序幕 2



 2



「絶対にダメです!」

 暗い森に響く少女の声を、シザリオは剣にこびり付いた血を拭いながら聞いた。

良く通る美しい声だ。寒空の下、葉を落としきった寂しい森には似つかわしくない。

「しかし…」

「ダメと言ったらダメです。このマグノリアの次期王女として、あなたの案をみとめるわけにはいきません」

 クロードの困ったような口調を遮って、もう何度繰り返されたのかわからないセリフを、何度繰り返しても変わらない懸命さで言う可憐な少女こそ、クロードに与えられた任務の、いわば本体だった。

「ですが」

「ですがもなにもありません。ダメなものはダメです。マグノリア王国の唯一の正統王家の後裔として、オーフェリアには自分の身の安全を完全に確保する責任があります!」

 まったくもってうすら寒い、気味の悪い子供だとシザリオは思った。可憐な容姿も綺麗な声も、その幼い子供に似つかわしくない造形物めいた強迫的な美しさのすべてが薄気味悪い。オーフェリア自身を嫌いとかいうのではなかった。それよりも、薄気味悪さが先に立つのだ。

シザリオは、清流のそばに熾したたき火の明かりを頼りにクロードの剣を洗っていて、クロードとオーフリアの囲んでいるもう大きなたき火には背を向けている。だから二人の表情は窺うことはできなかったが、オーフェリアが人形か何かのような固い表情をしているのが目に浮かぶ気はした。

オーフェリアが目を覚ましてから一刻(十五分)ほど経っている。村を襲った盗賊をクロードが倒し、そして村を出てから数えると、もう五刻にはなるだろうか。

その間中、オーフェリアは魔法に懸けられていた。懸けたのはシザリオだった。強制睡眠の魔法を懸けて眠らせたのだ。何かが起きたことに気が付いたクロードが「眠らせろ」と耳打ちしてきたのだ。

強制睡眠の魔法は便利だが、誰にでも使える代物というわけではない。シザリオはこの手の魔法が得意な部類に入るが、クロードは壊滅的に苦手だった。強制睡眠の魔法は麻佛散(麻酔の一種)の類とほとんど同じ原理なので、加減を間違えると対象者を死なせてしまうこともあるのだ。だから、クロードはいつも自分にやらせる。

クロードは、オーフェリアの身の安全を図る為に眠らせたのではなく、その後に揉めるのを避けようとしたのかもしれない。シザリオは今そう考えていた。耳打ちされた瞬間は、意味など考えなかった。

村を出てからは、闇の中を水の――正確には水のエルの――気配を頼りに進んだ。 これもシザリオが得意で、クロードが苦手なことだった。そういうことをすべて任されることが、シザリオは単純にうれしかった。信頼の証と思えるし、役に立てることも嬉しい。

闇の中を進んだのは、三刻程だろうか。

街道をしばらく進んだところで見つけた小径の奥から、水のエルの気配がした。

奥に進んでいくと少し開けたようになり、小さな川があった。

シザリオは、そこを野営地点に決めた。うっそうとした森というわけでもない、只の森である。小径ができているということは、しばしば人の出入りがあるということだった。それはつまり敵の攻撃の危険が低くないということだったが、シザリオは構わずそこに決めた。

敵の攻撃のリスクよりも、クロードの怪我が気にかかった。傷が膿んだりしたらもう自分の手には負えない。出血も怖いし、返り血も早く洗ってやりたかった。

適当に薪を集めて火を起こしてから、クロードを馬車から降ろして傷をみた。

深さも大きさも様々な傷が無数にあった。それは肩から手先にむかって徐々に酷くなっていき、そのすべてから血が派手に出ていたが、奇跡的に重要な筋や血管は傷付けなかったらしい。運が良かったとしか言いようがなかった。

