同姓同名

千里温男

第1話

キヌ子からフェイスブックのメッセージが来た。

「検索であなたのお名前を見つけました。お写真がありませんし、ご住所も以前とは違っていますので同姓同名の別人かも知れないとは思いましたが、珍しいお名前なので、もしかしたらと思い……」という内容だった。

「その人は、無断で、私のカバンの中から私の写真を持って行こうとしました」とも書いてあった。

確かに私のことだ。

私の姓は珍しい方だから、もしかしたらと思うのも無理はない。

そして、写真のことを知っているのだから、あのキヌ子に間違いない。

『キヌ子』というあだ名は、当時の国語のT先生がつけたという噂だった。

T先生がキヌ子に特別な関心を持っていることは、授業中に彼女を指名する時の照れたようなにやけたような顔を見れば、誰の目にも明らかだった。

放課後、下校途中のキヌ子を車で追いかけて行って、

「送ってやろう」と誘ったがキヌ子が断ったとか、それを恨んで『キヌ子』というあだ名を付けたのだとか、いろいろな噂があった。

太宰治の「グッド・バイ」に、美人だがたいへん悪声の『永井キヌ子』という女性が登場する。

T先生は、その『永井キヌ子』から、『キヌ子』というあだ名を付けたらしい。

キヌ子も、美少女だったけれど、男のような野太い声だった。

それを気にしていたのか、彼女は無口だった。

美少女にもかかわらず、彼女の人気が今一だったのは、たぶん、その声のせいだったろう。

そうかといって、キヌ子の崇拝者がいなかったわけではない。

私もその一人だった。

高校二年の二学期のことだった。

写真部のクラブ活動を終えて教室に戻ると、日が暮れかかっていて、もう誰もいなかった。

ふと見ると、キヌ子の緑色のカバンがまだある。

魔がさしたというか、衝動にかられたというか、このチャンスに、何か記念になる物をもらってしまおうと思いついた。

廊下を見渡しても誰もいない。

もちろん教室の中は私しかいない。

もう一度あたりをよく見回してから、彼女のカバンを開けて、中を探った。

生徒手帳があって、それに貼ってあるのと同じ写真が一枚はさんであった。

これはいいものがあったと、それを取り出して、カバンを元に戻した。

そして振り向いたら、キヌ子がいた。

一瞬なのか永遠なのか、私はただ立ちすくんでいた。

夕暮れの教室の中で私たちはただ見詰め合っていた。

ほんとうは、私が睨まれていただけかも知れない。

キヌ子の真っ直ぐな視線に、私は身動きできなかった。

手の届きそうな近さがキヌ子の体を大きくみせて、一層私を圧迫していた。

やがて、キヌ子がふいと視線をはずした。

それで、やっと私は動くことができるようになった。

おずおずと握り締めていた写真を差し出すと、彼女は、それには目もくれず、黙ってカバンを持って出て行ってしまった。

取り返しのつかないことをしてしまったという後悔に襲われた。

薄暗い教室の中で、深い淵に沈んで行くような不安を感じていた。

キヌ子は私のことを誰にも喋らなかったらしい。

私は先生に呼び出されもしなかったし、変な噂が立つこともなかった。

それでも私はキヌ子に写真を返そうと焦っていた。

自分の悪事の証拠をいつまでも持っていてはまずいと思っていた。

そうかと行って、キヌ子に素直に謝って写真を返す勇気は無かった。

ただ、こっそり彼女のカバンに入れることだけはしてはならないと思っていた。

それでは、あまりにも情け無い、男らしくないと思った。

そんな悩みも罪悪感も日が経つにつれて薄れて、私は再びキヌ子に熱を上げていた。

三年生になって、修学旅行の時、みんなから離れて一人で瀬戸内海を眺めているキヌ子にきづいた。

私が一眼レフカメラを向けると、彼女は黙って写真を撮らせてくれた。

当時の一眼レフカメラはシャッター音が大きかった。

シャッター音がすると、彼女は身を翻すようにして立ち去って行った。

一枚だけだったけれど、彼女が写真を撮らせてくれたことに感激して、私は就学旅行の間中ぼーとしていた。

修学旅行から帰ると、疲れも忘れて夢中で自分で現像と焼付けをした。

我ながら、よく撮れていると思った。

写真のキヌ子はじっとこちらを見つめている。

いったい何を見ているのだろうと、不思議に思ったことを覚えている。

私たちが視線を交わしたのは二回だけだった。

あれから30年あまり経った。

あの時のキヌ子の写真は、修学旅行のアルバムに貼ってあったけれど、今は思い出の中だけにある。

なぜ彼女は今頃メッセージを送って来たのだろう。

あの写真のキヌ子は何を見ていたのだろう。

フェイスブックのキヌ子のプロフィールを覗いてみる。

写真は無い。

銀行の秘書室に就職したはずだが、ただ会社員とだけ書いてある。

住所は昔と変わっているが、なぜか姓は変わっていない。

懐かしさに、つい熱い返事を書きたくなったが、ふと吾に返って、鏡の前に立ってみた。

覇気の無い顔、金属年数だけでどうにか係長になれた身分…

預金通帳の残高も頭に浮かんだ。

せめて一桁大きかったら、「そうです、その同級生です」と名乗れたかも知れない。

思い出は、思い出だからこそ価値があるのだ、壊してはいけない、そう自分に言いきかせた。

プロフィールに写真を載せていなかったのも、詳しい自己紹介を書いていなかったのも、住所が昔と変わっているのも幸いだった。

あれこれ下書きしたけれど、結局、

「せっかくメッセージをいただきましたが、心当たりがありません。残念ですが、ただの同姓同名のようです」とだけ書いた。

そして、遂に送信ボタンをクリックした。

(おわり)

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同姓同名 千里温男 @itsme

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