろしていた。


 「とどめよ」シトリンが言った。


 そして、肩の六角飾りからショットを引き抜いた。


 ───あたしは目を見開いた。ショットだって? それは、……サンフラワーの言っていた、「ヘンなクセ」か?

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