それからシザリオは、クロードを洗うために服を全部脱がした。

服は文字通り血の池に沈めたようになっていたから脱がせるしかなかったし、倒れた時に服の内側まで血で濡れていたから、脱がすよりほかにやり様がなかった。

シザリオ自身も、上半分は脱いだ。

クロードを血の海から引き起こした時、服に血が付いたから仕方がなかった。

肌寒さは、不思議と感じ無かった。

裸を見ることに、抵抗はない。

クロードとは十年以上一緒に暮らしている。家族以上だった。一緒に風呂に入ったりすることも、少し前までは当たり前だったのだ。

そこを、見られた。

オーフェリアに、である。六刻(九十分)は確実に寝るはずの魔法を受けて、僅か三刻で目を覚ましたのは王家の魔力というやつのおかげだろう。

何をどう勘違いをしたのか、オーフェリアははじかれたように目線を逸らした。

反射的に逸らしたオーフェリアの目が捕えたのが、シザリオが今しがた脱がせた血染めの服だった。オーフェリアの顔もクロードの服も、たき火の赤い光の中でもはっきりわかるほどに赤いのだ。

それからお姫様は、クロードを尋問し始めた。無論、いい年をした二人が裸で組み合っていたことではなく、クロードとシザリオの服が血まみれになっていたことについてである。クロードは、オーフェリアを眠らせたところから、敵がオーフェリア姫を狙った刺客である可能性も含めたすべてを洗いざらい話した。

シザリオはクロードのをすることに今一つ共感できなかったが、多分彼にとっては必要なことなのだろう、ということも分かっていた。

 クロードの剣を二振りとも洗い終わった。

それで、シザリオは、現在に追いつきつつあった意味の無い回想から抜け出した。

美しい剣だ。いつ見ても、そう思う。

マグノリアを始めとする『大陸』の西北部で好まれる、十字を意識した形状の剣ではない。寧ろ東の方で好まれる作りだが、装飾はおろか刃も峰もない。

これは、魔法の剣だった。

魔法剣として戦う為以外の一切の機能を廃し、洗練され尽くしたそのフォルムは、華美ではなく、さりとて質素とも表現できない、独特の美しさを剣に与えていた。

 切断力に優れた風のエルを普通の剣の刃にあたるところに集めて、斬る。

昔クロードがしてくれた説明を、シザリオはなんとなく思い出した。刃がないから、使いたい時以外は安全なのだとも言われた。

確かに安全だ。現に、洗いながら何度も素手で刀身を素手で握ったが、痛くもかゆくもなかった。

剣を二振りとも鞘に納め、クロードのところへ戻るかどうか束の間考えた。

論戦は、まだ続いている。シザリオは、もう少し剣を洗っていることにした。

二人が揉めているのは、任務を今後どうしていくのか、ということだった。

要するに、敵の攻撃が考えられる中、任務を無理やりにでも続行するのか、それとも放棄して安全策をとるのか。そういう議論だった。

「ですから、いつまた敵が来るともしれないのでしょう?」

「それは………」

「私の聞いた限りでは、エルシノア行きは急務ではなかった筈です。なら、戻るべきだと思うのですけれど?」

「しかし、義父上からの直々の命令ですし……」

 命令は、クロードの実父であり、現役のマグノリア王であるクロディアスから、非公式の謁見に使われる部屋で、御付きのものは側近数名のみという異常な状況下で、任務を告げる事務官を介さず直々に受けた。

いくら活動的な気性で知られるクロディアス王と言えども、クロードの立場を考えればその命令の出し方の時点ですでに十分に異常と言えることだったが、クロードが声を上げて驚いたのは命じられた任務の内容だった。

任務は、皇太女であるオーフェリアを、旧都エルシノアまで送り届けるという、なんの変哲もないものだった。

ただ二点、ナヴァテアからエルシノアまでの行程と期間が一切指定されていない点と、同行者ががクロードとシザリオの二人だけである点を除けば、である。

初め、というよりは今も、シザリオはもとよりクロードにも、これがなんなのかわからなかった。一般に御幸と呼ばれるものとは全く逆の任務なのだ。任務なのか、軍務なのか、政務なのかの区別はおろか、具体的にこの任務で何を求められているのかすらいまだにわからない。流石にただ護送すればいいだけではないことくらいはわかったが、それでは何もわからないのと同じことだった。

ただ、用意された荷物の量は、ナヴァデア―エルシノア間の最短行程であるはずの四日分どころではなかった。長期の旅を想定したものだと一目でわかる分量で、それもまた、この任務が、ナヴァデアかあらエルシノアまでを最短経路で移動すればよいという任務ではないことを示していた。

それ以外のヒントは、一切出なかった。

どうしようもなかった。それで、行き先のない自由な旅をすることにしたのだ。

なぜ自分に、今更こんなことをさせるのか。それがクロードには分からなかったらしい。しきりに不思議がっていたが、それはシザリオにとっても、同じかクロードが感じた以上に不可解なことだった。

クロードは王宮に引き取られて以来ほぼ九年ものあいだ、ほとんど飼い殺しにされていたのだ。

冷や飯食い。

庶子。

それは、神託の巫女組織を源流とし、諸外国と比べても血統を重んずる傾向の強いマグノリアにおいて、他の王子や姫はおろか貴族や旗本にすら劣る、穢れた血として差別されるということと同義だった。

一定の形式上の尊敬と立場のみを与え、一切の職務を与えることなく何もさせずただ腐らせる。それが、現王家プロペスロー家の出した、彼らにとって初めて相対する『王家の庶子』というものに対する対応の結論だった。

 そのことは、まだ幼くすらあるオーフェリアもなんとなく感じていたらしい。昨日の日の出とともにナヴァテアの王宮を出発して以降も、態度は兄と妹のそれでは無く、完全に家臣と主家の姫君のそれだった。

それでも、クロードはどこかで、兄と妹という意識を捨てきれていない。

モラリストというよりは、どこか優し過ぎるのだ。甘さ、と言う方が正確かもしれない。

エルシノアへ向かおうとしていることだって、クロディアス王の命令であるからということ以上に、生まれてから今まで一度も王宮から出たことのないオーフェリアをたった一日で王宮に戻すのをあまりに不憫と思って主張していることだとシザリオは考えていた。

 もしナヴァテアに戻れば今度こそ本当に、永遠に外の世界を見ることができなくなることは明白だった。オーフェリアは今のマグノリアにとっては欠かせないピースなのだ。それを確保し続けるためなら一人の人間を生きながらの死に追い込むことくらい簡単にやる。

それをわかっているから、クロードは無理にでもエルシノアに向かおうとしているのだ。エルシノアについたところでどうしようもないということも分かりきっているが、それでもナヴァテアに戻るよりマシなはずだ。少なくともクロードは、そう考えているだろう。意識せずとも、頭のどこかでそう考えているのだ。

そういうクロードの甘さがシザリオはたまらなく好きだったが、それが愚かさと紙一重のものであることもよくわかっていた。

そして今、それは愚かさの方に出ている。シザリオはそう思っていた。

 集めた冷気で火を消す。闇の中で、シザリオは小さな溜め息をついた。



「ダメと言ったらだめです。責任があるんです」

 クロードはいい加減にうんざりしていた。

ダメ。

責任。

王女だから。

 この娘は、この三つ以外の言葉を一つも知らないのではないかと本気で思えてきた。 それほど、この三つの一点張りなのだ。

いい加減に腹が立ってきた。

右腕が痛い。全身痛むが、右腕だけは火の中に突っ込んでいるような痛みだった。

戦闘の高揚が消えた所為であることを頭ではわかっていたが、目の前で強硬な主張を続ける可憐な少女の所業のような気がしてくる。

なぜ、俺がこんなに頑固なお姫様の御守をしなくてはいけないのか。とも思った。

結局のところ御守をしている方が、ただ死んでいないだけの王宮での暮らしよりはマシなのだ。

そんなことも、頭ではわかる。しかし、そういう問題でもなかった。

「剣、洗い終わりました。どうしますか?」

シザリオが傍に来て言った。それでオーフェリアは静かになった。いくら頑固とはいえオーフェリアも一流の教育を受けた淑女の卵、ということなのだろう。

「左に」

どうしますか。というのは、左右に一振りずつ置くのか、動く左腕の方に二振りまとめて置いておくのかということの筈だ。警戒を緩める気は、無い。

シザリオは左腕のそばに二振りの剣を並べると、右腕の包帯を替え始めた。

 普段から、シザリオはクロードの身の回りのことをほとんどすべてやる。それはクロードの生活力の欠如という需要と、シザリオのそういうことの一切をやりたいという供給の一致によって生まれた悪しき習慣だったが、とはいえ今日は慣れないオーフェリアが加わった分二倍の仕事をしているのだ。いや、動けない自分の介護を計算に入れれば三倍を超えるだろう。後でなにか褒美を与えたほうがいいかもしれない。シザリオがそれを受け取らないことはわかりきっているのに、クロードは性懲りもなく考えていた。

「ねえ、」

 不意の呼びかけに思考を中断され、クロードは束の間、声の主を探して視線を泳がせた。

オーフェリアだった。

彼女らしからぬ声で、一瞬誰だか分らなかった。責任とか次期王女とかを繰り返している時の、小さい金管楽器のように張り詰めた硬質な声とは全く違う、柔らかく耳に心地よい、子供らしい子供の声だった。オーフェリアのこんな声は初めて聞く気がする。この年の離れた妹と謁見という形式以外で関りを持った記憶は、クロードにはほとんどなかった。立場が違うのだ。

「なんですか?」

 内心、驚いている。しかしここで食い気味に行けば、また態度が硬直する気がした。だから、逆に何でもないように言ってみる。

「お兄様は剣を二本使うのですか?たしか、御前試合の時は、一本だけだったと思うのですけれど」

「あっ」

 今、自分は間抜けに見えているだろう。

綺麗な声の真っ当な質問に対して、自分の声と答えははあまりにも間抜けだった。

オーフェリアのくりりとした、大きな、明るい紫色の瞳から、答えを期待する熱い視線が注がれる。

「…えーっと…確かに、御前試合では、一振りだけしか使いませんでしたね…」

 紫色の目を直視ししないように目線を逸らしながらクロードは答えた。

「ひとふり?一本のことですか?」

 無言でうなづいた。オーフェリアは細い首を何度か捻って考えるような仕草をしている。

「なぜ、ひとふりしか使わなかったのですか?あれほど大きくて、みんな必死で頑張っている大会、見たことがありませんもの、きっととても大切な大会だったのでしょう?そこで使わないのに、いったいいつ使うのですか?」

 首を捻り終えたオーフェリアが出したのは、まったく真っ当な疑問だった。

 それは、完全にアウェイである王宮内で、自分の全力を出し能力の限界を晒すことは危険すぎるからです。

本気を出して、ちゃんとした家柄でお育ちの良い王子や姫や良家の子弟子女に勝ってしまうと面倒そうだからです。

そんなことを言えるはずもない。二振りの剣を遣うことはずっと隠し続けるつもりだったのに、盗賊の襲撃に慌てて完全に意識から抜け落ちていた。

「…なんででもです」

 とりあえずで、クロードは答えておいた。

単純に、オーフェリアを納得させられるほど筋の通った言い訳を思い浮かばなかったのだ。

「なんででもって……」

「大人の事情、というものです」

 いい具合に任務の目的地のことから話がそれてきたことに気が付き、内心ほくそえみながらクロードは相槌を打った。二振りの剣のことはバレた以上仕方がない。後でオーフェリアに口止めをすればいい。

「大人の事情なんておかしいです。きちんと説明してください」

「だから、それができないのです」

「なぜですか?なぜ説明できないのですか?」

「それは……」

「納得できません!」

 また金管楽器。クロードは閉口した。

気が付いたときには遅い。

落とし穴を踏み抜いていた。

要するに、真面目すぎるのだ。その真面目さが王女という成長環境の所為で大きく助長され、頑固というところにまで至ってしまった。

クロードは、いつのの間にか憐れむような気分に包まれている自分に気が付いた。

「庶子には、そういうことが必要なのです。貴女には解らないでしょうがね。何もこっちだって好きにやっているわけじゃないんだ。」

 思わず、正直に答えていた。

声に威圧の色があることに、クロードは気が付いた。オーフェリアは、二、三度口をパクつかせたかと思うと、それきり黙り込んでしまった。俯いて膝を抱え込んだまま、ぴくりとも動かない。。

苛立ってはいない。しかし何かを逆撫でされたような気分だった。

「クロード様、狐がいましたよ狐が」

シザリオが戻ってきた。手には、干し肉の袋が握られている。

クロードは、救われたような気分になった。

オーフェリアが泣きだすかもしれないと思ったからだ。

その時、一人だとどうしたらいいのかわからない。

「それはなんですか?シザリオ」

 間髪入れずにオーフェリアも反応した。まるで助け船に乗ろうとしたかのように。

「干し肉みたいですね。肉の種類はわからないのですが」

「干し肉…ってなんですか?」

 オーフェリアの質問は、ある意味当然だった。大陸を分ける六つの大国の中で最も辺境に位置し、最も小さい国であるとはいえ、マグノリアは歴史のある国である。その正統を継ぐ姫たるオーフェリアが、干し肉というものを知っているとしたら、その方が寧ろ不自然だった。

 シザリオが、オーフェリアに干し肉というものについて説明し始めた。

シザリオはオーフェリアのことを嫌っている気配があるが、たぶんそれはオーフェリアの、あのガチガチに塗り固められた作り物臭い面が生理的に好きになれないというだけのことで、人間としての本質的な相性は悪くないとクロードは思っていた。多分、自分もそうだ。

シザリオの説明が終わったようだ。

オーフェリアが恐る恐る、干し肉の端を噛んだ。

小さな、柔らかそうですらある歯が覗く。オーフェリアは、歯の造形まで綺麗だった。なんとなくいけないことをしているような気分になって、クロードは視線を火に移した。火のたてる乾いた音がやけに大きく聞こえる。

すぐに手持無沙汰になり、クロードは周りを見渡した。森の奥に狐を見つけた。一匹で、たき火の灯がギリギリ届くかどうかくらいのところをうろうろしている。目が合ったが、すぐに隠れてしまった。シザリオが言っていたのはたぶんアイツのことだろう。この時期に、狐がいるのは珍しいと思えた。詳しいことは知らない。オーフェリアにいろいろ言ってはいるがクロード自身もあまり外の世界を知らないのだ。

「おいしい…のでしょうか?」

オーフェリアが、咀嚼していた干し肉を飲み込んでからそう言ったのは、かなり経ってからだった。口の中で、流動食のようになるまで噛んだのかもしれない、とクロードは思った。

オーフェリアは、不思議そうな表情で、時々干し肉を口に運んでは首を小さくかしげている。その子供らしい仕草の一つ一つが、先ほどまでの硬質な感じとのギャップで際だてられていく。そしてそれが、クロードの心の中に居座る後ろめたさに少しずつ塩を刷り込んでいく。

「まずまず、というところではないですか?」

 クロードが何も答えなかったので、シザリオが気を利かせて話を振ってきた。

「うん」

 答えたが、それきりだった。

「クロード様も食べてください」

 シザリオが干し肉をクロードが噛みやすいような位置にもってきて言った。

「好きじゃない」

「承知しています」

「普通の肉なら」

「それも、承知しています」

「今じゃなきゃダメか?」

「血を失いました。回復には、肉を食べる必要があります」

「狐がいた。あれならどうかな」

「貴方が食べたいのであれば、獲ってきますが」

「……」

「さあ」

「……あーんってやつ?」

「いけませんか?」

「姫様もいらっしゃるのに、流石にそれは……」

「じゃあ、ご自分で食べられますか?」

クロードは答えずに、差し出された干し肉を受け取ろうと試みたが、干し肉を持つどころか腕を上げることすらできなかった。

仕方なく、シザリオが持っているものをそのまま噛んだ。

それを見たオーフェリアが、また見てはいけないものを見せつけられたとでも言わんばかりに、耳まで真っ赤にして俯いた。

それを見たシザリオもまた、少しだけ眉を動かした。

しばらくの間全員で黙って干し肉を食べた。

「クロード様、一つ提案があります、姫様にも」

 干し肉を食べ終わったあと、馬車に行ったシザリオが戻ってきて言った。大きめの旅行鞄のようなものを持っている。クロードはそれに見覚えがあった。

「シザリオお前……」

 時々、この忠実で有能な従者のことがわからなくなる。

大胆なのか、それとも、狂ってるのか、がだ。

「そうですクロード様」

 少し得意げに言う。

飽きれて声も出ない。そもそもそんなものが何で積み荷にあったのかすらよくわからない。

「待ってください、なんなのですかそれは」

 疑問に耐えきれなくなったのか、オーフェリアが微かに食い気味でシザリオに質問した。

「これはプロペスロー家伝統の、諜報活動用変装セットです!」

 どこか自慢げなシザリオと対照的に、オーフェリアはぽかんとしている。

「要するに、スパイ用品ということですよ。姫」

 補足してみるが、伝わったかどうかはよくわからなかった。

クロードの主家であるプロペスロー家には変わった伝統が少なくない。

その伝統の一つに、上級将校が直接敵地に潜入して、諜報活動を行うというものがある。その家に当主―つまり、後のマグノリア王クロディアス――の息子として引き取られたクロードにも、当然その伝統を実行する準備をする義務があった。

「中身なんだっけ、それ」

 シザリオに聞いてみた。クロードは中身を覚えていない。数年前、そろそろ初陣という年齢になったので用意だけはさせられたものの、十九歳になってもまだ初陣すら飾れずに王宮の隅に押し込められて、一切使う機会がなかったからだ。

「二つありますが、持ってきたのは『路上で剣舞を披露して日銭を稼ぐ旅の芸人セット。笛吹のアシスタント付き』の方ですね」

 タイトルを聞いて、クロードは忌まわしき黒歴史の記憶と共に鞄の中身を思い出した。何とか隠滅しようにも今更遅い。

「……使えないじゃないかそれ」

「ねえシザリオ、使えないってことは、もしかして剣舞をするのって……」

「ええ、クロード様です。それはそれは美しい舞をなされます」

 オーフェリアの質問に、微かだが得意そうな声音でシザリオが答えた。迷惑以外の何物でもなかったが、とりあえずクロードは黙っていた。

「え、じゃあ、男の方二人で、夫婦ということは、どちらかが女装なされるということですよね?」

「ええ、もちろん」

 シザリオを黙らせたい。しかし四肢が動かないのではどうすることもできない。頭を抱えようにもそれすらできないのだ。

「どちらが奥さん役をやられるんですか?二人とも男の方ですけれどすごく美形だから、きっと本物の女よりも綺麗なんでしょうね?」

「ええ。私も結構自信ありますよ」

 得意になっていることがはっきりわかる声音と仕草でシザリオが答えた。

 声を上げてみようか真剣に検討した。それで止まるはずもないのでやめた。腹をくくるしかない。

「で、どちらが?」

 厳かに、オーフェリアが言う。

「………」

 息をひそめ、二人が目を合わせて、緊張感を演出している。息ピッタリだ。本当にやめてほしい。

「……クロード様です」

 わざと小声で、シザリオが言う。とても嬉しそうだ。シザリオのこんなにうれしそうな様子を見るのは久しぶりという気がする。

「まあ!」

 女子というものは、女装男子に対しての好感度の基準値がかなり高いのかもしれない。笑顔こそ無かったが、声を上げてこちらに顔を向けたオーフェリアを見てクロードは思った。

苦笑で返す以外、打つ手はない。

「そんなことできるのね兄上様。オーフェリアはそんなこと知りませんでした」

「………まあ、そういう感じの剣術流派だってだけですから……」

 言い訳にもなっていなかったが、オーフェリアは納得したらしい。シザリオが広げ始めた鞄の中身の方に目を奪われたようだ。

なし崩し以外の何物でもなかったが、取り敢えずエルシノアに行くということで決まったようだ。全く新しいイベントを次々に起こし、オーフェリアの興味をそちらへ引っ張ってなしくずしにさせたシザリオのファインプレーという他ないだろう。苦々しいが、それは事実だ。女装に限らず、人目を集めることそのものが好きではないクロードにとって、芸人などという職業は苦痛以外の何物でもなかったが、今はそれにも目を瞑るしかなかった。

クロードの心中の葛藤など知る由もないオーフェリアは、シザリオにカバンの中身を見せてもらって目を輝かせている。

頬が緩んだ。それに、クロードは少しだけ驚いた。

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